「狩りのレヴュー」と星見純那が「独立」する瞬間
ヤスダ
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1.趣旨
ワイルド・スクリーン・バロックの三幕目である「狩りのレヴュー」。
そこでの星見純那の活躍は、私たち観客に強烈な印象を残した。
ここでは、狩りのレヴューとそこに至るまでの星見純那と大場ななの心情を考察し、何が私たち観客の心を動かしたのかを考えていく。
2.レヴュー開幕前における星見純那への疑問
星見純那は物語冒頭で大学進学を希望する。彼女の第一希望は草稲田大学文学部。元になったと思われる早稲田大学は演劇と浅くないつながりがあるとはいえ、彼女の選択にはやや疑問が残る。どうして彼女は大学進学を選んだのだろう。
『舞台を客観的に見るための勉強がしたい』というのは彼女の弁だが、それなら草稲田のような総合大学ではなく、第二、第三希望に挙げていたような芸術を専門に学べる大学に進むほうがいいように思える。もしくは役者としての能力を伸ばしたいのなら、他のクラスメイトたちと同じように劇団への入団などを考えるのが自然な流れだろう(仮に草稲田大学に名門演劇サークルや舞台芸術の専門的なカリキュラムが存在し、彼女がそれを目的に進学を決めたのなら、それは劇中のどこかで説明されるはずだ)。舞台人として成長していくという視点で見ると、大学進学という進路はどうも中途半端な気がしてならない。
そして、先生との会話の間に挿入される星見と愛城の舞台実習のシーン。『私は行かねばならないんだ』とセリフを発する星見の表情は旅立ちの希望に満ちたものではなく、『これは仕方のないことなんだ』と相手を説得するような必死さをどこかに感じさせる。
このことから、大学進学という進路は星見にとって決して円満なものではなく、何らかの苦悩の末の選択だったのだと推測できる。他の選択肢を捨ててでも、あえて大学進学を選ぶだけの何かが彼女の中にあったはずだ。以下では、星見純那が大学進学を選ばざるを得なかった理由、およびそのことを彼女がどのように受け止めたかについて考察する。
3.レヴュー開幕前における星見純那の周辺状況の考察
星見純那がどうして大学進学を選んだのか。そのヒントは新国立第一歌劇団の見学に向かう列車の中で彼女が読んでいたメモにある。画面から確認できた内容は以下の通り。
この内容がそのまま彼女の内情を表しているのではないだろうか。彼女が質問したいこと、それはすなわち彼女が答えを欲していることだからだ。このメモから彼女の進路選択について考えていく。まずは二つ目の質問から見ていく。彼女の必死さが伝わってくるような、問いかけを四つも重ねた文章。そして『迷いがあった場合、どのようにして克服されたのでしょうか』という一文。このことから、彼女は今、舞台人として生きていくことに迷いを持っていると考えられる。
しかしこれは、少しひっかかる話でもある。彼女はずっと、舞台で生きていく人間になるためにあらゆる困難を乗り越え努力を重ねてきたのではなかったか。『舞台で生きていく』と舞台少女に目覚めたはずの彼女が、今は『舞台で生きていけるのか』と迷いを持っている。いったい何が彼女にそのような迷いをもたらしたのか。
ここで一つ目の質問を見てみる。そのきっかけは、両親との軋轢にあったのではないだろうか。メモに真っ先に書いたのが『家族や周囲から反対などはされませんでしたか?』という内容であったことから、彼女の進路をめぐって両親との間にわだかまりがあったのは想像に難くない。彼女がかつて両親の反対を押し切り聖翔音楽学園(以下聖翔)へと来たことも踏まえれば、ごく自然なことだと考えられる。そして彼女が聖翔を卒業した後も舞台に立つことについて両親の反対にあっていたとするならば、彼女の進路希望に関してある可能性が出てくる。例えば、他のクラスメイトと同じように劇団への入団あるいは専門学校への進学を希望していたが、両親の説得は失敗しやむを得ず大学進学を選択した、というものだ。
両親が望む大学進学という進路を受け入れざるをえなかったという状況。彼女は、次のステップを前にして舞台で生きていくという意思を貫き通せなかったと感じたかもしれない。もしそうならば、他のクラスメイトたちとの差を痛感することにもなっただろう。仲間たちは舞台で生きていくため新たな段階へと踏み出すなか、彼女はそれができなかったからだ。
これらの出来事を通じて、彼女は舞台少女として培ってきた自分の力に疑いの目を向けてしまった。ゆえに、自分は舞台で生きていく資格があるのかと迷うことになった。この迷いこそが彼女の大学進学に大きな影響を与えたのではないだろうか。
彼女は今、次の舞台へ踏み出すことができない。しかしこのまま大学へ進学すれば、それは覚悟を貫けなかった自分や、仲間たちとの間に開いた差を受け入れることになってしまう。また、自分が舞台に立ち続けていいのかという、舞台少女の根源にも関わる重要な問いにも答えを出さなければならない。
そこで出てくるのが「今は」というセリフである。
「今は」あえて大学進学を選んだとすることで、自分が抱えている弱さや迷いにうまく蓋をしようとした。大学進学は両親を説得できなかった結果ではなく、舞台を客観的に見るために自ら選んだ合理的な選択であり、いつか舞台に立つために「今は」回り道をするのだ。このように理由を付けることで、彼女は現状をどうにか受け入れようとしたのではないだろうか。しかしこれは、あくまで現状を正当化しているだけであり、彼女の抱えた弱さや迷いが解決されたわけではない。そしてこの心の動きは、狩りのレヴューに大きな影響を与えることになる。
4.星見純那の進路選択が大場ななに与えた影響
大場ななは、舞台を求め続けると思われた友人の進路をどう思っただろうか。それはおそらく彼女の中に大きな動揺をもたらしたのではないだろうか。
自分だけの舞台を目指し、ひたすらに手を伸ばし続ける。そんな星見の姿にかつて大場は救われた。そんな星見の姿は、再演を繰り返していた大場が持ちえなかった「眩しい生き様」だった。ならば星見の進路選択は大場にとっての生きる目標、希望が突然消えてなくなるような大事件だったのではないだろうか。
星見純那の進路はまるで舞台を諦めたかのように見え、口から出てくるのは淡々とした「今は」という言葉。それは大場に失望と喪失感をもたらしたに違いない。かつて自分に見せてくれた「星に手を伸ばす姿」は嘘だったのか。眩しい星見純那はどこへ行ってしまったのか。そんな強い感情が彼女の中に渦巻いていたのではないだろうか。
そんな中ワイルド・スクリーン・バロックが開演し、大場は星見と相対するチャンスを手にすることになる。
このとき彼女は何を考えただろう。星見に進路を考えなおすよう説得しようという考えはなかっただろう。そもそも星見は(表面上は)舞台のために大学へ行くと言っているのだから、大場にそれを止められる道理はなかった。
なら、大場は次に何をしようとしたのか。それは、目の前の星見純那ではなく自分の中の「星見純那への執着」にケリをつけることだったのではないだろうか。
執着とは、言い換えれば、星見が再び輝きを取り戻すのではないかという大場のわずかな望みではないだろうか。輝く星見の姿は大場にとって大きな存在であったからこそ、いつだって星見が眩しい姿のままでいることを願わずにはいられない。大学進学によってそれが絶望的になってもその執着は変わらずあり続け、その結果、大場はその願いと現実の間で苦しむことになった。ゆえに彼女は、この最後の希望を断ち切るために狩りのレヴューの舞台に立つことを選んだのではないだろうか。
今の大場と星見をつないでいた、眩しい星見純那の姿。それがもう戻らないと確信できれば、自分の淡い願いに苦しまずに済み、キラめきを失った今の星見に未練なく別れを告げることができる。かつて自分を救った星見の姿はもう存在せず、今やただの思い出になってしまったのだと、この喪失を受け入れることができると考えたのではないだろうか。
5.大場ななの狩りのレヴューの意図についての考察
では、大場ななは執着にケリをつけるために何をしたのか。それは星見純那と大場ななを繋ぐものがもう存在しないと証明することだった。すなわち「大場ななを救った星見純那の輝き」は今や存在せず、そしてその輝きは二度と戻ることはないとお互いが認める(認めさせる) ことだったのではないだろうか。
つまり大場からすれば「星見純那は舞台への執着を失った舞台少女」だと、星見に合意させることがレヴューにおける狙いになった。こういった狙いが、狩りのレヴューの根幹である「星見に切腹を迫る」という構図へとつながっていく。
切腹という行為は(たとえそれが強要されたものであったとし
ても)罪人が自ら腹を切ることで「自らの罪を認めた」という合意を発生させる行為である。つまり切腹を通じて「舞台への執着を失った愚かな星見純那」という役を星見に受け入れさせる(=合意させる)ことで、大場ななは自分自身の執着を終わらせようとしたのではないだろうか。大場は星見に「眩しい星見純那」を捨てさせることで別れを成立させようとした。しかしよく考えてみると、このレヴューが大場の望むとおりに運ぶかは、星見が切腹を受け入れるかどうかにかかっている。二人の間に横たわる微妙な力関係が、のちのシーンに大きな影響を及ぼすことになっていった。
6.狩りのレヴューと大場ななの立ち回り
星見純那が、自分は「舞台への執着を失った舞台少女」だと受け入れることこそが、大場にとって狩りのレヴューの目的である。それを達成できなければ大場が自分の執着を終わらせ、星見に別れを告げる目論見は崩れてしまう。
それを避けるために彼女は入念に仕込みを行った。とにかく今の星見を拒絶し「舞台への執着を失った舞台少女」という役に強く押し込もうとした。それがレヴュー冒頭、「大場映画株式会社」の映像に投影されていた星見純那の「今は」であり、「生き恥晒した醜い果実」というセリフであり、星見のことを「純那ちゃん」ではなく「君」と呼ぶことだった。
では、この状況を星見の側から見るとどうだろう。いきなり現状を否定され、それに落とし前をつけろと言わんばかりに切腹まで迫られている。彼女からすれば自分の進路に不満はなく、否定される筋合いはない。「今は」と言いながらも自分の選んだ道は、星見なりに筋は通っていると思っているからだ。
だからこそ「私の邪魔をするのなら」と武器を手に取った。自分は間違っていないのだと証明しなくてはならなかった。今の自分を醜い果実だと認めるわけにはいかない。自分を後押しする言葉で、自分の進路は正しいのだと主張し、一時は大場を圧倒してみせた。しかし、大場はそんな星見の裏に潜む嘘に気づいていた。
すなわち、星見が選んだ進路は舞台を目指さないための言い訳であり、彼女の吐く言葉は舞台を目指し切れなかった今の自分を正当化するためのものに過ぎないと見抜いていた。だからこそ、彼女は星見の繰り出した言葉の矢をあっさりと打ち破り、否定した。そして星見への執着を終わらせるため、大場は最後の攻勢に出る。
無感情な淡々としたセリフと、二人を隔てるかのように写真に突き立てられた刀。輝きを失った今の星見を拒絶し、星見純那はキラめきを失ったのだという現実を彼女に突きつけた。
大場によって、星見は隠していたはずの本心が白日の下にさらされ、まざまざと見せつけられることになった。いまや星見の心は完全に折れ、差し出した刀を星見が受け入れるまでもないかのように見えた。
7.星見純那の復活劇
自分の挫折と直面し、刀を前にした星見は何を思っただろうか。今や、自分の武器だったはずの言葉は否定され、舞台少女としての今の自分も否定されてしまった。
そんな中でも星見は言葉を捨てられなかった。いつだって彼女を舞台へと導いてくれたのは誰かの力強い言葉だったに違いない。そんな言葉で、彼女はどうにか自分を奮い立たせようとしたのではないだろうか。今までそうやって彼女はいろんな困難を乗り越えてきた。
しかし、いまさら他人の言葉でどれだけ取り繕っても、もう何も変わらない。以前のように自分の弱さに蓋をしてごまかすこともできない。それでもなお懸命に、彼女は立ち上がるための言葉を探していた。しかし、そんな言葉は見つからず、いよいよ刀を手にしたとき、彼女はふと考えたのではないだろうか。
何か間違っていないだろうか、と。
どうして自分は立ち上がろうとしているのか。
誰かの言葉が、そうせよと語るからだろうか。
そうではないはずだ。
星見純那が立ち上がるのは、自分が主役の眩しい舞台を掴み取るためだったはずだ。
自分が舞台に立つ理由。それを語るのは自分の言葉でしかありえない。
他人の言葉ではダメなのだ、と。
大場ななは、「自分はもう舞台には立てない」と認めるよう星見に迫ってきた。これは彼女が大学進学を選んだ時とよく似ている。彼女は両親に大学進学を迫られ、「今は」と言い訳をしながら受け入れてしまった。その結果、舞台少女としての自分を信じられなくなった。
しかし、今度は違う。
誰かに与えられた役に、どうこうと言葉をつけて受け入れることはもう終わりにしなければいけない。
自分自身が強く望む「主役」。それは、他人から与えられた役など破り捨て、自分の手で掴み取らなくてはいけない。
だから彼女は自らのキラめきで、「愚かな星見純那」を受け入れるための刀を戦うための武器に変えてみせた。「舞台少女・星見純那」として、眩しい主役として絶対に手に入れるのだと強く宣言した。
そして星見純那は大場ななに真っ向勝負を求める。相手を思い通りに動かそうとする「意図」も、自分を守る「他人の言葉」もそこにはもう存在しない。今手にしている武器で、このレヴューでポジション・ゼロを勝ち取る。それこそが、自分が眩しい主役になるのだと証明する一番の手段だからだ。
今舞台の上にいるのは、もはや大場が望んだ「愚かな星見純那」ではない。主役という星は今や星見純那の目にはっきりと映り、その星に手が届くと強く信じて疑わない。
彼女はもう、誰かが勝手に押し付けた役を演じさせられる存在などではない。どんな困難があろうと、眩しい主役を掴むために進み続ける自分こそが「舞台少女・星見純那」だと強く信じて疑わない。
そんな彼女の姿は、大場ななにとって未知の存在だったのではないだろうか。
そんな彼女のキラめきに満ちた「自分の言葉」によって二人の戦いは終わりを告げた。そこにはもう執着に動かされる大場ななは存在せず、自分に自信を失くした星見純那も存在しない。存在するのは、別れを目の前にした二人の舞台少女だけだった。
8.私たちを動かしたものは、結局何だったのか
劇場版を観劇している間、私たち観客は星見純那に漠然とした不安を感じていた。大学進学という星見純那の行く先に胸を張って行ってこいと言えなかった。彼女が大学進学を選んだ時、これが何かの間違いだと思った人はおそらく少ないだろう。ああ、舞台から離れるかもしれないんだ、と多くの人が心のどこかですんなり受け入れたはずだ。そう考えたとき、実は私たちは星見純那のことを心から信じていなかったのではないだろうか。
主役を目指す星見の姿をいつも応援しつつも、いつの間にか私たちは、星見は「主役にはなれない」と心の片隅で思い込んでいた。彼女は必ず負けてしまう。けれどそこから立ち上がるからこそ星見純那なのだ。ゆえに彼女が主役を勝ち取ることなどないのかもしれない。いつしかそんなストーリーを彼女に押し付けてしまっていた。
しかし星見純那はそんなものを真っ向から否定してみせた。
眩しい主役、星見純那。それには手は届かないのだと、観客は勝手に諦めて納得しようとしていた。しかし、彼女はそんな観客の諦念にさえも刀を向け、うち砕いて見せた。そしてついに「自分は主役だ」と高らかに宣言してみせたのだ。
この瞬間、星見純那は観客が作り出した「主役になれない」物語から解放され、一人の舞台少女として、レヴュースタァライトの物語から「独立」することができたと言えるのではないだろうか。
上掛けを脱ぎ捨てた星見純那の行く先には、彼女だけの、彼女が主役の物語が存在していることをもう誰も疑わない。
たとえどれだけの困難が舞台少女・星見純那に降りかかろうと、彼女は必ず主役を掴むことができる。そう胸を張って宣言した星見純那の眩しい姿。そして彼女が主役を掴めるということを一点の曇りもなく信じられたというその事実に、私たち観客はどうしようもなく胸を打たれたのではないだろうか。
著者コメント(2022/10/10)
ここまで読んでいただきありがとうございます、ヤスダと申します。
あの日劇場で受けた眩しいキラめきが、私をここまで運んできてくれました。
主催の皆様をはじめ、この企画に携わられた方々に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。自分のつたない文章力では、書き表せていないことや伝わっていないことは多々あると思います。それでもこの“ スタァライト” への“ 熱量の塊” の一部として、企画に参加できたことを大変うれしく思います。
本当にありがとうございました。
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