性的マイノリティとして社会にどう向き合うか?
(2021年5月14日の記事を再掲)
「LGBTQ法」成立の2年前に書いた文章でなので、
すでに過去のものとなった部分もありますが、
法制定によりいよいよ、性的マイノリティのあり方が、
日本国民と社会に、問われようとしています。
責任と自覚を新たにするために、あらためて掲載しました。
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性的マイノリティ当事者として、
社会を威圧し、言論萎縮を招きかねない
アイデンティティ・ポリティクスへの加担を拒否します。
同性愛者であることを、今ほど苦々しく感じることはありません。
それは、従来言われてきた社会的偏見や無理解のせいではなく、
LGBTQ権利拡張運動が日本社会にもたらす、
混乱と分断を憂慮するからです。
レインボーフラッグを掲げる「LGBTQ活動家」とは、
異なる意見や考えを持つ性的マイノリティ当事者や、 一般社会との忍耐強い対話を拒否し、
独善的な主張を繰り広げながら、性急な法制化を求める、
全体主義的なLGBT運動には賛同できません。
「性的マイノリティ=差別の被害者」というイメージを払拭して、
社会における望ましい共生のあり方を考えるべきです。
LGBT運動は確かに、それまで見えない存在として
孤立し悩んでいた性的マイノリティの人々に自信を与えました。
仲間との出会いや情報を得る機会も増えました。
しかしその一方で違和感を覚え、失望して離れていったり、
その主義主張や運動の実態を、厳しく批判する当事者も多いのです。
私自身も同性愛者として、最初はよく知らないまま、
同じ属性を持つ者として応援していましたが、
多様性と包摂、寛容や共生といった、誰もがうなずく理想に隠された、
LGBTQ運動の源流が、60年代の性革命から共産主義革命にまで遡る、
性別をはじめ、結婚や家族概念の書き換えによる相対化を通しての、
社会解体運動であることや、宗教や国家、伝統的価値観への敵意と攻撃、
倫理規範の否定による性的逸脱の容認、子供たちの心身を滅ぼす性侵略、
異論や批判、疑問や懸念さえも差別やヘイトと呼んで封殺する圧制、
身体を精神を分離させ、人体を資源に供する人間性の総否定、
暴力的アンティファ勢力との結託、一般社会や市民に対する威嚇に驚き、
こんものは間違っていると思い離脱しました。
マイノリティの私事に他ならない「性的指向」や「性自認」が、 反差別運動に利用されることで、社会をかえって混乱、萎縮させ、 批判者を黙らせ、糾弾する「刃」となることに、断固抗議します。
ところでいま、「多様性を調和」を謳う東京五輪を前にして、
性的マイノリティに関する法整備(LGBT新法)が進められており、
自民党は「理解増進法案」の、今国会成立を目指しています。
これに対して野党は、LGBT活動家の意向を取り入れた
「差別解消法案」を提出し、詰めの協議に入っています。
「LGBT議連総会に役員参加。差別解消法(野党側)と理解増進法(自民)のギリギリの調整。国民の一部を国民の理解増進の対象にするような方向性には違和感が拭えない。そもそも求められているのは差別をなくすことなのに。当事者の思いを大切に何とか最善の1歩を実現したい」
(山尾志桜理氏のtweetより 2021年5月10日)
しかし、性的マイノリティ当事者の間でも意見が対立しているのです。
良かれと思ってしたことが、望ましい結果を招くとは限りません。
LGBT新法は、一部「当事者の思い」にのみ寄り添うものではなく、
社会全体の利益を目的としたものでなければならないはずです。 法制度は、起こりうる最悪の想定、シミュレーションに基づいて 構築されなければならないと言われる所以です。
野党の「差別禁止法案」に懸念が持たれる大きな理由は、
「何が差別であるか」を明確に定義していないことです。
そのため、所謂「朝田理論」によって、ある行為が差別に仕立てられたり、
トランスジェンダーへの配慮によって、女性の権利が大幅に後退したり、
LGBT批判を展開した月刊誌『新調45』が休刊に追い込まれたような、
言論や思想統制にも繋がりかねない等の、批判の声が挙がっていますが、 それは決して杞憂ではなく、既にネット上では多数発生しているのです。
私自身は、与野党どちらの法案にも、
偏りと行き過ぎがあるので、賛成できません。 個別の人権侵害があれば、いまある法律で対応可能だと思います。
一般社会にとけこみ、LGBT運動にもカミングアウトにも関心なく、 静かに暮らす当事者のほうが、LGBT活動家よりも圧倒的に多いのです。
彼らは(筆者も含む)、日陰で生きている不幸な被差別者でしょうか。
性的マイノリティによる、マジョリティへの「差別」はどうでしょうか。 マイノリティとマジョリティの力関係は、いつでも逆転するのです。
リベラル市民が8年がかりでも、安倍政権を倒せなかった失意。
有権者無視の離合集散を繰り返し、国民の信頼を失った野党。
コロナ災害に有効な対策を示せない管政権の支持率低下に、
オリンピック開催すら危ぶまれる、この混迷の時期においてすら、
なおも民意の受け皿となりえない野党は、なぜこの国にいま、
アメリカ社会を分断した、
アイデンティティ・ポリティクスを持ち込むのでしょうか。
LGBT運動が問題にしている、「性的指向」や「性自認」とは、
個々人それぞれの、私的領域に属する事柄であって、
世の中には、そうした属性をもつ人々もいるということを理解して、
差別をしないのは、民主主義社会の成員として当然と考えますが、 法制化による、性的マイノリティへの特別な配慮や理解は、
かえって社会や人間関係に緊張感を生み、不和や不信を招きかねません。
平等であるとは、冷遇にせよ優遇にせよ、何人も特別扱いしないことです。
当然ながら「マイノリティだから」も言い訳になりません。
一部では同情的だった世間も、平等であればこそ厳しくなるでしょう。
LGBT運動が筋違いに批判する、社会の大半を占めるマジョリティとは、
甘い汁を吸いながら、差別に無自覚な「特権階級」などではなく、
辛い日々、理不尽な出来事にも忍耐と寛容、自制心と公共心をもって
黙々と共同体を支えながら、わたしたちのために生きている、
有名無名の市民、隣人や家族に他ならないのです。
社会そのものである恩ある人々を、歪んだ目で見るのは不当です。
いつまでも被差別者を自認して、多様性や寛容を武器に、
自分たちの要求通りに、社会制度ばかりか意識まで改造すべきであると、
徒党を組んで騒ぐ「ノイジーマイノリティ」のままでいいのか。
マイノリティもマジョリティも、性的属性も、右も左もなく
法の下に平等で、基本的人権が保障されたこの国の一員として、
社会に対して、どんな貢献や恩返しができるかを考えるか。
性的マイノリティ属性を自覚する人々には、
いま自分たちを理解しようと舵を切った社会に対して、
いかに責任をもって向き合うかが、試されていると思います。
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