スタァライトの『罪』 ~舞台の、舞台少女の、キリンの、そして我々の~
walterinsect
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はじめに
舞台芸術には、人を魅了する力がある。衣装が、照明が、舞台装置が、化粧が、音楽が、全て同じ目的のために同じ方向を向き、共鳴しあい、舞台の上に新たな世界を顕現させる時、そのキラめきは役者を「役」へと導く。所作、視線、台詞、表情の全てが揃った時、役者はキャラクターと重なり合い、儚くも多重的に舞台上に現れる(*1)。
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は2018年放送のTVアニメ作品である。舞台芸術に生きる舞台少女たちをテーマに「トップスタァ」を目指す戦いを描く。2020年には総集編劇場版である『少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』が、2021年には完全新作である『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』が公開された。このアニメ作品群はブシロードとネルケプランニングによるメディアミックスプロジェクトの一環であり、アニメと並列に原作性を持つミュージカル(通称「舞台版」)、そしてスマホゲームや各種漫画作品をあわせた作品群の中に位置づけられる。
映像作品としてのパートを担うこの三作はいずれも外連味のある映像、キャラクターの関係性、謎めいたストーリー展開、メタファー・アレゴリーを多用した表現など、監督を務めた古川知宏の師とも呼べる幾原邦彦の影響を感じさせるアニメ作品となっている。ネットに上がっている様々な感想からもわかるようにこの作品を「語る」ことのできるテーマはいくつもあり、本論文集にも様々な視点から考察を試みた文が多くある。その中でも「罪」は際立って目立ち、かつ射程の広いモチーフであると筆者は考える。
そこで本論考では、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を核として取り上げ、作品内の描写を「罪」という視点から分析を試みる。紙幅の関係上、まず誰の罪について語るのか、を明確にする必要がある。
全ての「舞台芸術」(Performing arts)にはその定義上、「演じるもの」と「それを見るもの」に二分された構造を持つ。当然現代においてはその二元論に疑問を投げかける「第四の壁」を超える作品も存在するが、基本的には「演者—観客」という構造は変わらず、その規模が大きくなればなるほどその構造は強化された形で発現する(*2)。
「スタァライト作品群」は基本的には舞台少女、つまり演じるものの物語である。一方で「それを見るもの」なしに舞台は語れないのである。本論考ではまず舞台とはどういう場であるのかを整理した上で、大きく「演じるもの」「それを見るもの」の二つの要素に焦点を当て、罪について論じていく。
以下作品名についてそれぞれ「TV版」「総集編」「劇場版」と表記し、アニメ版全体については「スタァライト」と表記する。舞台版は「舞台版」、またそれらメディアミックス作品をまとめて「スタァライト作品群」と呼称することにする。
「スタァライト」には先述の通り一見難解なモチーフが多用されており、作品中に登場する概念は時に複数レベルに渡って抽象化されている。つまり、複数の具体的な現象を代入することで理解を深められるような構造となっている。幾原邦彦作品にも共通する特徴だが、そういった一対多の構造を持つ要素の分析においては、読み手がモチーフにそれぞれ何を代入するかによって様々な解釈が存在しうる。そのうちの一つとしてこの論考がこのキラめく舞台に迷い込む旅路の道標になれば幸いである。
*1 この重複性と中間的な存在のあり方については下記を参照。収録の他論考についても「スタァライト作品群」のような2.5次元性を持つコンテンツを読み解く視点として参考になる。
川村覚文, 声優‐キャラ・ライブという例外状態 その条件としてのオーディエンスの情動と主体, ユリイカ, 青土社,2016年9月臨時増刊号, 2016,pp.124-131.
*2 九九組の公演といわゆる「地下アイドル」文脈での物理的・心理的距離を想像してほしい。
罪の定義
罪を取り上げるとしても、そもそも「罪」というモチーフは様々な解釈が可能である。法的に定義するならばそれは「法律に反する行為全般」(*3)になるだろうし、宗教的に定義するならば「聖典に定義された行動規範からの逸脱」だろう。参照する規範に応じた答えがあるのならば、少なくとも論考のための暫定的定義(Working Definition)として何かしらを定義する必要がある。そしてスタァライト作品群における罪の定義を探すには、作品世界に沿った形で参照元を選定すべきだと思われる。
その参照元として取り上げるならば、作中劇である『戯曲 スタァライト』ほど最適なテクストもない。愛城華恋と神楽ひかりの始まりの作品であり、聖翔音楽学園99期生が三年間演じる演目として作品中に幾度となく登場する。しかし我々鑑賞者に対しては断片的にのみ内容が明かされている作品である。明かされている部分(*4)としては、
塔に幽閉された女神たちは「罪人」であること
それぞれには〇〇の女神という形で「罪」の内容と思われる名前がついていること
「再演」を繰り返した第99回聖翔祭公演で、それぞれ天堂真矢と西條クロディーヌの二人以外の六名にこの役が割り振られていることがある。この三つを始点とすることで「スタァライト」における「罪」の考察が可能なのではないかと考える。
加えてこの『戯曲 スタァライト』は本作の核として各楽曲の作詞を担当する中村彼方によってメタフィクショナル的に執筆されている。「あて書き」として99期生、かつ九九組の九人のために書かれたシナリオであれば、与えられている役回りも各キャラクターの実態に沿ったものとして設定されているように思われる。
そういった理由から、本論考においては、『戯曲 スタァライト』に登場する6名の女神に割り振られた激昂・逃避・傲慢・呪縛・嫉妬・絶望(*5)のいずれかに当てはまると思われる事象を「スタァライト」で語られる「罪」として取り扱うことにする。紙幅の制限上、特に主人公である(*6)愛城華恋に割り振られた「傲慢」に焦点を当てていきたい。
*3 辞書的にも下記のように複数の定義があるが、法律、倫理、宗教などの分野で微妙に異なるため、作品分析においては作中概念を導き出すことが重要だと考えた。
松村明(監修), “罪”『デジタル大辞泉』, 小学館, goo辞書, 2022年5月15日閲覧,https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%BD%AA/
*4 Project Revue Starlight,『総集編』BD特典設定資料集「2Dワークス」,@saboteng23, “THE STARLIGHT GATHERER”, Privetter, 2022年3月6日閲覧,https://privatter.net/p/6258318.
*5 Project Revue Starlight,『総集編』BD特典設定資料集「2Dワークス」“オーディションのお知らせ”.
*6 華恋の主人公性には議論の余地があるが、便宜上の呼称である。
罪と舞台の構造 「選ばれないことは死ぬこと」
現代の舞台芸術の多くは舞台の規模が大きくなるに従い、より多くの演者候補から淘汰され、ふるいにかけられて残ったものが舞台に上がるようになっている。その舞台にふさわしい役者だけが板の上に立つことを許されるのだ。
役者だけではない。舞台上の全てはその舞台で行われるパフォーマンスのために存在しており、そのための働きを要求されている。加えて「チェーホフの銃」というルールが表しているように、舞台においては、そこで語られる物語にも意味を持たせることを要求される。
先述の通り、舞台芸術は「舞台に上がるもの—それを見るもの」の二元論的構造を含む。この二元的な分かれ方と舞台上のものへ意味を求める特徴を踏まえた上で、それが舞台少女に与える影響について考えていきたい。この影響は「スタァライト」作品内では主に二つの現象を通して描かれているように思われる。一つ目は舞台少女たちを支配する「舞台から降りる=死ぬ」という死活問題的な世界観だ。2つ目はそうした世界観の中で[三兎3] [三兎4] 死なないために彼女たちが身につける生き方の「視野狭窄性」である。
総集編・劇場版では、数度にわたって舞台少女の死が描かれる。それは彼女たちが舞台に立つ意味を失った時に起き、その現象は「キラめきを失う」というフレーズで表現されている。そのときの舞台少女は精神的安定を欠き、ある意味で抑うつ傾向まで読み取れる状態になる(*7)。「総集編」「劇場版」ではもう一歩踏み込み、レヴュー内での舞台的リアリティの中で舞台少女は実際に「死ぬ」描写がされている。例えば、「総集編」終盤の血染めの舞台や、「劇場版」での華恋や他の舞台少女たちの死体など、ショッキングな画面で描かれている。存在意義を舞台によって定義された舞台少女はその求めに全力で適応し、舞台に求められなくなれば死んでしまう。彼女たちは舞台上で死ぬか生きるかの闘争に身を置いている、という世界観が、「スタァライト」では強調されているように思われる。
その世界観の中で、舞台少女は「舞台に上がり続ける」というその一点に集中し、ときにそれ以外を捨て、舞台のスタァを目指すことになるだろう。この生き方の「視野狭窄」によって彼女たちは全力でそのためのスキルを磨き、トップを目指す。一方でそれは役者の持つ手札から「舞台」に関するもの以外を消し、やがて彼女たちは舞台でしか生きられなくなっていく。後述するが、その道すがらこぼれ落ち犠牲になっていくものは多い。「スタァライト作品群」には、そういった狭窄が読み取れるフレーズが頻出する。台詞や歌詞で繰り返される「舞台に生かされている」というフレーズ、「劇場版」の『MEDAL SUZDAL PANIC◎◯●』の歌詞「何もかも捨てたのよ 晴れ舞台 この日の為に」など、全てをかけて舞台に立つという姿勢がその例である。
舞台少女の罪「何もかも捨てたのよ 晴れ舞台 この日の為に」
自己の生存のために「スタァ」を目指し、そのために他者を蹴落とすという姿勢は、たとえそれが舞台の構造によるものだとしても、傲慢と言えるだろう。「スタァを目指す」に含意されているのは、同じように全てを捧げて舞台を目指し、舞台に上がれなければ「死を迎える」とわかっている同類と競い、蹴落とし、舞台のトップに上り詰めるということである。
これが舞台少女の中核にあるならば、第99回聖翔祭の『戯曲 スタァライト』において「傲慢の女神」の役どころを演じた愛城華恋が「スタァライト」の主役を担うことは必然だったと言える。それこそが舞台少女の原罪であるからだ。その傲慢さとどう向き合うかという内省が「スタァライト」全体のテーマになっているように思われる。
TV版では誰のキラめきも奪わせずに華恋とひかりが二人で夢を叶える姿が描かれたように、そのあり方に疑問を投げかけることが物語のメインに据えられていた(*8)。一方、「劇場版」では、「舞台は自己以外を血肉として生きる罪人たちの空間である」という世界観がむしろ強調されている。
傲慢さとは罪である。では、舞台少女の傲慢さとは、具体的にはどのような罪なのだろうか。先述の通り舞台に立つものは、他を蹴落とし、踏みつけて進んでいくことになる。またそのために人生の多くを舞台に捧げていることを指摘するのも、「スタァライト」の主題の一つであるように思われる。
華恋の過去を描く「役作り」とその焼却は、そうした「舞台に至るために燃やされる過去」だろう。「劇場版」では「普通の喜び、女の子の楽しみ」を捨て、舞台に捧げる舞台少女の人生の一つとして華恋の過去が再演される(*10)。そこでは幼稚園、中学校時代の華恋が、普通の女の子の楽しみの表象であるキラミラや放課後のドーナツ屋での修学旅行計画などから離れる姿と、その道を歩みだすきっかけとなったひかりからの舞台への招待が描かれる。「最後のセリフ」を言うための「再生産」で、華恋の級友たちと過去の「華恋たち」は、舞台少女としての華恋を前に進ませるためにロケットエンジンの炎に焼尽される。過去との決別は他にも決起集会で読み上げられる第101回聖翔祭版の『戯曲 スタァライト』の台詞の「生まれ変われ、古い肉体を捨て」から始まる台詞からも読み取ることができる。
トップスタァを目指す旅路において、舞台少女はオーディションという形で他の舞台少女と戦い、彼女たちを倒すことを宿命付けられている。これらに参加しながらも他の舞台少女のキラめきを奪わないことで、トップスタァになることそのものを忌避したのがひかりである。「TV版」での彼女の運命の舞台では、ロンドン時代のレヴュー経験から、キラめきを奪わない選択をした彼女の一人芝居が描かれた。そして「劇場版」でのひかりは「華恋のファンになってしまうこと」を恐れてロンドンに戻る。「キラめきを奪うこと」「キラめきに焼かれること」の2つを恐怖する彼女は「競演のレヴュー」でまひるの決意と優しさに触れ、「華恋にとってのスタァ」として再び舞台に上がる。
他にも「TV版」で自らも他者の上に立ち、踏みつけているという事実から目を背け、排除される弱者を「自分が守る」という傲慢のもと再演を繰り返したななは、「狩りのレヴュー」で純那に対して「停滞し醜く腐るならば自分が介錯してやる」という「優しさ」を発揮し、再び「傲慢」のもと行動している(*11)。
他者より上に立つための欲望に葛藤したのはひかりやななだけではない。「魂のレヴュー」で描かれる真矢とクロディーヌの掛け合いは、舞台に立つ己の欲望を透明にした真矢と頂点を追いかける欲望を忘れたクロディーヌ(*12)が、レヴューを通して舞台に立つその原動力を再認識するプロセスであった。
「皆殺しのレヴュー」後、舞台少女としての死を目の当たりにする七人のブーツが血で満たされているのは自身の死だけでなく、舞台少女が歩む道が血と罪にまみれていることの象徴だろう。舞台に上がることは、一方で他者を魅了する力に満ちたキラめきを生み、もう一方で他者を蹴落とし傲慢の罪にまみれた道を進むことを意味する。
さらに言えば、彼女たちが生み出すキラめきの功罪についても、「劇場版」では触れられている。劇中、華恋とひかりが子供の時に見た「舞台」に魅せられて舞台少女を目指すことを決意する。また同時に、華恋はそこに誘ったひかりとその約束をもとに、舞台に上るための道を歩みだしたことが描かれる。一方ひかりはその時に諦めようとしていた道を、華恋に手を引かれ舞台少女としての道を歩みだす。同様のことはTV版で語られる純那の過去にも言える。
舞台に立つトップスタァはその演技で観客を魅了しそのキラめきをもって新たな世代から舞台少女を生み出す。星のティアラに象徴される「舞台の上の届かぬ星」として舞台少女を再生産し、キラめきと罪が同居する道へいざなう。「劇場版」で101期生が描かれるのは、99期生もまたスタァとして「魅せる側」に立っていることを指摘しているからだろう。
舞台少女、そして彼女らが目指す「スタァ」は、過去を燃やし舞台を選ぶ存在であり、血に染まった旅路を往く旅人であり、そして次の罪人を集める星としての役割を持っているのだ。全ては舞台に立つため、舞台で輝くための糧として捉える舞台少女としての生き方は、傲慢という罪に染まっていると言えるだろう。
*7 TV版ロンドンのレヴューにおけるひかり、劇場版冒頭の華恋など。
*8 TV版の華恋は「二人でスタァになる」を目標にレヴューを戦い抜いたが、この姿勢そのものが、先述した「死活問題的世界観」にNoを突きつけるものであった。最終的にその願いそのものはオーディションの中で叶わなかったが、ルール外の展開として『戯曲 スタァライト』の新章を紡ぐことで失われたはずだったひかりを取り戻した、というのが筆者のTV版の理解である。
*9 wi(l)d-screen baroque 歌詞
*10 劇場版での華恋の過去は「自叙伝的な」(autobiographical)な言及として、TV版の描写と異なる部分が多い。
*11 ループを繰り返すキャラクターの傲慢と優しさというテーマは「スタリラ」で異色のコラボを果たした『Steins;Gate』の岡部倫太郎とヒロインたちの関係性を想起させる。その傲慢の指摘と脱却がトゥルーエンドへの道である作品が本作とコラボし、そのシナリオでななと純那がメインとなっているのは偶然ではないだろう。
*12 真矢とクロディーヌの様子はある意味でTV版で大場ななが引き起こした「再演」と、その決着として失うべきキラめきが「奪われなかった」ひかりの幕引きの異常性から生まれた特殊な状況から来るものとも言えよう。
ななとひかりの決断はある意味で劇場版の発端であり、二人は「舞台少女、舞台機構に対しての罪人」とでも言えるのかもしれない。
「キリンの罪」
ここまでは「舞台に立つもの」の罪について考えてきた。ここからは、「舞台を見るもの」の罪と、役者と観客の共犯性について論を深めたい。そのためにまず、作品中に登場する「観客」であるキリンの罪について検討する。
「スタァライト」においてキリンは重要な位置を占めるが、一方で彼が何者なのかという問いについては様々な解答が考えられる。彼は繰り広げられるオーディションのゲームマスターであり、その唯一の観客であり、参加者のリクルーターである。加えて「劇場版」では自身の口から「私はあなた達の糧、舞台に火を灯すための燃料」という台詞があった。TV 版1話より多用される再生産バンクや、時折挟まる舞台のライトや演出のための滑車やロープでできた機構の数々から、「スタァライト」における舞台というものは「機械」であるという印象を強調する演出がなされている。それらを踏まえて、その駆動のための燃料というモチーフは一見筋が通っているように思う。
またキリンについて言及するならば、トマトのモチーフは欠かせない。「劇場版」冒頭から反復されるこのモチーフに着目すると、これを舞台少女が齧るという行いがある種の転換点になっていることがわかる。皆殺しのレヴュー後、「舞台に上がれ」というリフレインとともにトマトを齧る六人、そして自身を舞台の燃料だとするキリンから渡されたトマトを最後のセリフ前に食べるひかりのシーンはある種儀式的にも見える。加えてトマトを食べなかった華恋が死ぬという描写を踏まえると、プロップとしてかなりの重要度を持っていることは間違いない。
あえてキリンを狂言回しとして配役し、明らかに舞台を求める観客として描いてきたTV版と「総集編」を踏まえた「劇場版」で、なぜ「キリンの一部を舞台少女たちにトマトとして儀式のように食べさせる」描写を反復したのだろうか。
それらを考えるためには彼の言う「舞台の燃料」が何を指しているのかもう一段踏み込む必要がある。車の燃料であればガソリンか軽油となるし、人間含め生物の燃料であれば食べ物になるだろう。では機械として象徴的に描かれる「舞台」を駆動するものはなんだろうか。シンプルかつ無粋に答えるならばそれは「金銭」となる。しかし、そうであるならば舞台少女たちがキリンの一部であるトマトをあのように儀式的に食べる必然性が見えてこない。
こういった場合、幾原作品では抽象化レベルが合っていないことが多い(*13)。これをもう一段抽象化するならば、舞台に金銭の形として投入される行為の裏にあるのは、「舞台を成り立たせる欲望」である。だからこそキリンは舞台に人を呼ぶリクルーターであり、プロモーターであり、オーディションの主催者であり、資金を提供するパトロンであり、劇場を訪れる総体としての観客といった役を目まぐるしく変え、最終的には観客やパトロンが提供する金銭をも包括して「スタァライト」という舞台を駆動する燃料を演じている。それらを総体とした行いが、アルチンボルドを想起させる野菜キリンが燃えながら落ちていくシーンが体現するものだろう。
一方で彼は、舞台機構が時に舞台少女を排除したり、「キラめきを奪って」燃え尽きを引き起こしたりすることを知っている。そういったネガティブな側面を知ってなお、彼はその熱量に魅せられ、舞台少女のキラめきを傲慢かつ強欲に求め続け、新たなオーディション参加者を募る。ここに彼の「罪」が見えてくるのではないか(*14)。
キリンを「舞台を駆動する欲望」とするならば、舞台少女が彼の一部であるトマトを取り込むという行いは、その欲望が自分を舞台へといざなう力だと受け入れ、舞台に立つための準備をするということだろう。舞台に立つためには、舞台を駆動する欲望を認識し、舞台に立ち続けるために傲慢さを内面化して進んでゆくほかない。こうした存在の核と不可分の罪の自覚と、それを果実を齧ることで描写することの二つを考えると、失楽園の引き金となった禁断の果実、そして付随する原罪的な認識にトマトが接続されていると考えても良いだろう(*15)。
トマトを齧ることに含意されているのは、舞台に上がるものとして舞台を駆動する罪深い欲望を認識し、意識的に取り込む行為だと考えられる。罪にまみれた欲望の象徴を意識的に取り込むことで、舞台少女を舞台に立つ「罪深い共犯者」として呼び込むのだ。
だからこそ「役作り」を終えた華恋はトマトを食べないまま、「舞台で求められる台詞」を言えずに舞台上で死を迎える。それはひとえに彼女を舞台少女たらしめている核に観客を含めた欲望の存在が欠けていたからにほかならない。「舞台ってこんなに怖いところだったの?」「そうよ」という台詞からは、競演のレヴューで覚悟を決めトマトを食べたひかりと、「役作り」を通して原初に立ち返ってなおひかりとの約束しか見えておらず、最後のセリフの舞台にあがってようやく「第四の壁」の向こうにいる存在と、そこから投げかけられる欲望を初めて認識した華恋のコントラストが読み取れる。
トマトは舞台機構の燃料、つまり舞台を成立させる罪深い欲望であり、そして傲慢という舞台少女が核に抱えた罪を象徴するものである。これらを受け入れ、舞台に立つことで舞台少女は舞台少女たりえ、舞台上での存在理由を定義されるのである。
*13 拙作「Connecting the Conflicting Worlds-Reverse-engineering Yurikuma Arashi」の中でユリ熊嵐における多重に抽象化された表象を取り扱っているが、こういった構造の片鱗が見える部分が多い。https://www.slideshare.net/WataruYamazaki1/connecting-the-conflictingworlds-reverseengineering-yurikuma-arashi.
*14 更に言ってしまえば、舞台少女たちもまたこの舞台を駆動する欲望の一部である。なぜなら役者という同業者もまた舞台の観客だからだ。「劇場版」で新国立第一歌劇団へ向かう彼女たちの姿はクロディーヌが言うように「ただのファンみたい」な状態であるが、この描写こそ彼女たちが舞台少女でありながら、舞台の観客でもあることを示しているだろう。トマトを食べる彼女らの傍らにある血で満たされたブーツは、一度足を洗いかけた(ファンになりかけた)彼女たちの舞台少女性の再確認と、血塗られた道への回帰の象徴である。
*15 実際一部の言語ではトマトが禁断の果実である、という表現をすることがある。古いドイツ語ではParadiesapfelで「楽園のリンゴ」という意味であり、それにならった現代のセルビア・クロアチア語でもそういった言い方をすることがある。またこの表象からは監督である古川が深く関わった『輪るピングドラム』におけるリンゴの描写を読み込んでも良いかもしれない。
“Paradiesapfel”, Duden Online, Bibliographisches Institut GmbH, 2022年3月6日閲覧, https://www.duden.de/node/108174/revision/507866.
“paradajz”, Wiktionary, 2022年3月6日閲覧, https://en.wiktionary.org/wiki/paradajz.
「私たちはもう舞台の上」
先述したように最後のセリフでひかりと華恋が掛け合いを行う間、二人は「第四の壁」を超え、映画館で作品を浴びている我々観客を見ている。これはなぜだろうか。
TV版からキリンはしばしばこちらを向き、時に我々へ話しかけているとも取れる台詞を言っているし(*16)、一見これもその延長のように思われる。しかし「劇場版」というアニメ媒体において、キャラクターがこちらを向いた、という事実はそれ以上の意義がある。
このような表現自体は古くから演劇、映画などで使われてきたメタフィクションの手法の一つである。物理的な劇場であれば、舞台的なリアリティを保つための舞台と客席に合った概念的な境界線を観客への呼びかけや舞台を降りることで超え、映像メディアであれば、カメラを直視するカットで超えることで演劇をメタ化する。
「スタァライト作品群」は、その出自から「舞台と観客」という明確に分かれた構造を前提としながら、我々観客が「舞台に参加し、影響を与える存在」であることに自覚的(*17)である。加えて先述のようにキリンは我々を含めた舞台を求める存在を体現している。そうした理解のもとであればキリンがある程度メタフィクショナルな存在として振る舞うことは自然なことのように思われる。では最後のセリフで華恋とひかりがこちらを向いた理由はなぜか。
その答えを考えるためには「スタァライト作品群」におけるキャラクター・声優・舞台上のリアリティの三要素の共犯関係を見ていく必要がある。そもそも「スタァライト作品群」は「二層展開式少女歌劇」というキャッチフレーズで紹介されてきた。この「二層」はネルケプランニングが得意とする2.5次元ミュージカルと、ブシロードが得意とするアニメや漫画、ゲームといった二次元IP群でのメディアミックスの二層の意味合いだろう。しかし、「スタァライト」における「二層」はこの「2.5次元ミュージカルと二次元IP群」という直接的な意味だけにとどまらない。
近年増加しているライブパフォーマンスを含んだ所謂「声優コンテンツ」は、その特性上、舞台においてキャラクターと演者が「重なり合って」存在することになる(*18)。以後この重層的な存在を《スタァ》と呼称することにする。
キャラクターと演者は相互に影響(*19)しあうことで部分的に同一視されたり、一方が他方に近づくことでその境界が曖昧になっていく。こういったコンテンツの舞台パフォーマンスにおいては、キャラクターが存在する虚構空間と声優が存在する現実世界との中間に《スタァ》として存在し、それが発生する舞台と観客という三層構造の様相をなす。言い換えるならば、ミクロ的な「第四の壁」が我々観客と舞台の上に立ち、マクロ的な「第四の壁」は観客を含めた劇場が存在する基底現実とキャラクターが存在する虚構の間に立つ構造を取っているということである。
また「舞台版」に特有の事象として、ミュージカル公演のラストは音楽ライブパフォーマンスで締めくくられることは指摘されねばならない(*20)。2020年以前の公演ではこの「第2部」でのコールがOK(*21)だったことを考えれば、音楽ライブのコールアンドレスポンスに見られるように、より演者と観客の共犯関係が強まっている状態が想像できる。そういった意味で「舞台版」のパフォーマンス中、観客はミクロ的な第四の壁の強度が変化する体験をするとともに、川村が指摘するように観客が舞台を体験し、「観客の声によって触発され」、《スタァ》が重層的に姿を現すのを目撃することで、マクロ的な「第四の壁」の越境すらも体験することになる。
こうして顕現した舞台上の《スタァ》は二重の意味で「第四の壁」に穴を開け、その存在の曖昧さを強化していく。その重層性をあらためて認識した上で、映画という「舞台」に存在するキャラクターが向こう側からマクロ的な「第四の壁」を越境してくるというこのシーンは、「スタァライト作品群」で継続して展開されてきた基底現実→虚構へのアクセスに対するレスポンスとして大きな意味を持ち、行われる華恋とひかりの掛け合いと合わせて我々の「舞台の共犯者」性を強いメッセージとして我々に突きつけてくる。
*16 TV版12話Bパート
*17 ファンコミュニティの総称として「舞台創造科」という呼称を公式が使用しているのはそういったイデオロギーからくるものだろう。こうした呼称は他のIPでも見られるものである。
*18 川村, 前掲書.
*19 「中の人ネタ」とその逆輸入のような事象などにみられる「越境」が例示として挙げられる。
*20 これは「スタァライト作品群」がその要素の多くを引用している宝塚歌劇のレヴューの伝統が影響しているだろう。宝塚歌劇が各組のトップスタァを中核に公演を行ってきたのは、こうした《スタァ》の重なりあいの文脈を生成する手法としての側面を見ることができ、その影響が「スタァライト」に流れ込んでいるとも考えられる。
*21 筆者は2021年以前の舞台版公演の経験がないためその体験を正確に記せないが、レギュレーションから想像される舞台の風景としては、概ね記述の通りだと思われる。
Project Revue Starlight, 少女☆ 歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE- #2 Transition, 2022年3月6日閲覧, https://revuestarlight.com/musical/2018-10/.
結語―「では私たちは?」
突き詰めていくと、キリンという存在は、TV版の時点から我々を投影するためのキャラクターであった。つまりそれは、舞台を渇望し舞台を駆動するための欲望を供給する我々が、舞台で起きることの全ての始点に存在するという指摘にほかならない。我々はこれまで、舞台を「楽しむ」側としてスクリーンのこちら側からそのキラめきを消費してきた。「スタァライト」で描かれる舞台にかける情熱、失望、諦め、燃え尽きなどを見てなお、我々は舞台を傲慢にも求める。
我々の罪とは、舞台を望み、舞台を駆動し、舞台少女を舞台に上げる欲望を持っていることであり、それによって引き起こされる一切に付随する罪である。我々の欲望が罪深い舞台機構を駆動させ、新しい舞台少女が舞台に招かれ、蹴落とされ、燃え尽き、舞台に立つ理由の再定義である「再生産」を通して舞台に上がり続けるのだ。
作品側からのその指摘は、TV版と「劇場版」の両方で行われた「第四の壁」越境から見ると一見類似しているように思われるが、「劇場版」のひかりと華恋のやり取りで我々観客がいるからこそ舞台は「怖いところ」である、という表現を使っている点で様子が異なる。TV版のキリンのそれが我々とキリンとの同一性を指摘するものならば、「劇場版」のそれは、先に論じた共犯性の指摘であると言える。
しかしこれは「舞台を求めるのをやめろ」と言っているわけではない。それでも求めてしまうのが舞台であるというメッセージは、シリーズ中で繰り返されてきたとおりである。ではなぜ、「劇場版」ではこの罪のモチーフと「第四の壁」のこちら側にいる我々の共犯性を強調しているのだろうか。
「All the world's a stage」―では我々は何を見たのか?
「劇場版」をまとめるテーマには「人生をどう生きるか」という問いかけがある。皆殺しのレヴューに至るまでの各シーン、例えば進路選択であったり『遙かなるエルドラド』から想起される「航路と祖国からの決別」というモチーフ、決起集会で強調される「古いものとの決別・成長」を目指す第101回聖翔祭版の『スタァライト』の台詞であったりを通してそのテーマは反復して提示される。
加えて、「スタァライト」の中核的なモチーフである塔(*22)について、「劇場版」では東京タワーに加えて豊島清掃工場の煙突(*23)が随所で使われている。決起集会では新しく作られた舞台装置のお披露目として中庭に塔が建てられる。冒頭で倒壊している約束タワーと合わせて、「古い塔を捨て、新しい塔を建てる」というモチーフと、反復される「決別と成長」のテーマが共鳴しあっ「人生という舞台を新しく始める」という作品の中核テーマが見えてくる。加えて「煙突」に重なる焼却のイメージは、過去を燃やし立ち上る煙を想起し、鳥となって羽ばたくプリスのイメージと重なっていく。
ある意味で「劇場版」は我々に99期生の九人の人生の岐路という演目を様々な形で見せてくれる作品だったのだ。それはつまり彼女ら九人を『人生』という演目の中で、過去と決別し「人生の新たな舞台」への旅路を歩む存在として描いた。つまり「劇場版」は彼女らを過去と未来のある「時間的な」(temporal)存在(*24)として捉え、我々観客も同じように「人生」という舞台を演じる役者として包括している。
そうした理解のもと捉えれば、「第四の壁」のこちら側に対して共犯性を強調するのは、一方で「人間」へそういった欲望を投げかけることの倫理性を問いかけ、もう一方で舞台のこちらも向こうも同じ『人生』という演目を演じる存在である、ということを再認識させる演出だろう。それはつまり「『スタァ』も人間である」という至極単純な事実の指摘である。「舞台版」でキャラクターを演じる演者も当然『人生』を演じる役者である。同時に、先に指摘したように《スタァ》として重層的に「現れる」キャラクターたちもまた『人生』の役者である。
それを強調する理由は、一方で観客である我々との同一性と共犯性を指摘するためであった。しかしこの問いに現実のコンテクストを代入するならば、新たな側面が見えてくる。それは《スタァ》を人間と「思わない」消費の姿勢への批判である。メタフィクションの手法を使ってそうした倫理性への問いかけを行った作品は多い(*25)。
それを今、「スタァライト」で行う理由はなんだろうか。それは「スタァライト作品群」で《スタァ》を生み出しているからだろう。演者とキャラクターが重なって存在する姿をコアに持つコンテンツである限り、その二つが混ざり合っていく認知は避けられない。行く先はキャラクターと演者、《スタァ》と我々の境界が薄まった中で起きる《スタァ》の消費だ。具体的現象を代入するならばVTuberや声優コンテンツの中で「ガチ恋」と呼ばれる消費のモードがそれであろう。そうした「キラめきの消費」への批判という新たな側面が見えてくる。
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、「時間的存在」として、人生という舞台で葛藤する役者たちの姿を描きながら、観客もまた「舞台の上」であることを投げかけている。同時にその指摘には舞台を求めることの共犯性の指摘が共存していて、その罪に自覚的でありつつ、そのキラめきを消費せよ、というメッセージを投げかけているように思われる。
停滞から前を向くために葛藤し、停滞の過去と決別するという演目を通して、我々を含めたそれぞれの演目を演じる「舞台少女たち」へのエールが、「劇場版」の濃密な映像表現の後ろに流れる通奏低音だからこそ、この作品は胸を打つ。ある意味でそれらを目の当たりにする我々は、それが罪深いからこそ楽しんでいるのかもしれない。
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はこうしたエール/メッセージを随所に散りばめ、個人主義を称える讃歌の旋律を奏で、人生という舞台に立ち停滞したり進んだり戻ったりしている全ての役者たちに罪深く、前に向かって奮い立たせる力を持つ「トマト」を手渡してくるのだ。
*22 詳細は紙幅の関係で論述しないが、塔は舞台であり、舞台機構であり、それらを統合した「権威」(Authority)と理解すべきものと思われる。
*23 主題歌CD「私たちはもう舞台の上」のカバー裏にはまさにその煙突の池袋方面からの写真が使われている。
*24 TV版の再演や、「サザエさん」方式、「終わりのない非線形な物語」を生成する機構としてのスマホゲームにおける「非時間的」(atemporal)なキャラクターへのアプローチと対比される。
*25 例えば『新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』終盤に挿入される実写パートにおける自他境界の重要性を問い直すシーンが有名だろう。
「キャラクターの役者性」に注目して言及する作品としては、飛浩隆の廃園の天使シリーズにおけるNPCと人間の関係性とその倫理性への問いかけが共鳴するように思う。
著者コメント(2022/10/10)
お手にとって頂いてありがとうございます。walterinsect と申します。「スタァライト」における罪の話をしようと思ったらいつの間にか
こちら側にいる我々の罪を考えることになってしまいました。荒削りではありますが、この考察がワイルドスクリーンバロックの奔流に揉まれる時の灯台とは行かないまでも、港にぼんやり灯る酒場の提灯くらいになれていれば幸いです。
今回は「スタァライト」の「喋りたくなる欲望」を満たす場に参加できたことに感謝しております。今まではレクチャー形式でこういったアニメ作品の考察のようなことをしてきましたが、今回論文形式でこういうものを発表できる機会を得られたこと、本当に嬉しく思います。企画実現のために尽力いただいた主催チームの皆様方、こんな怪文書にお付き合い頂いた校正担当の方々、そして自分の怪文書を読もうと思っていただいた読者のあなたに感謝いたします。ついでに執筆環境であるScrivener 開発チームにも感謝しておきます。
この合同企画に関わった皆様の舞台、そして露崎まひるさんの未来がキラめきに満ちることを願いながら、私も自分の演目に戻ろうと思います。またご縁がありましたら「舞台 『人生』」でお会いいたしましょう。
(実はトマトはあまり好きではない)walterinsect
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