いつかくる、この世界を去る日のこと
三寒四温の東京よりこんにちは。
なかなか春らしい日が続かないまま、4月も後半ですね。
最近、死ぬことについて考えたので(言葉のパンチ力…)その自分語り。
今日初めて考えたわけではなく、これまでも考えてきたことをまとめてみます。
死を初めて意識したのは、小学生くらいの、もっと幼かったかもしれない子どものころ。
いつか母が先に死んでしまうということを知って、それがとても悲しくて怖くて、号泣したことがあるのを覚えています。
タイトルを忘れてしまいましたが、アナグマさんがトンネルの向こうに行ってしまって戻ってこない(=死んでしまった)、という絵本がとても怖かったことも。
思えば、この死に対しての恐怖心は、今もそんなに拭えていないのかもしれません。
子どもながらにいろいろありつつも、小中学校を卒業して高校に入学した年の夏、幼なじみが事故で命を落としました。
呆気なく、現実味のない別れ。人生で初めて、身近なひとを亡くしてしまった経験でした。
このときのどうにも喩えようのない喪失、悲しみ、残される家族の気持ちなど、幼いながらも刻みつけたはずでした。それなのに、大学に入ってしばらくした頃、わたしは自傷行為が止められなくなって消えてしまいたかった。人生を終わらせてしまおうとしたことも、あった。
怖くて、終わらせられなかったけれど。
今はもう衝動で人生を終わらせたいと思うことはなくて、でも、永遠に生きていけるわけではないのだともわかっている。いつか必ず、人生を終える日はくる。
消えてしまいたかったわたしを、また生きたいと思わせてくれたのは間違いなく夫で、それは得難くありがたいこと。だから、というわけではないけれど、わたしの人生の目標のひとつは、彼より後に死ぬこと。彼が人生を終えるときに、わたしは絶対そばにいると決めている。
今も、いつか人生は終わる、と考えるのは怖い。でも、以前のような不安ではない。
書いてしまえば月並みだけれど、今は大事にしたいひとたちがいるから、生きていてしあわせだと感じる瞬間が増えたから、生が終わるのが寂しい。そのひとたちと、別れる日が来ることを考えると悲しい。
だから日々を愛おしむ、というのが常套句なのかもしれないけれど、それは頑張りすぎると窮屈だ。何事も、過剰は呪いになり得る。
日々を愛おしまなくては、楽しまなくては、と気を張り詰めて生きるのはきっと苦しい。と言って、力の抜き方は、もうずっとわからないけれど。
愛しく思えない日もある。
悲しくてやってられない日も。
わたしはネガティヴを嫌いすぎているかも。悲しい、寂しいが嫌いすぎて、だから死ぬのが怖いのかも。
生ききった先に世を去るのは、きっと悪いことではないはずで。だから、その日まで精一杯生きていたい。
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