私に語りかけ、手を差し伸べる「あなた」がいるところ —「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」にみる、自己イメージの死と再生—
新中野
https://twitter.com/shinnakanodayo
序文
本稿では、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の終盤で描かれる愛城華恋の死と再生産に着目し、愛城の再生産を可能ならしめたものについて考察する。そのために、「上掛け=役」説から出発し、私たちがコミュニケーションの相手としているのが相手本人ではなく、相手の「イメージ」であるという点を指摘するところから論を始めたい。
2つのレヴューの差異:開幕での「別れのレヴュー」と終幕での「最後のセリフ」について
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下「劇場版」)という作品は、神楽ひかりと愛城華恋の2人のレヴューで幕を開け、「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」作品世界(以下「少女☆歌劇」)の終わりで幕を閉じる(*1)。
劇場版の幕開けとともに行われた2人のレヴューについて、その唐突な始まり方と、神楽の一方的な口上による終わり方のため、わからなさを感じた向きも多かっただろう。このレヴューは一体何だったのだろうか? 謎を解く鍵は、TVアニメシリーズ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下「TVアニメ」)第12話にある。この回の終盤では、愛城が自ら出現させた「舞台装置 約束タワーブリッジ」の上を、神楽に向かって歩む姿が描かれている。この時の愛城を見つめる神楽の表情は、直前まで運命の舞台を演じていた時に見せていた役者としてのものではなく、愛城に見惚れる神楽自身の素のものになっていた。「舞台装置 約束タワーブリッジ」を渡ってやってきた愛城に対して神楽は、
と語り、2人で“戯曲 スタァライト 新章 「星摘みのレヴュー」”を演じることでTVアニメシリーズは幕を閉じた。
しかし、劇場版終盤で自分の目の前で死んでしまった愛城に対する神楽の、
という告白からわかる通り、役者であり続けられず、素に戻されてしまったTVアニメ第12話でのこの経験は、彼女にとって忸怩たるものであった。そこで、愛城とのいわば「別れのレヴュー」を行ったのが劇場版冒頭のシーンである。愛城が作り出した東京タワーをモチーフにした舞台から、神楽が下りるストーリーだ。この時に神楽のキラめきがポジションゼロの形で噴き出しているのは、「私にとって舞台はひかりちゃん」という認識でいる愛城には、神楽のキラめきがポジションゼロに見えたためであると思われる。
これと対照的なシーンが、劇場版ラストの「最後のセリフ」で繰り広げられている。この時の愛城には神楽の周りに漂うキラめきが、ポジションゼロとしてではなく、キラめきそのものとして見えている。なぜならこの時点で愛城はもう、
と言える新しい自分になっていたからだ。もはや「舞台はひかりちゃん」ではなくなり、その先の「舞台そのもの」を見出していたのだ。衣装の胸にT 字の破れを負った愛城(*2)が発する
という言葉には、「『戯曲 スタァライト』を演じきってしまったら自分には何もなくなってしまう」という自己認識を破り捨て、「レヴュースタァライト」(愛城の認識する「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」作品世界)を演じきることで、更に先の、次の舞台を目指せるようになった愛城の心情が表れていると言えるだろう。
この心情の変化は、愛城の自己認識(自己イメージ)の変化によって引き起こされたものだと考えられる。本稿では、この自己認識の変化を可能ならしめたものについて検討する。
*1 本文で述べている「作品世界の終わり」とは、彼女たちについて描かれる時系列の最後という意味である。劇場版が舞台やアニメといった「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」作品群の最後の一作だ、という意味ではない。実際に、劇場版公開後も舞台公演は行われている。劇場版終了以降の、つまり聖翔音楽学園卒業以降の彼女たちが「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」として描かれることはないであろうという意味であり、現時点で予告されている舞台を含めて「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」として描かれる作品は、この最後の瞬間より前の時系列で描かれるだろう、という意味である。愛城が「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」そのものを演じ切ったと言っても、「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」の作品群が今後発表されなくなるという意味ではないだろう。
また、劇中では「スタァライト」と「レヴュースタァライト」の2つが言及されている点に注意を要する。劇中劇として登場する作品名は、「スタァライト」(2006年のMusical と、聖翔祭での戯曲)であり、「レヴュースタァライト」という作品は登場しない。このことから、前者は劇中劇を、後者は「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」そのものを指していると考えられる。
*2 愛城は劇場版終盤で神楽の短剣によって胸を刺され、衣装がポジションゼロ状に破れることとなった。神楽にとって愛城がポジションゼロであったためだ。ポジションゼロとは、愛城がTVアニメ第1話で述べている通り、「舞台のセンター」である。幼い頃から舞台に憧れ、舞台に生きてきた神楽にとって、舞台は人生の大きな部分を占めるものであっただろう。TVアニメ第12話での「華恋が私の求めていた『スタァ』」との語りなどから考えて、その舞台のセンターには愛城がいた。神楽はロンドの終わりで「運命の舞台まで追いかけてきてくれてありがとう、華恋。でも私たちの舞台は、まだ終わっていない。私たちはもう、舞台の上」と語っているが、「戯曲 スタァライト」という運命の舞台を終え、一緒に『スタァライト』を演じるという「あの約束」を成就した後も2人の関係は続いていた。そこは「あの約束」抜きの「私たちの舞台」だ。
神楽と愛城は、互いに相手に対して強い感情・執着を抱いていた。神楽は愛城のファンになってしまいそうな程であったし、愛城は「私にとって、舞台はひかりちゃん」と言って憚らなかった。両者の間にあってこの強い思いを受け止めることで、いわば2人のクッションとなっていたのが「あの約束」であったと考えられないだろうか。2人の強い思いが「あの約束」に向かうことで、神楽は愛城の、愛城は神楽の強い思いに直接対峙することを免れた面があるように思える。
一方で「あの約束」抜きの関係とは、お互いがお互いの強い感情を直接に正面で受け取る関係である。互いに拘泥しあい、そこに留まる関係とも言えるだろう。この関係こそが「私たちの舞台」ではないだろうか。これに耐えられず、愛城と正面から向き合うことができなくなったために、神楽はロンドンへ「逃げた」のだろう。これは一見すると神楽が愛城から離れたため、拘泥するのをやめたようにも見えるが、「逃げる」とは逃げる元を基点とした行動であるため、愛城から逃げている限りは、やはり愛城に拘泥し続けているといえる。
しかし、ロンドンから帰ってきて再び愛城と向き合った神楽は、もはや以前の神楽ではなかった。自分が発した言葉によって、約束タワーへやってきた愛城を死なせてしまったため、そのような関係という「この舞台」を終わらせようと、愛城をお手紙とともに送り出した。戻ってきた愛城に向かって「ここが舞台だ! 愛城華恋!」と叫ぶ神楽には、愛城のキラめきと正面から向き合うという覚悟があったであろう。神楽が愛城の衣装に残したポジションゼロは、愛城が自らにとってのポジションゼロであることを認めて受け入れた証である。
「上掛け=役」説
人は誰しも、その場・その時に応じた適切な役を演じている。そのため、1人の人物の振る舞いは、家庭や職場、友人関係などの様々な場において一様ではない。相手や場に応じて振る舞い方、つまり「役」を変えているのだ。この点は、誰もが思い当たる節があるだろう(*3)。劇場版においてこの「役」は、レヴュー服の上掛けによって表現されている。この上掛けの性質が最も端的に現れているのが「怨みのレヴュー」だ。
このレヴューの終わりで石動双葉が花柳香子の上掛けの留め紐を切るが、その際、石動は
と宣言した。これは、それまで石動に対してワガママを言い待たせることもしていた花柳の役を、このレヴューをもって石動が終わらせたことを表している(*4)。
*3 この「役」を、人と社会との間で両者を仲介する「ペルソナ」として捉えて理論化したのがカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875-1961)である。本稿ではペルソナ理論で扱う内容は対象としないが、ペルソナ理論については『自我と無意識の関係 新装版』(野田倬訳、2017年、人文書院。原著は『TheRelations between the Ego and the Unconscious』1928年初版、1935年第2版)と『無意識の心理 新装版』(高橋義孝訳、2017年、人文書院。原著は『Onthe Psychology of the Unconscious』1943年)に詳しい。原著はどちらも『TheCollected Works of C. G. Jung』(プリンストン大学出版局など)第7巻に収録されている。
*4 ただし、「演じていく」といっても心理的・抽象的なものであり、具体的にワガママを言ったりするものではないだろう。花柳と石動の希望する進路は別であり、2人は互いに離れ離れになることを前提していたと推察できるからだ。
「私が語りかけるあなた」は誰なのか
誰もが役を演じているということは、私たちの周りにいる人は、「私」と対峙する時にその人物本人として現れるのではなく、「役」として現れるということだ。その人物本人が立ち現れて、「私」に対峙しているわけではない。そして「私」もまた、その人物本人とは対峙していない。私たちは誰かとコミュニケーションを図る時に、相手の人物像を想定し、その像とやり取りを行っている。「私」が対峙しているのは、あくまでもその人物の「イメージ」なのである。
私たちが友人に語りかける場面を例にとって考えてみると、私たちは、その友人とのこれまでのやり取りの蓄積から像を想定し、この像に対して、話題を考え、口調を調整し、語彙を選んで語りかけているのではないだろうか? この時に想定している像こそが友人のイメージである(なお、本稿では『イメージ』という単語を、上記で説明したような、対象とのやり取りの蓄積から想定した像、という意味で用いていく)。友人と会話する様子は、このイメージという概念を用いると、次のように表すことができる。
①友人のイメージを想定し、そのイメージに向かって言葉を語る
②言葉はイメージを通って友人本人に届く
③友人本人が言葉を返す
④友人本人からの言葉は、イメージを通って返ってくる
⑤返ってきた言葉をもとに、友人のイメージを更新(再想定)する
このように、私たちは相手本人に語りかけているつもりでありながら、実は相手のイメージに語りかけているのである。また、このやり取りの過程で、相手本人から返ってきた言葉をもとにイメージは更新されていく(*5)。この相手本人とイメージとの関係は、カントの言う物自体と現象界との関係にも似たところがあるだろう(*6)。
*5 本稿は言語によるコミュニケーションでの場合について記述しているが、ボディランゲージなどの非言語的コミュニケーションでも同様の事態は起こるため、同様に記述することができるだろう。コミュニケーションとは、イメージに向けた発信と、イメージからの返事の解釈の集積である。よって、言語的であろうとなかろうと、イメージを想定できてメッセージの発信と返事の解釈が可能な対象との間であれば、同様の事態が成り立つからだ。しかし、こと思考に限って言えば、思考は言語によって行われるため、言語によって表現されない限り、思考が表されることはない。また、思考の全てが文字や語りによって表出されるわけではないため、イメージと本人の差が最も開きやすい部分であるといえる。本稿で特に言語によるコミュニケーションに絞って記述しているのは、このためである。
*6 「物自体」は、19世紀のプロイセンの哲学者であるイマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724-1804)が『純粋理性批判』で提唱した概念である。本書には多くの翻訳と解説があるが、翻訳では中山元訳(2010年、光文社古典新訳文庫)が読みやすい。また、解説では御子柴善之著『純粋理性批判』(2020年、角川選書『シリーズ◆世界の思想』)が丁寧な解説でかつ読みやすい。カントを読むにあたって「読みやすい」ことは、ある意味で最も重要なことである。なお、御子柴(前掲書、p106)によれば、カントは多くの場合に「物自体(Dingan sich)」ではなく「物それ自体(Ding an sich selbst)」と記している。
イメージの死
私たちが語りかけているイメージは、相手本人と同一ではないため、イメージと相手本人の間にはある種の緊張状態が生じる。というのも、イメージは対象とやり取りをするたびに死ぬからだ。
このイメージの死は、前節に挙げた整理でいえば⑤に該当する。相手本人の返事をもとに行うイメージの更新とは、イメージをその時の相手本人に寄せていく修正作業とも言えるが、この更新のたびに、それまで持っていた相手についてのイメージは死ぬ。これは相手とやり取りをするたびに起こるため、頻繁にやり取りをする相手であれば、そのイメージは日常的に死ぬことになる。とはいえ日常的な死であれば、そのショックは殆どないことが多いだろう。なぜなら日常的なイメージの更新は、その差分が軽微であることが多いからだ。多大なショックを伴うような大幅なイメージの更新であるイメージの全面的な死が、日常的に起こることは考えにくい。
では反対に、イメージが死なずに生き続けるとはどういう状態であろうか。最もわかりやすい例は相手本人が死亡している場合である。相手本人が死亡しているなら、どれだけイメージに語りかけようとも返事がくることはないため、イメージは死なず生き続ける。
つまり、相手本人が生き続ける限りイメージは死ぬ可能性があり、相手本人が死んだ後になって初めてイメージは生き続けることになる(*7)。
*7 7死後に故人の日記を読んだら思いもよらぬ事実が書かれていてイメージが死んだ、というような事態も想定することはできるが、一般的ではないだろう。
イメージが死に、相手本人が生き続けている場合
日常的なイメージの死ではなく、相手本人からの返事によってそれまで抱いていたイメージが全面的に更新されるような、イメージの全面的な死とは、どういったものであろうか? これが端的に描かれているのが、大場ななと星見純那による「狩りのレヴュー」である。
TVアニメ第2話で、天堂真矢・西條クロディーヌペアのダンスに歓声を上げるクラスメイトを、
と一喝し、TVアニメ第9話で「絆のレヴュー」に敗れて池の端に座り込んでいた大場を自分自身の言葉である口上によって力づけたような星見の姿は、劇場版では見られなくなっていた。3年生になった星見の舞台に取り組む姿勢は、1・2年生の時とは実に対照的だ。新入生の前で行われた演技実習では、愛城の演技を見て素に返った上に、演技を続けた愛城をおいて観衆に向き直って拍手を受ける、という有り様だった。花柳に指摘されるまで5月14日が1年前のオーディション初日であったことを忘れていた星見の姿は、TVアニメ第2話でオーディションについて「こっちは真剣なの。あなたと違って、私は」と切実に語った姿からかけ離れている。
大場が築き上げた星見のイメージである「純那ちゃん」は、先述した2年生までの星見とのやり取りの中で、主に1年生の時のものを基にしたものだっただろうと考えられる。なぜなら、TVアニメ第7話でキリンから「もう何度目かわかりません」と言われるほどに、第99回聖翔祭までの1年間を繰り返した大場が、「純那ちゃん」を築き上げる際に最も多くやり取りをした相手は、1年生の星見だったからだ。
3年生の星見と「純那ちゃん」との乖離は、大場にとって受け入れがたいまでになっていたであろう。「純那ちゃん」に死を迎えさせて、自らの星見への執着を断ち切るために、大場は舞台を用意した。「狩りのレヴュー」である。
大場は、星見を思い出の場所である池の端に追い詰めてレヴューを始め、挫けた星見へ自害するよう左手に持っていた刀を差し出す。そして「純那ちゃん」と訣別するため池と反対方向へ、自分の一つ星の方向へ校舎のセットを割って歩んだ。
しかし、レヴューの中で星見に投げかけてた大場の言葉は、星見本人に届いていた。星見は他人の言葉を語ることをやめ、「愚かしくがむしゃらに主役に手を伸ば」していたそれまでの「純那ちゃん」をやめて、新たな「星見純那」を演じ始めたのだ。
この口上は、「何か/誰かに、届くか/足りるか」というように「他者を基準とする」ことをやめ、新たに自分自身をスタート地点として舞台に立っていくのだ、という星見本人による再生産の宣言であった。
当初、この星見本人の変化に気づかなかった大場は、相手を「純那ちゃん」のままであると想定して語りかけ続けていたが、
と叫んで、イメージから相手本人に意識を向け直し、さらに星見本人からそれまでのイメージと大幅に乖離した言葉が届いたことで、大場が抱いていた星見のイメージは全面的な死を迎えた。
と語る姿の悲壮さは、それまでの「純那ちゃん」というイメージが全面的に死んだことを悟ったがゆえのものであろう。とはいえ、このイメージの死は、星見本人が大場にとって大幅に良い方へ変わったために起きた死であった。だからこそ最後に、
と言い得たのだ。これは、星見本人との新たな関係(新たな星見のイメージとのやり取り)の最初の言葉にして、それまで抱いていた「純那ちゃん」への惜別と感謝の言葉であろう。
レヴューの中で星見本人からやってきた返事は、それまでの「純那ちゃん」から想定されるものを遥かに上回っていた。だからこそ、星見のイメージのみならず星見本人も、大場にとって「やっぱり、眩しい」のだ。
人は、自分が生きる物理的な世界を知覚し、獲得した情報を基に自分なりの世界を再構築する。この時に行われる情報の獲得は選択的に行われ、その人の認識に沿って解釈されてイメージが想定されるため、その人が生きている物理的な世界と、その人によって再構築された世界は同一にはならない。このようにして成立した再構築後の世界が、人が認識する世界である。認識の仕方は人それぞれに異なるため、再構築後の世界の有り様も人それぞれに異なる。また、この自分なりの世界は多くのイメージの集積によって成り立っており、その中でも特に大きな存在であるイメージの大幅な更新は、その世界全体の大幅な更新を引き起こすことがある。この世界の大幅な更新をやり遂げた時、人は再生を果たす。
かつての星見本人が再生産を果たし、星見についてのイメージである「純那ちゃん」が死んだことを契機に、大場は再生産を果たした。
イメージも相手本人も、生き続けている場合
前節では、イメージが死んで相手本人が生き続けている場合について検討した。本節では、イメージも相手本人も生き続けている場合について検討する。具体的には、5歳以降の愛城から見た神楽についてである。
5歳以降の愛城から見てロンドンに行った神楽は、神楽本人は生きているが、先述した整理における③の返事は来ないため、愛城にとっての神楽のイメージである「ひかりちゃん」は、更新されることなく生き続けることになる。これにより愛城には、恐怖にも似た強い緊張が生じたと考えられる。なぜなら、神楽から返事が来た場合に、その返事の内容によっては神楽のイメージが全面的な死を迎える可能性があるからだ。さらに言えば、返
事の来ない期間が長くなれば長くなるほど、神楽本人と「ひかりちゃん」との差が大きなものとなる恐れが、つまりイメージの全面的な死の危険性が強まるためだ。
神楽に対して「2人で交わした約束を忘れずに歩んでいて欲しい」と願う愛城にできることは、自分も約束を果たせるよう努力することと、祈ることであった。愛城は「見ない・聞かない・調べない」という「自分ルール」を自らに課していたが、これは別の言い方をするならば、こういった形式での「祈り」である。初めてスマートフォンを持った後に駅のホームで、「神楽ひかり」と打ち込んで、それを消すシーンが描かれているが、これは、神楽も努力を続けているか不安だが、努力を続けていると信じたいから、信じていることを表明するための「祈り」として「調べない」を新たに自らに課したシーンである。
神楽が約束を忘れずに歩み続けているか心配だが、それを確かめることは大きな不安と恐怖を伴うため、神楽の母が送ってくる近況報告の手紙や写真を見ることができない。そんな心境だった愛城は、ひょんなことから神楽が写っている写真の一部を目にする。その神楽の姿は、約束を忘れずに道を歩んでいると期待できる姿だった。深夜1時42分、逡巡の末、愛城はスマートフォンで「神楽ひかり」を検索した。そこで見つけたのが、王立演劇学院の2016年の合格者一覧に名を連ねる神楽であった。神楽も約束を忘れずに歩んでいたのだ。この時の愛城の覚えた安堵はいかばかりであったろうか。聖翔音楽学園受験に向けて、大きな力となったはずだ。
愛城が生きてきた世界において、神楽の存在は非常に大きかったはずだ。その大きな存在である「ひかりちゃん」の全面的な死という恐怖と背中合わせでありながら、この時までは、「ひかりちゃん」が生き続けていることを祈るしかなかったのだ。
筆者は、この時に神楽の名前を見つけたことがきっかけとなって、愛城が聖翔音楽学園の受験を決めたのであろうと考えている。愛城の芸能活動歴を、『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』(以下「ロンド」)のパンフレット(*8)で見ると、
となっている。「青空の向こう」は「出演」となっているが、ポスターの体裁を見る限りセイラ(*9)とキャシーのダブル主演である。中学生となった2014年にはタイトルロールも演じている上、2つの公演で主役を演じており、かなりの実力だったと言えるだろう。
パンフレット同ページの「志望動機・将来の展望」には、
と書かれている。実力があったとはいえ、愛城が聖翔音楽学園を受験するには決意が必要だったのだ。では、彼女に決意させたものは何か? それこそが王立演劇学院の合格者一覧に見つけた神楽の名前ではないだろうか。神楽が約束を忘れずに歩んでいると知ったことで、愛城は聖翔音楽学園受験を決意することができ、それまで抱いていた「ひかりちゃん」は死なずに生き続けることとなったのである。
*8 ロンドパンフレット、愛城ページ
*9 ロンドパンフレットの愛城ページでは「セーラ」、劇場版で描かれた「青空の向こう」のポスターでは「セイラ」と表記されている。
自己イメージの死
ところで、私たちがイメージを抱く相手は他者のみなのだろうか? 自分自身についてもイメージを抱いてはいないだろうか? 独りごつ時、考え事をする時、服を選ぶ時、人に会う時など、日々の生活において自分自身のイメージを前提してはいないだろうか。例えば、自分らしい物言いや、自分らしい考え方や、自分らしい服の選択や、自分らしい立ち居振る舞いを、自然と行ってはいないだろうか。自分自身についてもイメージを持っているならば、この「自己イメージ」も全面的な死を迎える時があるはずだ。劇場版の愛城華恋のように。
だと思い、前だけを見てきた愛城は、たどりついた東京タワーで神楽によって舞台に立たされた。さらに神楽が、
と次の舞台に向かう宣言をしたことで、神楽が「自分の舞台」ではなくなることを知った愛城は、この舞台上で死を迎えた。舞台がなくなったら役者は役者ではなくなるからだ。加えてこの死は、愛城の世界において大きな範囲を占めていた「ひかりちゃん」が全面的な死を迎えたことで引き起こされた愛城の自己イメージの死でもある(*11)。
神楽からの舞台への招待状とともに東京タワーから落ちた愛城は、しかし、前を見続けてきたこれまでとは逆に、今度は自分がこれまでやってきたことを振り返った。「こんなに綺麗なの、初めて」と、舞台に魅せられてからの13 年間を。愛城がやってきたこと、やり続けてきたこと。それは、大好きな舞台に立ち続けることだった。13 年間歩き続けてきたからこそ、行き先を見失っても、振り返ればこれまでの足跡が残っていたのだ。
神楽に呼び止められた5歳の愛城から、死せる愛城へ、トマトが渡された。
再生産。
*11 劇場版で、その死が描かれたキャラクターは愛城のみである。愛城と神楽を除く7人は、生きているキャラクターが自分(の死体)と対面するシーンが描かれた。ここには、舞台に立っていたが演じるべき次の役がないために舞台少女としては死んでいた7人と、ひかりちゃんという舞台を失ったがために自己イメージが死んだ愛城との違いが表れているといえる。
では、神楽はなぜ、その死も死体も描かれなかったのだろうか? これは、神楽に起きた変化が「愛城から逃げている」という認めたくなかったことを認めた、という変化であり、認めたくなかったことの受容の過程において自己イメージは死ななかったからだと考えられる。また、死体が描かれなかったのは、愛城から逃げてロンドンに戻った神楽は、もはや舞台に立ってすらいなかったため、舞台の上では死んでいなかったからであろう。
「2人で1つのスタァ」から、「2人のスタァ」へ
「舞台の上にスタァは1人、私がスタァだ」と堂々と宣言した神楽をみて「ひかりちゃんが悔しくて、ひかりちゃんから目が離せない」ことを自覚した愛城は、「私もひかりに負けたくない」と宣言した。この一言によって蓋をされていた愛城の13 年分のキラめきが解き放たれた。
愛城のキラめきによって飛ばされた東京タワーという、神楽との舞台。その終焉。「少女☆歌劇」の終演。何もない砂漠に東京タワー上部が刺さり、刺さった位置に砂塵の中から現れるポジションゼロ。
ポジションゼロは所与ではない。ポジションゼロにスタァが立つのではなく、スタァが立つ場所がポジションゼロとなるのだ。東京タワー上部が刺さった場所に現れたポジションゼロ。これこそが愛城の「私もスタァだ」という宣言である。かつて、2年生の愛城が「絶対一緒にスタァになる」と語っていたように「2人で1つのスタァ」だった神楽と愛城は、ここで「2人のスタァ」となった(*12)。
「少女☆歌劇」という物語の中に生まれ、生きた、舞台少女による物語の終焉の宣言。
「少女☆歌劇」の続編はきっとないだろう。次の作品があるとすればそれは、「少女☆歌劇」ではなく、舞台少女1人ひとりの続きの物語になるだろう。
1つの物語が終わる。
*12 砂漠に東京タワー上部を刺して、何もないところからポジションゼロを出現させたのが愛城である以上、あのポジションゼロは愛城のものだと考えるのが妥当だ。しかし、「ポジションゼロ」と宣言したのは愛城ではなく神楽であった。そのため、このシーンからちぐはぐな印象を受けるかもしれない。そこで、このシーンについて筆者なりの解釈を記したい。
神楽が発した「ポジションゼロ」という言葉は、「私たちの舞台」を終わらせるための宣言であったと、筆者は考えている。
そもそも、愛城が列車に乗ってやってきた舞台(物理的な舞台ではなく、「舞台を演じる」という用法での舞台)を用意したのは神楽だと考えられる。これは、東京タワーから落ちる愛城への「私からお手紙を送るね。この舞台を終わらせるために」という神楽のセリフから、舞台への招待状を送っている神楽が舞台の主催者でもあると推察できるからだ。神楽はこのセリフの後で、一度口元に笑みを浮かべてから真剣な面持ちになり「舞台で待ってる」と言ったが、この時に神楽は「私たちの舞台」に上がったのだろう。
ではいつ舞台が終わったのか? それこそが、砂漠に刺さった東京タワーを見た神楽が「ポジションゼロ」と宣言し、顔を綻ばせた時であろう。神楽と愛城は、2人とも「私たちの舞台」に上がり、神楽は愛城のキラめきと向き合うことができ、愛城は神楽に対して抱いていた「負けたくない」という思いに気付いて言葉にすることができた。こうして「私たちの舞台」は幕を閉じた。
あのポジションゼロは愛城のものだが、「私たちの舞台」の終幕の徴でもあった。だからこそ「この舞台を終わらせるため」に、神楽は「ポジションゼロ」と宣言したのだ。
著者コメント(2022/10/10)
やぁ皆さん、私の研究室へようこそ。
ここまで読んでくださり、誠にありがとうございます!筆者の新中野と申します!
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、これまでに何十回と観ましたが、毎回、上映時間の2 時間ずっと、様々な思い、考え、記憶が去来し、ハンドミキサーのように私をかき混ぜていきました。その時々に言葉として掴んだものをメモに残してはいましたが、たまに読み返すくらいで、そうした言葉はそれっきりになっていました。その積もりに積もったこと。中島らもが『永遠も半ばを過ぎて』で、「この原稿の作者はあなたの身体の中のどこかで喉を渇かせていたのよ。彼には言葉が必要だったのよ。何か表現したいことがあったのよ」(文春文庫、P.211)と書いたような状況だったかもしれません。
「このままでは私はすっかり詰まってしまっていずれ窒息するだろう」と感じ、文章にし始めた頃にたまたま見つけたのが、さぼてんぐさんが立ち上げられたこの合同誌の企画でした。すぐに応募しました。なかなか筆が進まず辛い時もありましたが、幸運にも再上映が始まったチネチッタに足繁く通い、LIVE ZOUNDHARD CORE を浴び続け、なんとか書き上げることが出来ました。
長文で、しかも拙い文章なので、読んでくださった方には申し訳ない気持ちと感謝の思いでいっぱいです!本稿は校正・ファクトチェックを受けましたが、内容や表記に関して誤りがあった場合、その責は言うまでもなく筆者にあります。
ここまで読んで下さったあなたに、このような素敵な企画を立ち上げて下さったさぼてんぐさん始め、主催チームの皆様に、多大なお手数をおかけしてしまいながらも丁寧に対応してくださった校正・ファクトチェックチームの皆様に、運営などで参加された多くの方々に、そして『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のTVアニメシリーズ・映画に携わられた全ての方々に、深く御礼申し上げます。
劇場版で最後に上掛けが飛んでいった後、明るくなり始めた劇場の椅子でいつも感じたのは、ただひたすらに感謝の思いでした。
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