見出し画像

現実と混じり合う虚構

ボタモチ
https://twitter.com/shapedmm
https://marshmallow-qa.com/shapedmm


1.フィクション作品における虚構

 現実と虚構の混じり合った世界を描くアニメーション作品は枚挙に暇がない。『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では特撮の舞台セットという形で具現化した父の夢想に対して息子が立ち向かい、『INNOCENCE』では敵ハッカーの仕掛ける防壁迷路という幻想の中にキャラクター自身も気づかない間に迷い込み、『少女革命ウテナ』で主人公は逆さに浮かぶ城を見上げる不思議な場所に足を踏み入れ「薔薇の花嫁」を巡る決闘に巻き込まれていく。

 この話題で今敏作品を欠かすことはできない。『千年女優』では過去の出来事の語りの中で積極的に虚構を織り交ぜそれらの境界が曖昧なまま物語が進み、『OPUS』で主人公は自身が描いたマンガ作品「レゾナンス」の中に入り込みその登場人物たちの戦いに巻き込まれ、『妄想代理人』は1人の人物の妄想でしかなかった黄金バットがとあるきっかけで現実世界に出現し混乱を引き起こす。

 映像作品だけに限らず、文字だけで描かれる小説作品も読者の目の前に充分な精密さで虚構の風景を現出することができる。村上春樹の長編ではどれも現実世界と不思議な異世界を行き来しながら物語が進み、例えば『ねじまき鳥クロニクル』では井戸の底から訪れる異世界を通してかつて奪われた大切なものを取り戻す。柴田勝家の『ヒト夜の永い夢』ではトランジスタの代わりに粘菌で作られた計算機による人工知能の見る夢が現実世界を侵食し、やがて歴史上の大事件へとつながっていく(ラストの夢と現実が混じり合う様は『パプリカ』をオマージュしたものであると著者自身も語っている(*1))。

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』も、聖翔音楽学園での生活やその卒業という現実と、地下劇場でのレヴューという虚構が混ざり合った作品である。舞台少女たちはトップスタァを目指すために武器を手にしてオーディションに臨むが、勝敗を決めるのは剣の技術や体力ではなく己の心を燃やす輝きであり、戦場となる舞台は物理法則を超えた形で彼女たちが放つキラめきに応える。地下劇場でのレヴューの結末は因果関係を以て現実世界に及ぶことはないが、トップスタァを目指す少女たちの心のあり方に現実的な影響を与える。

 注目すべき点として、物語の中で虚構となる対象を打破しようとするキャラクターが登場しないということがある。そもそもオーディション自体の正体が判明しておらず手に負えるものではないことを考慮しても、この点は他作品ではそれほど多くは見られない。神楽ひかりは愛城華恋のキラめきを守るためにレヴューから退場させようと一時は試みるが、それ以外では登場する舞台少女全員がレヴューを通じてトップスタァになろうとする。劇場版では花柳香子の「ようやくはじまったんや、オーディションが」というそれを待ち侘びていたことを示す発言があり、最後は愛城華恋の「演じきっちゃった、レヴュースタァライトを」という現実への帰還を惜しむ発言と神楽ひかりの「じゃあ探しに行きなさいよ。次の舞台、次の役を」という再び虚構へと誘うようなやりとりで結末を迎える。

 このように虚構からの脱却というテーマを声高に掲げていないという点では、上に挙げた例で言えば、一連の黄金バット事件の温床であったストレスフルな現実が繰り返されるシーンで結末を迎える『妄想代理人』のような今敏作品に近いと言えるだろう。


*1 柴田勝家 ユリイカ2020年8月号 特集・今敏の世界『〈夢・現実・記憶〉を追って』 2022年8月1日発行 青土社

2.演出面でのレヴューという虚構

 演出の観点から、レヴューという虚構を使用することについて考えてみる。

 この作品を最初に見た時の印象を克明に覚えている読者がどれほどいるかはわからないが、適応力の高い視聴者でも、何の説明もなく出現した武器を手にして少女たちが歌いながら戦い出すシーンでは多少なりとも混乱したことだろう。それもすぐに霧散して視聴者は皆スタァライトの世界に没頭していくのだが、それは圧倒的な映像と音楽の美しさだけによるものではない。

 もし全てを現実と同じ法則に沿った形で物語を進めようとすれば、例えば衣装が変わるという些細な動作すら描き方は大きく変わる。制服からレヴュー服に変わったということはどこかの更衣室で着替えたということであり、誰かが衣装や武器を用意したということである。また、レヴュー中に舞台少女たちが歌う劇中歌にしても、楽曲があるということは作品中に作詞作曲をした誰かがいるということであり、どこかに譜面が存在しそれを演奏した人々がいるということである。それら全ての要素に対して、その様子を描くか、それがあったという余白を作ることで因果関係を説明するのが、通常の作品が用いるやり方だろう。

 しかし実際には衣装の製造ラインの映像と重厚なギターサウンドによるバンクが流れるだけでレヴュー服の由来が説明されることはなく、楽曲に合わせて響く演奏や効果音についても舞台少女のキラめきに舞台が応えて作り出したものとして扱われるのみである。

 衣装も武器も作詞作曲も振り付けも舞台演出も全て自分たちで作り上げるという設定であれば、舞台裏で汗を流す少女たちの織りなすドラマを描くことはできるかもしれないが、本作品の目指すところはそれではない。

 最も相応しい台詞と見栄えのする画角だけを見せ、作り手の深い芸術論に裏打ちされた最高の映像表現を実現するためにカットを組み、辻褄合わせにしかならないシーンの一切を省く。

 それができるのは、美しい映像と音楽、キャラクターの心情により深く胸を打つストーリー、そしてレヴューという虚構の設定があるからこそである。

 作画と3DCGのどちらにおいても、本来的に現実に存在しないものを描くアニメーションという映像表現の特徴として、実写作品には不可能なほどシームレスに現実と虚構の間を行き来できるというものがある。それは逆に絵コンテや演出による緻密な制御がないと虚構の空間が暴走してしまいかねないという技術的な困難にもつながるが、本作品は見事それをクリアしている。

 虚構という要素は本作品の主要なテーマであると同時に、演出という観点で極めて効果的に活用されたギミックでもあるのだ。

 本作品のレヴューをただの夢や幻だと捉える視聴者はいないだろうが、かといって学園生活などの現実と同じものと扱うこともできない。現実/学園生活と虚構/レヴューは明確に区別されるものであることは、重ねて認識しておくべきである。

 このような物語の中の世界における見方を踏まえた上で一旦それを置いておき、我々視聴者が住む現実世界から見た場合(いわゆるメタ視点)の区別はこのようになる。

現実(げんじつ)
いま目の前に事実として現れている事柄や状態。「夢と―」「―を直視する」「―に起きてしまった事故」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/現実/ 『現実(げんじつ)の意味- goo辞書』 2022.4.1閲覧

虚構(きょこう)
1.事実ではないことを事実らしくつくり上げること。つくりごと。
2.文芸作品などで、作者の想像力によって、人物・出来事・場面などを現実であるかのように組み立てること。フィクション。仮構。(*3)[a2] 

https://dictionary.goo.ne.jp/word/虚構/『虚構(きょこう)の意味- goo辞書』 2022.4.1閲覧

 つまり、当然のことながら、見方を変えればスタァライトという作品自体が虚構である。それだけではなく、アニメーションに限らずあらゆる映像、漫画、文芸、ゲームシナリオといった全ての物語作品は虚構である。我々は虚構に囲まれて生きている。

 先にも触れたとおり、アニメーションという映像表現は本来存在しないものを存在するかのように見せる手法のことであり、奥行きのある世界を平面上に表現するという意味でその構成要素自体が虚構であるが、たとえ現実の映像を画面上に収めた実写作品であったとしてもそれは変わらない。

 更に踏み込めば、たとえ史実に基づいた作品であったとしてもそれが現実(ノンフィクション)であると言えるのは作品の外で事実確認を行った後であり、それらの差異が生じるのは報道や政治の世界においてである。純粋に映像作品としての評価を突き詰めようとしている場合はフィクションとノンフィクションの間に違いはない。映像作品は全て虚構である。

 視聴者は皆存在しないものを存在するかのように感じる。虚構の世界に対して圧倒的な存在感を抱き、果ては卒業論文などという謎の文章を100人近くの人間が書くに至っている。全く理解しがたい出来事であるが、これもまた現実である。

 「幻覚とは『対象なき知覚』のことである(*2) 」という医学の表現を借りれば、それらはより具体的に理解できるようになる。健常者(少なくとも神経内科に掛かる必要のない人間)であったとしても、視聴者は音と映像からこの世界のどこにも存在しないはずのキャラクターや出来事を知覚する。いわば物語というもの自体が虚構で幻覚なのである。そのような意味で、人間の知覚のバグを意図的に活用し、存在しないものをあたかも存在するかのように見せることこそが、物語を語るということの本質であると言える。

 しかし、たとえ虚構という呼ばれ方であっても、舞台少女たちにとって地下劇場でのレヴューは何より大きな意味を持つ出来事である。同様に、我々視聴者にとってもスタァライトという虚構の物語はどんな現実よりも深く心に響いた物語であるはずである。

 現実と虚構という概念を言葉の上で区別することはできたとしても、それを知覚する者の心においてどのような意味を持つのかを理解するには更に考察を重ねる必要がある。


*2 https://memory-clinic.jp/幻覚と妄想『幻覚と妄想|東京メモリークリニック蒲田』 2022.4.1閲覧

3.社会の中で虚構の果たす役割

 翻って、フィクションにおけるストーリーとしてではなく社会の中で虚構がどのような役割を果たしているのか見ていこう。

 人々の生活に実際に影響を与えている金融、政治、法律、科学といったごく当たり前で重要な概念──ユヴァル・ノア・ハラリの提唱する「共同主観的現実」(*3)──も、見方を変えれば虚構である。人々が共有し社会に影響を及ぼすまでは、少なくともそれらを現実と呼ぶことはできない。あるいは、企業が顧客や株主に対して示す企業理念やマイルストーンといったものでさえ、その時点では未来を思い描くSF小説と本質的な違いを持たない。もっと身近な例で言えば、個人が交わす約束や契約といったものでさえその時点では何の意味も持たず、契約書がただの紙くずに成り下がる可能性は月給がきちんと振り込まれるまで常につきまとう。それらがきちんと履行されるであろうということをその場の状況や互いの立場から判断しているだけであり、何であれ未来のことで100% 確実ということはあり得ない。

 このようなごく当たり前の、我々が「現実」に他ならないと信じているものでさえ揺らいでしまいそうになるのは、それを支えている「虚構」に言及しているからである。

 自然科学的にはどんなに可能性の低い事象であったとしても、我々は一旦それを信じて共有し力を合わせて行動する。

 生きる糧を手にできるという約束事を信じて、人々は毎朝過大なストレスを抱えながらも職場に出向く。ちっぽけな金属片や紙片が一定の価値を持つものだという仮定の下で、人々は近所の店で生活必需品を購入する。半年後に上演される舞台の演目を心の支えにして、人々は日々の生活を営み明日を待つ。

 もし人類が虚構というただの空想を共有することができないとしたら、石の槍を抱えて裸で野山を駆け回っていた時代に集団で行動し獲物を狩ることはできなかっただろうし、千人以上もの観客が劇場に集まりそこで演じられる物語に心を1つにすることもできないだろう。

 虚構とは、単に現実でないという意味でも、実体を持たない幻想という意味でもない。物理的には全くの別個体であるはずの我々が共有できるものがあることで、我々はこの現実世界で生きることができる。

 虚構と現実は互いに存在を支え合い補完するものであり、それらの区別は地図上の国境のように明確に定められているものではなく、海岸線のようにグラデーションを為して常に揺れ動いているものである。

 現実と虚構という対比構造を社会的な役割を踏まえてあえて喩えるとすれば、真実と虚偽といった表面的なものよりも、現在と未来といった表現をするべきだろう。虚構とは、未来を語り共有するにあたってホモサピエンスが獲得した唯一無二の能力なのである。

 このように社会の中で虚構が極めて重要な役割を果たしていることを考えると、我々の知覚にクラッキング可能な脆弱性が残っていることはバグではなく仕様と表現するべきかも知れない。

 虚構に対するこのような考え方は決して新しいものではない。

 樋口恭介『未来は予測するものではなく創造するものである ――考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』(*4)では、ビジネスやイノベーションの分野で未来のビジョンを共有するためのツールとしてSF作品を活用するSF プロトタイピングという手法が語られている。フィクション──文字通り虚構を用いることで将来のビジョンを共有し、現実の世界と相対化しながらより豊かな未来を目指していくという考え方である。実際にそれは企業のマイルストーンに採用されたり製品開発に関わったりもしている。

 そこではSF という言葉の定義にすら新たな見方が示される。

 “Science Fiction”の頭文字をとったものであるというのが一般的な理解であるが、ここではもう1つの“Speculative Fiction”という解釈が提唱される。

 speculative ──思弁的・思索的・推論的・投機的、つまりここではないどこかの世界を強く思い描くことがSF 作品のより広範な条件であるということである。この意味ではSFは必ずしも科学的であったり未来の物語であったりする必要もない。

 そういった意味では『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』もSFの条件を満たしていると言えるし、その虚構性の強さは一般的なSF作品に引けを取るものではない。


*3 ユヴァル・ノア・ハラリ 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』10章 最強の征服者、貨幣 2016年9月15日発行 河出書房新社

*4 樋口恭介『未来は予測するものではなく創造するものである――考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』

4.虚構から現実を変える

 レヴューという設定が持つ特徴として、以上述べてきた強い虚構性の他に、必ず複数の舞台少女が出演するという点がある。基本は1対1、変則的なものでも2対2、舞台版に設定を広げても1対多ないし多対多といったように、1人きりのレヴューというものは存在しない。少なくとも、題名を冠し相手の上掛けを落とすことを目標にして演じられるものにおいてはこの原則が当てはまる。

 「小喜劇、ダンス、歌などを組み合わせたもの(*5)」という本来のrevueという言葉の意味に照らし合わせて考えると、一人芝居のレヴューが存在しても不思議ではない。実際、大場ななが中学時代に1人で舞台に立ったり、天堂真矢の「私は1人でもスタァだ!」という発言があったりしたものの、結局そのようなレヴューは今のところ登場していない。

 TVアニメ版でのオーディションの趣旨は、舞台少女たちを集めて戦わせ、その中で最もキラめいた者をトップスタァの座に据えて、集めたキラめきをその燃料として輝かせ続けるサイクルの一部というものである。劇場版においては更に難解で不明瞭だが、あえて説明しようとすれば、我々視聴者がそれを求めたからだというのが1つの解釈であろう。であれば、それぞれ1人ずつ独立したレヴューを行ってキラめきを比較するというようなことをしてもいいようにも思えるが、そのようにはなっていない。舞台少女同士を競わせてトップスタァの座を決めることが目的なのかと問われれば、それも違う。重要なのはその過程であり、また勝者だけでなく敗者にも等しく価値はある。スタァライトの設定におけるレヴューは1人で演じられるものではない。

 「運命の舞台をかけて、キラめきを奪い合え! 舞台少女たちよ!」というレヴュー開始を告げる台詞がある(*6)。舞台版とTVアニメ/劇場版では多くの設定が異なっているのを承知であえて引用したが、この言葉はレヴューの本質を突いているのではないだろうか。

 舞台少女たちのキラめきは舞台の燃料となるだけではない。奪い合うということは、見方を変えれば与え合うということでもある。相手から受け取ったキラめきは舞台少女の中で更に強いキラめきとなり、再び相手に向けて放たれる。1人でどんなに強いキラめきを放ったとしても、それは舞台の燃料になることすらできず消えていく。

 劇中で燃料として集められるキラめきは、しかし現実世界のエネルギー資源と違って他と代用可能なものではない。同じ演目でも役者が変われば舞台の性格は一変してしまうように、舞台少女同士の組み合わせによって交わされるキラめきの色は全く変わる。たとえ同じ台詞を繰り返す時もその呼吸が少しずつ変わるように、舞台少女たちが放つキラめきは一瞬たりとも同じ形に留まることなく目まぐるしく変わっていく。

 地下劇場という虚構の空間でしか交わすことができないものがある。心の輝きに直接応えてくれる舞台装置があることで、少女たちはより深く己の心と向き合い、互いにそれを交わすことができる。我々が住むこの現実の世界と同じ法則に従っていては手に入れることができないものがそこにはある。

 しかし地下劇場だけで物語が進んだとしても、それが我々の心を打つことはないだろう。異なる法則で成り立つ異なる世界の出来事はどこまでいっても他人事で、我々の現実と交わることはない。

 スタァライトにおける現実と虚構の関係は、異界を訪れ現世に有形無形の財宝を持ち帰るという古くからの物語のテンプレートに沿いながらも、より現代的な意味合いを帯びる。膨大な数の人類が距離を超えてネットワークで繋がるようになった時代でこそ、キャラクターが虚構の世界で共感し合う物語は大きな力を持つ。

 「現実に影響を与えない限りにおいて虚構は無力だ」という考え方もあるかも知れない。確かにそのとおりだが、それは裏を返せば「ある虚構が将来のどこかで現実に力を持つことはないと断定することはできない」ということでもある。虚構の力は虚構であるからこそある意味では無限大なのである。

 スタァライトの物語は、我々人類が虚構を共有して現実を変えていくという構造にとても似ている。1人の人間が抱く虚構を虚構とは呼べないように、1人の舞台少女が出演するレヴューはレヴューではないのだ。仮にそのようなものがあったとしても、それは舞台とトップスタァを輝かせ続けるサイクルの一部とはなりえない。舞台少女たちがレヴューを通して互いと自分自身を深く理解したように、我々もスタァライトを通して我々の根源に関わる何かを交わすことができるはずである。


*5 https://dictionary.goo.ne.jp/word/en/revue/ 『revueの意味-goo辞書』2022.4.1閲覧

*6 舞台 少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE- #2 revival 39分38秒 走駝紗羽

著者コメント(2022/10/10)

 こんにちは。ボタモチと申します。〆切30分前になって著者コメントが必要だということを知りました。計画的な人間になりたい。
 スタァライトの卒業論文ということで自分の考えを文章にしたのですが、当初思っていたのとは違う感じになってしまいました。もっと気軽に楽しめるものを書くつもりだったんですけどね。しかしスタァライトをまた別の角度から捉えられるようになるという意味では、これも1つの楽しみ方なのかもしれません。私はなんだかんだでこの文章を書いててとても楽しかったです。
 皆様にとっても、この文章がよりスタァライトの世界を楽しむ一助になれば幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?