心理学的視点から見る愛城華恋の人物像
ふぁる
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1. 戯曲によって形成された愛城華恋
幼いころの経験や体験はその後の人生に多大な影響を与える、といった話を聞いたことがある方はそれなりにいると思う。これには「情動」の喚起が起因していると筆者は考えている。以下は音楽が聴き手の感情に与える影響を研究した谷口高士による実験内容の要約である。
これは外的要因による情動の変化を計測する実験である。
谷口による一連の実験の結果として、抑うつ的な音楽を聴いた群は否定的な判断が増加し、高揚的な音楽を聴いた群は肯定的な判断の割合が増加したとある。この実験から、外的要因によって情動の変化は起こりうる、ということが考えられる。とはいってもこれは一時的なものではある。ではなぜこれを取り上げたのかというと、『戯曲 スタァライト』を観て、この効果が残っている状態で「運命の交換」という生き方や未来の確定に等しい約束をした愛城華恋という稀有な存在だからこそ、本来であれば一時的であるはずの効果がそのまま人格に影響を与えているのではないかと考えたからだ。そんなわけで、半ば妄想の仮説を書かせてもらった。
ではここから、『戯曲 スタァライト』が華恋の人格にどのような影響を与えているのかを、アニメでの描写とともに考察していく。前提として『戯曲 スタァライト』が悲劇というのは作中で何度も言われている。そのため上記の実験結果に倣うと、否定的判断の増加が見られるはずである。だが愛城華恋がネガティブだと感じた方は多くないだろう。著者自身も聖翔で神楽ひかりと再会してからの華恋の考え方をネガティブだと感じた場面は少ない。そこで注目したのが中学生時、つまり神楽ひかりと再会する前の愛城華恋である。劇場版で初登場した小学生・中学生の愛城華恋のシーンは、意図的ではないかと思わせるほど暗く後ろ向きな描写が多い。例として、手紙に上から線を引き約束のことを濁すシーン、自分ルールとの葛藤、愛城華恋自身のことではないが天気が雨、などが挙げられる。また、スタァライトは必ず別れる悲劇、一度別れた二人に再会はない。この事実が再会前の愛城華恋にネガティブな感情を与えていると考えた。
2.アニメ版と劇場版の比較
ここからはアニメ版と劇場版における愛城華恋の振る舞いの違いを見ていく。
まずアニメ版に着目すると、監督自ら「舞台装置に等しい」(*1)、「スパダリ的な存在」(*2)等と発言している。アニメ版第1話では、帰国した神楽ひかりに対して、進学していた学校や環境を全く知らない、能天気なキャラクターであるように見せていた。また、全12話を通してザ・主人公というような立ち位置、性格として描かれていた。このように、様々な場所で愛城華恋があまり人間味を帯びていないキャラクターとされている。
一方で劇場版では、愛城華恋の人間らしさがよく表れている。アニメ版と繋がっているシーンでは、神楽ひかりが王立演劇学院に合格していたことを知っていたが、それを隠して接している。本当は知っていることを隠して振舞ってしまうのは、これを読んでいる方にも身に覚えのある行動ではないだろうか。また、全体を通しての主題である「スタァライト」が終わってしまったら、「あの子」との約束を果たしてしまったら、とおびえたり、今まで隠してきた「負けたくない」という気持ちを言葉にしたりするなど、まさに人間らしい恐れや思いなどが120分の中にまとめられていた。
では、これらの行動を心理学的視点から見ていく。まずは、先ほども書いたアニメ版第1話でのシーン、これは「反動形成」と呼ばれる防衛機制の一種の現象という見方ができる。反動形成とは、本心と逆であることを言ったり、行動を起こすことである。なお、防衛機制とは
機能のことで様々な種類がある。
*1 劇場版舞台挨拶・古川知宏監督の発言(未検証)
*2 劇場版パンフレット・鼎談インタビューより抜粋
3.運命の交換とは何か
最後に、運命の交換とは何だったのかを見ていく。これはまさに、防衛機制の1つである「取り入れ」に当てはまっている。取り入れとは「相手の属性を自分のものにする。同化して自分のものとする」ことである。幼少期は、愛城華恋は引っ込み思案で無口ぎみで、神楽ひかりは活発だ。その後運命を交換してからの2人は、属性を入れ替えたような性格になっているように見受けられる。
防衛機制とは、目標に近づこうとする際に誰にでも起こる現象である。2人でスタァライトを演じる、という目標に向かっていくために必要なものであると筆者は考える。
4.まとめ
ここまでの内容をまとめると、愛城華恋は、「スタァライト」という戯曲と、神楽ひかりとの運命の交換に対して誰しもに起こる心の動きとが揃って、強い執着と盲目さを持った少女というキャラクターになったと感じたしかし同時に、不安、恐れなども持ち合わせているため、共感をもたらし背中を押してくれるようなキャラクターとしてできあがった。
ここまでつらつら妄想を垂れ流してきたが、この作品は感情の機微が現実の人間とあまり違わないため、支離滅裂な考察にならずにすんだ。このような点が観た人を惹きつける一端を担っていると感じた。
最後になるが、本来アニメキャラクターに対しての精神分析とは無意味であることがほとんどである。しかし、多少強引ながらも成り立つ点が発見できたことから、作品の人物描写がよりリアルであることが窺えるだろう。このような作品に出会えたことを嬉しく思う。