「大場なな」の作り方
Fred
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「大場ななになりたい」
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下劇ス) を観た人なら誰しもが絶対に間違いなく必ず一度はそう思ったことがあるだろう。もちろん私もその1人である。大場ななになりたい。具体的にではなく漠然とそう思った。しかし、私は私であり大場ななにはなれない。ではどうすればいいか。
本稿では一体何が大場ななを「大場なな」たらしめているのかを知るため、「大場なな」の構成要素を探り、その要素を自分に対して与えることを目指す。
誰もが、と先に書いたがおそらく多くの人間はそうではない。しかし、大場ななに魅せられ、愛情よりも深い感情を持った人は少なくないだろう。そのような人に対しても「大場なな」の要素を提示することで、今後の劇ス鑑賞をより楽しんでもらえることと思われる。
1.展開を自在に動くキャラクター
小説家には2つのタイプが存在するという。「小説の設計図であるプロットをきちんと立てるタイプ」の『プロット型』と、「プロットを立てずにぶっつけ本番で小説を書くタイプ」の『ライブ型』(*1)である。幅のある分類とはいえ、これはアニメ監督など物語の作り手全般にいえるだろう。劇スがどちらであるかといえば明らかに前者のプロット型である。作り込みの細かさからプロット型であることは自明であるとして、ここでは詳しい説明は行わない。しかし、スタァライト(劇場版、TV版) はライブ型のある特徴も有している。それはキャラクターが勝手に行動する点である。ライブ型の小説では、キャラクターが作者の意図を超えて勝手に行動することによって物語が進行していく。その特徴は
と監督が述べていることなどからわかる(*2)。本筋から逸れるため詳しくは述べないが、このような言及から監督らスタァライトの制作陣の脳中ではキャラクターが自在に行動していることがわかる。まず展開が用意され、それに沿う形でキャラクターが自由に言動をとる。
このことからプロット型の劇スにおいても、ライブ型のように1人1人のキャラクターを確立された人格として扱ってよいとわかる。単にストーリーの展開のために与えられた役割や人格ではなく、そのストーリー上で「生きている」人間なのである。
監督は大場ななを
が、
とも述べている。「大場なな」は視聴者の特別視によって与えられた「役」が変化し、その中であのような立ち回りを演じたのである。以下の節では大場ななを監督の意思に則って動くキャラクターではなく、「大場なな」という個別の人格として解体していく。
*1 有川浩(2022年現在は「有川ひろ」に改名)「文庫版あとがき」『図書館内乱 図書館戦争シリーズ②』角川文庫、2011
*2 他に、「(ななの刀返して発言に対して)『いやいや、お前が渡したんだろ!』ってつっこんじゃいました(笑)」という発言からもわかる。
2.大場ななのテクスト性
この節の内容を簡潔に示せば、大場ななは「寡黙だが解体を望み、解体されて初めて意味をなすテクスト」となる。用語について少し補足する。テクストとは文献資料のこと、論文を書くときに集め参照するものを思い浮かべてくれれば良い。解体とはテクストを紐解くこと、抽象化された概念を具体へ演繹したり、具体的な事例を抽象へ帰納させたりすることである。本論文集に掲載されている文章であれば、各著者が集めた参考文献と劇スという作品がテクストであり、劇スという作品をそれぞれの角度から解釈することが解体にあたる。
大場なながテクストであることは言うまでもない。先の節で示したように用意された展開の中で自由に行動する、プロット型とライブ型の両方の特徴を備えている。「大場なな」は外側(プロット) と内側(ライブ)から制御を受けており、個別の人格ではあるがテクストとして扱うことができる。
寡黙とは、喋らないということ。それは口数が少ないことではなく、自分自身のことについて語らないということである。おそらく大場ななは自身(の経歴)について周りにあまり語っていない。TV版第3話で裏方の兼任を知った他の九九組は驚いているが、「演劇部に在籍中、オリジナルの脚本を12本書き」、「全国中学校演劇コンテスト脚本の部で優秀賞を」(*3)とったと知っていればあそこまで驚いていないだろう。脚本の樋口氏も「受け止めてくれるキャラクター」「なながお母さん役」(*4)であると述べている。『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』(以下ロロロ)でも、TV版から「委ねていいよ。あなたの秘密。あなたの悲しみ。私が全部、受け止めてあげるから」と台詞に変更が加えられており、他キャラクターの行動、心情、発言をより受け止める役割となっている。寮での家事シーンも多く、母親性=他キャラの受け手のイメージはつきやすいだろう。
大場ななが再演を繰り返したのは、第99回聖翔祭の「燃える宝石のようなキラめき、輝く虹のような幸福な日々をもう一度」と願ったからである。前半のフレーズが有名だが、むしろ後半が大場ななを紐解く上で重要となってくる。注目すべきはあの再演が「日々」のために捧げられていたという点である。キラめきのために再演を繰り返す中で「日々」に惹かれていったのではなく、そもそも「日々」のために再演を始めたのである。
中学校までの大場ななにはおそらく碌な友人がいない。少なくとも彼女は孤独を感じていた。これは、TV版第9話において文化祭で皆と演劇を上演できなかったこと、沢山のコートフックに上着が1枚だけ掛かっている描写などから裏付けられる。そんな彼女が、大好きな演劇について語り合える仲間と1年間の濃密な共同生活を送れば、その日々にのめり込むのは当然であろう。
そんな仲間との間で構築されたポジションが「お母さん役」であった。転校続きでの人間関係への自信のなさなどもあったかもしれない。やっと出会えた大切な仲間とその内で見出したポジション。心に静かに傷を負い、関係に飢えている彼女はこれを手放さない(*5)。そこに、再演という秘密が加われば大場ななはいっそう「寡黙」さを増すこととなる。
しかし寡黙であっても知られたくないわけではない。先にも述べたが、彼女がここまで再演にのめり込んだのは「あの」仲間たちとの日々だったからである(*6)。「悲しみ、別れ、挫折。舞台少女を苦しめる全てのものから私の再演で守ってあげる」という台詞からも大切にしたい意志は読み取れる。決してキラめきの追求のための手段などではない。本当の意味で繋がりたかったからこそ、繋がりを感じた第99回聖翔祭の後夜祭で涙を流したのである。今まで蓋をしていた孤独の悲しみが溢れ出したと捉えてもよい。
そして、大場ななが求めた「関係性」とは練習相手や肩揉み、おやつ作りなどではない(*7)。詳しくは4節で述べるが、これは彼女の本心が理解されて初めて可能となる。これが「解体を望み、解体されて初めて意味をなす」ということである。
*3 パンフレット「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」
*4 スタァライトチャンネル『ありがとう!劇場版スタァライト 打ち上げ大パーティー前夜祭生放送』https://youtu.be/LWjv-xSnrgo?t=2635 、2022/9/11閲覧
*5 おトッピー @d6K1hdPav2c9Dmg のツイート( 削除済)『「もっと」ってねだるのがポイントです それは大場ななの負った傷です。傷の数だけねだるわけですよ、「子供」は。』2021年05月22日22:50
*6 『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』より「私が見つけた永遠の仲間と、運命の舞台」の発言
*7 TV 版第7話あるいは『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』でのまひる、双葉、香子、華恋の発言より
3.永遠の一瞬の体現者
「永遠の一瞬」とは監督がインタビューで使った言葉であり、その例として三島由紀夫が用いられる。
「永遠の一瞬」について定義しておく。三島の例のように、「永遠に記憶に残るような衝撃の一瞬」かつ「記憶や経験が一挙に降り掛かり、凝縮された一瞬」とする。「永遠の一瞬」の重要な点は、記憶や経験などの「永遠」が「瞬間」という1つの共通のゴールに矢印を向けているところである。
大場ななの「永遠の一瞬」とは第99回聖翔祭本番であり、彼女は後夜祭においてそのことを自覚した。仲間との1年間の「輝く虹のような幸福な日々」は全て聖翔祭に向けられ、その一瞬は彼女を涙させるほどの衝撃を与えた。
私たちが大場ななに惹かれるのは「永遠の一瞬」を経験し、さらにそれを求め続けているからであろう。私たちは誰だって皆「永遠の一瞬」のような劇的な経験を求めている。一瞬から与えられる計り知れないほどの情報量は、体験を先験的な体験へと昇華させる(先験的=経験を凌駕する、その後の経験にも影響を及ぼすような超越的な経験と捉えてくれればよい)。
そして、求め続けることは更なる「永遠の一瞬」があることを約束する行為であり、「永遠の一瞬」との出会いに関わらず私たちはその姿に自身を投影することができる。「永遠の一瞬」を心のどこかで追い求めている私たちは、同じく追い求める大場ななの姿勢に自分を重ねてしまう。追求の先駆者としての大場なながいる限り私たちは「永遠の一瞬」の存在を信じていられるし、不安を払拭することができる。つまり、求め続けるという大場ななの「温度」に対して、私たちは救いを見出せるのである。
4.再生産=脱構築、大場ななの再生産
再生産がスタァライト全体の重要な要素であることは誰もが理解するところであろう。まず再生産について理解を深めたい。再生産とは構造内での変化ではなく脱構築である。脱構築とは、全体あるいは二項対立に存在している枠組みを撤廃し、新たな枠組みを構築することである。理解し辛いので具体例を示す。「肉は美味しいが野菜は不味い」という意見があるとき、美味い↔不味いという二項対立の枠組みがあり、そこに肉と野菜が収められている。ここで、肉と野菜という分類を撤廃し、美味いか不味いかで新たな枠組みを作ること、これが脱構築である。このとき、美味いとされる野菜も不味いとされる肉も出現する可能性がある。A→Aとすることではなく、AとAを含めた中から新たなA’という枠組みを作ることである。
愛城華恋の例を見てみよう。レヴュー参加前(TV 版第1話)の彼女は「朝も1人じゃ起きられない、主役になれなくてもいい」状態だった。そこから「1人で起きて朝練に向かい、スタァを目指す」状態へと変化した。「主役になること」ではなく「スタァを目指す」という点で再生産が脱構築であるといえる。また再生産といえば溶鉱炉のシーンが思い浮かぶが、単にプレスで形を変えるのではなく、一度全てを溶かして「燃やして生まれ変わる」(*7) のである。この「燃える」シーンこそが脱構築を象徴しているといえるだろう。
次に大場ななの再生産を考える。TV版において彼女の再生産は「絆のレヴュー」後の星見純那との会話において行われる。レヴュー中に再生産の描写がないこと、revue song『星々の絆』で愛城華恋パートが唐突に始まりそのまま終わること、『2ndスタァライブ “Starry Desert”』において絆のレヴュー歌唱後に該当の星見純那との会話シーンが流されることが根拠となる。再演という枠に囚われていた大場ななが、「大切にしてきた時間、守ろうとしてくれたもの」を次の舞台という新たな枠に「全部持って」いくことが彼女の再生産なのである。ただ、他の九九組に比べるとやや曖昧な再生産であろう。
最後に劇スに話を移す。決起集会後の電車上のシーンでの「私も自分の役に戻ろう」発言から、少なくとも「狩りのレヴュー」は大場なな自身のレヴューであるといえる(本稿では「皆殺しのレヴュー」については言及しない)。さらに「あの子への執着、彼女へのケリを」と続けており(このシーンで星見純那が映ること、レヴューしていることからあの子=彼女=星見純那は明らか)、大場なな自身が抱く星見純那への執着を断ち切ろうとしていることが窺える。しかし大場ななは上掛けを落とされることとなる。これは再生産した星見純那に対し、大場ななは脱構築の構造が見えていなかったためである。執着を断つことではなく執着の先の関係性を見出すこと、それが大場ななの脱構築であった。一度切れ目を入れた写真。傷を塞ぐわけでも切り離すわけでもなく、切れ目の入ったままくっつける描写がこれを表している。星見純那を個別の人格として尊重した上で、心を許せる友人として再定義する。星見純那ひいては舞台との新たな向き合い方を見つけたことによって再演は終わり、真に再生産に成功したのである。
TV版では再演が愛城華恋によって終わらせられたのに対し、劇スでは「終わったのかもしれない、私の再演が。今」と明確に終わりを見つめられている。「またね星見純那」「またね大場なな」とフルネームで呼ぶことは関係性の一新を意味するだろう。大場ななは九九組について再演中の姿しか知らないし、寡黙ゆえに知られていない。そこからの脱構築によって「燃える宝石のようなキラめき」に手が届き、「関係性」を手に入れるのである。レヴューによって解体され、得た「関係性」。これこそが大場ななが真に望んでいたつながり方だったのだ。これが2節の「寡黙だが解体を望み、解体されて初めて意味をなすテクスト」ということである。
*7 スタァライト九九組『再生讃美曲』、2020、作詞:中村彼方
5.大場なな、「大場なな」
今一度、大場ななについて振り返りたい。狩りのレヴューによって再演から「次の舞台」へ進むことに成功したが、彼女の「永遠の一瞬」は失われてしまったのだろうか。私の考えはそうではない。それどころか「一瞬」は拡張されて「日々」に適用されるのである。3節で述べたように「永遠の一瞬」とは、記憶や経験の一点への凝縮によって衝撃を得た「瞬間」である。ここで重要なのはやはり一点に集まることである。星見純那および再演への執着から抜け出した大場ななは、よりストイックに「舞台」と向き合うことになるだろう。再生産によって「見え方」が変わると「距離」が変わり「向き合い方」が変わる(*8)。これからの日々、そして今までの再演も含めた日々が全て「次の舞台」へと向けられるようになるのである。「永遠の一瞬」が新たな「永遠の一瞬」を構成し、毎日が「永遠の一瞬」およびその構成要素となる。そんな日々を大場ななはこれから送るのである(もちろん他の九九組も!)。
私たちは、自身の「立つべき舞台」を理解できていないため語ることができない、すなわち寡黙である。そして、解体されて意味をなし、「舞台」との距離が変わることを望んでいる。つまり私たちは「大場なな」であり、それゆえに「永遠の一瞬」から「次の舞台」へ進んだ大場ななにどうしようもなく惹かれてしまうのである。
劇スについて話を広げたい。監督は
と述べている。スタァライトは「抽象」をそのまま映画にすることを試みた作品なのではないだろうか。「抽象」を受け取ってほしいから、「この作品くらいは話の筋を追うこととは違う体験をしてもらってもいい」し、「もっと自由でいいのだと、僕が観始めたころに味わった、映画ならではの“体験”の感覚に触れ」ればいいのだ(*9)と考えられる。スタァライトはその抽象レベルにおいて、従来の映画と哲学書の間に位置している存在なのである。「大場なな」はあくまで先に述べてきた要素を実際の人間よりもやや抽象的に体現させた存在であるため、大場ななになるにはその要素を私たちの具体度合いに演繹させなければならない。それは私たちにとっての「永遠の一瞬」のゴールを見定めることである。
それだけでは足りない。哲学書が理解しにくいのはそれが抽象へ帰納され過ぎているからであろう。「燃える宝石のようなキラめき」を精神的に求めた大場ななは遂にそれを得ることができなかったが(TV版)、「永遠の一瞬」を「日々」に拡張するというフィジカルな追求(狩りのレヴュー)によって「やっと届いた」のである。スタァライトという抽象をそのまま受け取り、フィジカルに追求すること、例えばどうして自分はこんなにもスタァライトが好きなのか、大場ななに惹かれてしまうのかを考えること。その追求によって私たちは「大場なな」を作り上げ、大場ななと同じ抽象に立つことができるだろう。
*8 『「対象物の見え方」が変わると「この世との距離が変わる」、それは「アタシ再生産」。』tree『古川知宏の読書歴 第6回/〈大人〉という存在。〈飛ぶ〉ということ。』
https://tree-novel.com/works/episode/182d0533d5a1c5a803161996a2dce08f.html、2022/09/11 閲覧
*9 MOVIE WALKER PRESS『「痛感したのは、映画への敗北感」“体験型エ
ンタメ” 『劇場版スタァライト』古川知宏監督が明かす、シネスコ画面の裏側』https://t.co/SAgm82Xxz5 、2022/9/11閲覧
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