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スタァライトとその分身

A.エイトー
https://twitter.com/ruin_8aie

編注:本記事では寄稿者の希望により、注釈を章末ではなく文章の最後にまとめています

(本稿では、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を劇ス、『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』をロロロ、TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』をTV版と呼称する。)

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』パンフレット(*1)

1.舞台読者心得 案内

 夕暮れ。燃えるような空の下、砂漠には無数の足跡が確認できる。この「舞台」に彼女たちはありありとは存在せず、その影、分身[double]だけが揺らいでいる。

 「戯曲スタァライト」とは別れの物語・悲劇であるとTV版で語られていたように、劇スも、卒業や進路選択に伴う離別やキャラクターの行く末を描いていた。もう少し踏み込むならば、劇スで語られる物語は、離別のために競い、和解していく物語であった。たとえばある者は、運命や約束を分有していると思っていた相手が、実は自分が知らない「あなた」になっていたことを受け入れられないでいた。ある者は運命・役に縛られた「あなた」が単純な伽藍洞がらんどうではないことを示すために立ち向かった。それをアニメーションならではの映像表現・演出と作品を駆動させていく劇伴・レヴュー曲を巧みに用いて描いている。

 作品全体を俯瞰してみると、「(アタシ)再生産」という主題が反復され、前面に現れてくるだろう。それは「舞台に立つ」こと、俳優による「次の舞台」・役への移行や、舞台とは何か、演じるとは何かといった問いとの関係において描かれる。「再生産」は概念や語として固定化し、定義づけられるものではないような運動を示しているが、それでも定義づけを行うならば、さしあたり次の台詞を引用しよう。

囚われ、変わらないものはやがて朽ち〔果〕て、死んで行く……
だから生まれ変われ…… 古い肉体を壊し―― 新しい血を吹き込んで。
今いる場所を、明日には超えて――
たどり着いた頂に背を向けて――
〔これが…… 導きの果てにあった真実。〕
今こそ、塔を降りる時――(*2)

(〔〕内は製本に伴い追加されたもの)

 新しく自分を作りかえ、生まれ変わること、それは元の自分から異なる自分、「分身」を再生産していくことである。本稿ではこの「分身」という言葉に力点を置いて論を進めていく。「分身」とは絵画や映像、演劇といった文化・芸術を考える上で重要な言葉であるが(*3)、しかし学術領域に踏み込まずとも再生産を主題とする本作と、一つの身体/ものから派生した存在を指すとされる「分身」が近い関係にあることは想像に難くないだろう。

 分身は英訳するとdoubleとなり、影、二重性、代理(役)といった意味を持つように、やや多義的な語彙である。「レヴュースタァライト」の内容に照らし合わせるならば、キャラクターとその影、演者と役、現実と舞台などの例が挙げられ、複製や反復関係とも密接である。本稿では基本的に「分身」とするが、このような二重性から来る多義的な語であることを留意するためにも、しばしば英訳を併記する。

 「怨みのレヴュー」での花柳香子と石動双葉の口上やデコトラを使ったショットでは、スクリーンの縁に彼女たちが立っている「かのように」描かれ、影もしっかりと描かれている。これは、映画館で映像に映るキャラクターを眺めているのではなく、劇場で舞台に立つ役者を観ているような錯覚を引き起こす。こうした構図は「魂のレヴュー」でも見られ、劇スはキャラクターがそこに立っているような演劇-劇場空間の構築に敏感である。もちろん、ただ舞台に寄せたアニメーションでは決してない。カメラワークを活かしたアクションや列車の変形といった本作が持つ映像的性質、複製され、各地で上映=反復されるアニメーション映画としての劇スも顔を覗かせている。

 劇スに登場する彼女たちはアニメーションとして描かれたキャラクターだが、そこに実在している俳優のようでもある。さらに「私の知らないあなた」や舞台での「まるで別人!」かのような振る舞いは、キャラクターの中で変化が起きた結果による分身ともいえるだろう。以下では再生産という事象の再検討から始め、そのオルタナティブ(代替案)を提示した上で、舞台少女たちの言葉と身体を「分身[double]」という観点から再考していく。再生産とは確かに異なる自分を生み出していく運動だが、そこで生まれた「分身[double]」としての自分、舞台少女とは一体どんなものなのかを見ていこう。

2.再生産再考

2-1.自己解体としての翻訳

 「分身」についての問いを始める前に、再生産と言葉の関係について語らなければならないため、少し(しかし重要な)迂回路を通りたい。TV版、ロロロ、劇スと作品を追いかけると、本シリーズは常に再生産的な振る舞いをしてきたことが分かるだろう。それは劇中劇、物語内容、アニメシリーズ(作品やコンテンツ)といった階層ごとに見られ、そこから劇中劇と物語内容の相似関係も読み取れる。聖翔音楽学園(物語内容)では学生たちが3年間同じ演目を繰り返し作り上げ、上演する。この繰り返しの中で成長し、より良い舞台を目指すカリキュラムは再生産のシステムと言える。劇中劇「戯曲スタァライト」では、TV版を通じて別れが出逢いへと変化したことを参照すれば良い。また劇中劇の内容に対してキャラクターの性質や関係の変化が相似的である。さらに言えばアニメシリーズとしてロロロではTV版の内容を振り返る形で、劇スではTV版を吟味した上でその「続き」を描くという作品そのものの再生産も行われていた。

 再生産には作品(演目)の外部、もしくは客観視できる場に立つことが少なからず要求される。TV版第9話で愛城華恋が大場ななの作る塔の外へと歩いたショットはその象徴だろう。それ以外にも華恋による「書き換え」は神楽ひかりの一人きりの舞台に外側から参加する形でなされた。劇スにおいては「皆殺しのレヴュー」へと繋がるように、ななが集団から離れ、部屋の外で佇んでいる様子、また、決起集会では各々が広場の中心から離れたところにいるなど、既存の物語、対象を外部から見つめなおすことが再生産においては重要である。

 彼女たちが自身を見つめなおすように、「戯曲スタァライト」も再生産のたびに見つめなおされる。主体による「アタシ再生産」へと至る前に、物語の再生産について考えてみたい。そこで働いている翻訳と塔のモチーフを見ていくことで、再生産というものが不確定で永久的な運動であることが浮かび上がってくる。

 「第99回聖翔祭での『スタァライト』(以下、第99回)」は別れ、悲劇の物語であったことがTV版第9話の回想シーンなど随所で明示されている。ななはこの「第99回」に至るまでの間にキラめきに魅せられ、再演(ループ、ロンド)することを望んだ。ここではキラめきを手作りお菓子として還元しながらも、再び燃料として繰り返し汲み上げる。トップスタァになれる(塔の頂に立つ)のは一人だけであるが、再演の為にはその存在を内部へと隠蔽しなければならない。

 ここにひかりと華恋が対置される。TV版本編のオーディションではひかりの勝利により、「第99回」と同様に「戯曲スタァライト」の脚本と同じ別れの物語が展開する。トップスタァは隠蔽されるというよりも、手紙や携帯の電波が届かないような日常的な世界の外部、舞台を永遠に演じ(停滞し)続ける空間へと押し出され、一人孤独に自らを燃やし尽くすようにして罪を償っていくのである。トップスタァは舞台に立つものの、それは常に不在として描かれていく。しかし最終話ではその「続き」が展開される。このような展開は「第100回聖翔祭での『スタァライト』(以下、第100回)」にも反映されていた。登ることで別れを生む塔(舞台:星摘みの塔、現実:東京タワー)が橋(舞台と現実の紐帯:約束タワーブリッジ)という分かたれた二人を繋ぐ象徴へと変化し、「二人でスタァになる」ことが出来たのである。キラめきは各々が食材を持ち寄って鍋を囲むように、与え/与えられるものになる。ここへ至る契機となった華恋の重要な行為、それが「翻訳」である。

 ひかりはスタァになる為に他人のキラめきを奪おうとした自分を罰し、運命の舞台(塔)に自らを幽閉する(*4)。この事実に気づくのは華恋が「THE STARLIGHT GATHERER」を翻訳した結果によるものであった。翻訳行為は言語間のズレを埋めようとする行為である反面、常に原作やオリジナルとの間に発生してしまうズレを引きうける態度を要求される。

もし翻訳が原作との類似性をその最終的な本質として追い求めるのだとすれば、そもそもいかなる翻訳も不可能だということである。というのも、原作の死後の生がもし生けるものの変容と刷新でないとすれば、死後の生という言葉でそれを呼ぶべきではないわけだが、原作はまさにそういった死後の生のなかで変化していくからだ。(*5)

ヴァルター・ベンヤミン、山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』、河出書房新社、2011年、92-93頁。

 些か乱暴に議論をまとめれば、原作と全く同じ翻訳というものは(他言語へ変換する以上)不可能であり、原作は翻訳などの「死後の生」の中で変化に晒され、生き延びていくのである。ここで出てくる翻訳不可能性とは、決して母語と他言語間だけの問題ではなく、同一言語のなかでも伝達不可能性という形で現れる。言葉や作品にはどうしてもそれが織り込まれてしまう。我々は他人が頭の中で考えていることを覗き、それをそっくりそのまま共有することは不可能であり、卑近な例を挙げれば、「車」という意味が伝わっていてもその言葉が指す具体的な車は人によって違う、といったことである。これは一般的に言われるところの解釈の発生でもある。だが、このことは「分かり合えない」という絶望への手招きではない。私たちは日常生活や会話の中で毎度コミュニケーションエラーを引き起こすわけではない。しかし言葉の意味とその具体的な対象の間を埋めるような、発信者と受け手の完璧な伝達が存在しないからこそ、ズレがあるからこそ、新たな、多様な翻訳≒解釈や読みが(誤読を免れないという形で)生まれるのだ。

 言葉のズレ、隔たりの解消は未だ来ないものとして常に先送りされ、読みの可能性は“未-来”へと開かれている。ここでいう“未-来”とは、明日や来年のようにいつか必ずやってくる“未来”ではなく、“現在”から見て常に先にある「未だ来ない」もの、進んでも進んでも先にあるもの、例えば地平線や水平線のような概念を表す。

 華恋が翻訳の末に作り上げた舞台装置、「約束タワーブリッジ」とはキリンが言う予測不可能な舞台の中で展開される。この時、橋(紐帯)によって分離していた二者が手を取り合うことが可能になる。しかしながらこの結末は、ここで提示してきたような翻訳の不可能性や原作と翻訳の関係を一気に飛び超えており、翻訳とは異なる力学が働いていると考えられないだろうか。

2-2.余剰舞台:アンコールの刻印

スタァライトは必ず別れる悲劇。でも、そうじゃなかった結末もあるはず。塔から落ちたけど、立ち上がったフローラもいた「はず」。クレールに「逢う」ためにもう一度塔に登ったフローラが!!(括弧は引用者)

TV版第12話、17:02より

 翻訳を通じて作品の余白を見つめ、もう一度逢うという結末にたどり着いた。この点において再生産とは翻訳、再-解釈だと断言したくなる。しかし、華恋が行った行為は厳密に言えば書き換えによる「続き」、落ちた「後に」もう一度登ることである。ここには類似性の問いが横たわっている。表現やニュアンスの変化は見られても基本的に原作と翻訳は「同じ」ものであるはずだ。しかし、新たなものを書き加えてしまうことは、類似であるという前提を逸脱した越権なのではないか。

翻訳は原作の二次的なコピーではなく、それ固有の、独自の存在をもつ。しかし、だからといって、原作などどうでもよい、自由に(=好き勝手に)解釈し、場合によってはパロディ化したり改作してもよい、というような消費主義的行為、近視眼的な意味での「二次創作」ではない。翻訳である以上、原作と「同じ」でなくてはならない。差異あるものであるからこそ、同じものであること、類似であることが意味をもつ(「同じ」とは、異なったもの同士のあいだで言われることである)。

藤本一勇『ヒューマニティーズ 外国語学』、岩波書店、2009年、76頁

 「戯曲スタァライト」を嫌いながらも、同じ舞台を繰り返し、その度に違う舞台となったななの再演こそが翻訳で、再-解釈という再現/循環/螺旋構造の再生産だといえる。しかしTV版を視聴すれば、ななの再演は悲劇的な別れに対して行うという点で華恋の「再生産」と同じ志向性を持っているが、悲劇を乗り越えるのではなく、悲劇からの離脱という意味で異なる性質を持っており、この意味で「再生産」とは呼び難い。

 翻訳、再-解釈の範疇に留まらず、一方で二次創作とも言い難いような類似性も持ちながら「あるはず」という結末(ifではなく、続き)を「二人でスタァになる」という表明の下に代理・補充する、もしくは作品の枠組みを拡張する、それが「第100回」、華恋の「再生産」である(*5)。このアンコールとはTV版本編の再演において外部からやってきたひかり、それによってオーディションのメンバー(内)から外され、作品の外から飛び入りすることになった華恋の内から発された余剰舞台である。「スタァライト」という作品の外部であるはずの東京タワーが橋となり、フローラやクレールといった役を超え、「レヴュースタァライト」の愛城華恋/神楽ひかりが現れてくる。ここでは作品の内外がかく乱されている。作者不詳とされる「戯曲スタァライト」では華恋が行ったような「傲慢さ」がスムーズに許容される一方で、「レヴュースタァライト」においては新しい問いが発生してしまう。それこそが少女たちに繰り返される「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? あなたたちは?」という問いなのだ。

 約束や運命の象徴であった塔(棺、停滞)や橋(紐帯、再生)は「第101回(≒wi(l)d-screen baroque)」において破壊され、崩壊し、赤い線路(消失点(*6)、未-来)へと変質している。「皆殺しのレヴュー」で激烈に、そして冷ややかに開幕するワイルドスクリーンバロックでは前述した、華恋に見られたような「書き加え」や「書き換え」による舞台や物語の続きが徹底して問われていく。そこではTV版の続き、悲しくも暖かいキャラクターたちの卒業・緩やかな別れの物語と、現在の立ち位置や役に安住する(死んでいる)舞台少女たちが象徴的に、演劇的に殺される。固定化された物語や台本を「書き換え」ることの傲慢さ、暴力性が血しぶきとして顕在化し、「筋書き」そのものが切り殺され、展開の決まった台本をもとに作られる既存の戯曲から、展開の分からない「野生的な舞台」へと移り変わるのだ。戯曲や台本の模倣としての演劇から、生成としての演劇へと性質が変化し、(映画という固定化されるメディアにおいて)予測不可能なレヴューが現れる空間を用意する。この生成としての舞台は次章で詳しく見るとして、ここではその導入にもなる「続き」の先について考えたい。

 「第100回」で再び登った塔を「降りる」、それが「第101回」の主軸であり、前述したように塔は破壊され、崩れ落ちる。塔の在り方は変化し、「続きを要求する線路」と消失点として「永遠に来ない」という(旅に出る=塔を降りる)形で、華恋が行った「続き」をさらに遠くへ、より徹底して未-来へと拡大していく。主題歌『私たちはもう舞台の上』の「まぶしいから きっと 見えないんだ 私たちの 行き先」というフレーズも併せて思い出せば、その余白が無限に続いていることがイメージできるだろう。

2-3.崩壊/未完成のフィギュール

 劇スでは「余白/未完成」であることが強調される。TV版から聖翔音楽学園には「ミロのヴィーナス」が置かれていたことを思い出して欲しい。それは劇スでの「第101回」決起集会にも姿を見せており、眞井霧子と雨宮詩音が台本の未完成を告げた場面のあと、抱き合う二人の背後に映りこんでいる。劇伴として未完成性を祝福する『舞台少女心得』、『舞台少女心得 幕間』をアレンジして一部に組み込んだ『世界は私たちの…』が流れていた。その直後に舞台少女たちは「私たちはもう 舞台の上」と宣言するのである。

失われた両腕は、ある捉えがたい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえているのである。つまり、そこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われたかわりに、存在すべき無数の美しい腕の暗示という、ふしぎに心象的な表現が、思いがけなくもたらされたのである。/〔失われた両腕の復元案において――引用者〕問題となっていることは、表現における量の変化ではなくて、質の変化であるからだ。表現の次元そのものがすでに異なってしまっているとき、対象への愛と呼んでもいい感動が、どうして他の対象へ溯ったりすることができるだろうか? 一方にあるのは、おびただしい夢を孕んでいる無であり、もう一方にあるのは、たとえそれがどんなに素晴らしいものであろうとも、限定されてあるところのなんらかの有である。

清岡卓行『手の変幻』、美術出版社、1966年、12-13頁

 何処か足りないもの、失われたものがあるとき、そこでは可能性という物語(夢)が読み込まれる。両腕の欠損は単純な欠落、不足ではなく、それこそがミロのヴィーナスの性質を根本から支えている。恐らく復元の試みも、そのことごとくに違和感を持つような結果になってしまう。この再現への欲望とその不可能性という点で、ミロのヴィーナスはななの再演と類似点が見られるが、劇スにおいては再演を越えて迎えるであろう長い人生、そして過去の歴史の現われとして描かれている。つまり、ミロのヴィーナスは失われた両腕が制作当初の状態には戻らないという点で未完成であり、さらに言えば長い時間をかけて腕が失われてしまったという事実において崩壊の象徴でもあるだろう。この像は腕の欠損によって未来と過去の両方向への時間意識を想起させているのだ。

感性的なものとして現前する「前景層」が時間的作用によって変容を来すことによって、完成された形態のうちに充足していた「後景層」としての理念的なものがいわば揺さぶりをかけられて逸出するにいたるのだといえるかもしれない。

谷川渥『形象と時間』、講談社、1998年、47頁

 「前景層」とは作品が(どんな形であれ)実在している状態において、感覚的に捉えられるような物質的な側面、素材、形であり、「後景層」とは作品に仮託された意味、精神的なもの、理念、意志であると理解して良い。作品が完成してまもない頃、すなわち崩壊=時間的変容の前にあってはこの二層がある程度調和していたとされるのに対し、ミロのヴィーナスといった崩壊-未完の像ではこうした調和構造が時間によってかく乱され、対立しながらも絡み合い、葛藤しているのである。崩壊-未完成性の像とはその美しさと共に、変容の基盤となった時間や歴史性を表現している。その計り知れないほど長く、重い時間・歴史(「聖翔音楽学園の歩み」など)の前に立たされ、未完成性の美しさ、可能性と同時に欠損や自己否定、終わらせ/完成させることの「怖さ」がこの決起集会の場面では滲み出ている。露崎まひるが「舞台は怖い」というように、「再生産」とは、舞台に上がることは怖いことであり、驚異的なのだ。

 ここまでTV版やロロロといった長い迂回路を通ってきた。「再生産」とは塔から橋、線路という、舞台上の変化と共に翻訳や再-解釈の範疇を超えていくような表象=代理の産出であり、それは歴史の前に立たされる「怖いもの」でもある。確かに「第101回」では未-来へと、終わりなき続き(旅)へと向かうように先鋭化しているだろう。しかし余白や未完成性(=永遠の途上)という、ある意味で一義的な地平にまとめあげてしまってよいのだろうか。つまり、この野生性[wi(l)d]の舞台を、何か美しい言葉、もしくはテーマでまとめ上げることに違和感がある。それは余白や未完成性だけでなく、本稿が目的とする「分身」についても同じである。こうした問題について精査するためにも、生成としての舞台、ワイルドスクリーンバロックを見ていく必要がある。

3.……あの危険な分身……

 前章では「戯曲スタァライト」の変化と塔表象を中心として、本シリーズの主題である再生産が翻訳や再-解釈の問題に結びつけられながらも、そこから逃れていくような動きであることを追った。繰り返せば、翻訳や再-解釈は言葉が持つ伝達不可能性を許容するものの、原作との類似性を持つ、同じであるという大前提があることで可能になる。しかし「再生産」はそうした類似性の問題をはみ出し、原作とされている「戯曲スタァライト」にはない続きを描こうとするのである。それはスタァライトの物語を拡張し、「戯曲スタァライト」が定められた筋書きと行く末を持たなくなったことで、ワイルドスクリーンバロックは予測不可能な「野性的な舞台」となった。ここでは「第101回」の「再生産」について考えるために、2章2節で前述した生成としての舞台について考えてみたい。

 舞台には演じるべき台本、テクスト(道しるべ=塔)があり、そこから感情や仕草、息遣いや目線などを考えていくのが一般的である。だが、前述した通り劇スにおいて筋書きというものは切り捨てられ、舞台が乱立するようなワイルドスクリーンバロックが始まる。ここには台本、固定化された筋書きによる模倣(類似)としての演劇は存在しないだろう(*7)。

 「それはあなたの思い出? それとも、この舞台の台詞?」とひかりが華恋に問うように、劇スではしばしば「本物の台詞」が求められる。これは本音と言い換えることが可能であり、本当の気持ちの「剥き出し(wild)」が要求されている。もちろん劇中劇の物語構造を持った作品ではキャラクターの心情やキャラクター同士の関係と劇中劇の内容がリンク(代理=表象的演技)していることは珍しくないが、舞台の上で「本音を言ってみろ」と脅し、けしかけ、異なる自分を生成していくような展開は劇スのユニークな点だ。これは台本や戯曲、というよりも作者によって書かれた「演じなければいけない台詞」からの離脱ではないだろうか。つまり模倣的演技、台詞から脱却し、自身の肉体から発されるような言葉を少女たちは叫んでいるのではないか。

3-1.唯一の言葉と残酷演劇

要するに、決定的で神聖なものと見なされた台本に戻るのではなく、何よりも重要なのは、台本への演劇の従属を断ち切り、そして身振りと思考との途上にある一種の唯一の言語の概念を再び見出すことである。(*8)

A・アルトー、鈴木創士『演劇とその分身』、河出書房新社、2019年、144頁

 台本や戯曲の書かれた言葉を退け、身振りや音などの空間と結びついた演劇的言語を志向する考え方の一つに「残酷演劇」がある。この「残酷演劇」とは、

『言葉によらず、叫びと仕草によって、生の作り直しを果たすような、必然の力を氾濫する舞台』である

渡辺守章『舞台芸術論』、放送大学教育振興会、1996年、225頁

とまとめられ、観客の感覚に働きかけ、刺激を与えるようなアングラ的なダンスなどを含んでいる。

 劇スではその刺激が過剰な光や音、映像のスペクタクルに現れる。もちろん劇スが「残酷演劇」を純粋に実行しているかどうかはある程度の留保が必要であろう。しかしながら本作の試みが、予測不可能な舞台においてキャラクターの野生性[wi(l)d]を曝け出させること、驚きによって登場人物や鑑賞者たちを安住から突き落とすことだとすれば、この演劇的言語による「生の作り直し(再産)」とは共振関係にあると言えないだろうか(*9)。

 例えば星見純那とななによる「狩りのレヴュー」は先に引用した「最後のセリフ」よりも象徴的に言葉というものを扱っていた。

ダメ。他人の言葉じゃ、ダメ!!

人には運命の星あれど
届かぬ足りぬはもう飽きた
足掻いて 藻掻いて
主役を喰らう
99代生徒会長 星見純那
殺してみせろよ! 大場なな!

私の刀、返してよ。無駄だって。届かない星の眩しさで、
もう、何も見えないくせに! 〔略〕
もうやめてよ、もう幕を下ろして! 立ち上がらないで!
「殺してみせろ」なんて大げさな台詞、叫んだってなにも変わらない!
私の純那ちゃんは、そんな役じゃない!
……私の純那ちゃんじゃ、ない?
お前は何者だ。お前は何者だ、星見純那!

 ここで純那が自らの口上を叫ぶとき、生の作り直し、「再産」が行われる。他人の言葉に従属せず、自身の内から、生を産出するが如く突き出た言葉は、無意識的で、野生的な、舞台という空間に根ざした演劇的言語だと言うことは可能だろう。「狩りのレヴュー」に限らず、劇スにおけるレヴューシーンは、デコトラの光や競演のアクションカットなどの(映像的でもある)身振りに満ちており、そうした映像的ショックを観客に与えている。だが「狩りのレヴュー」において注目すべきは、純那がななの刀を奪っている点だ。

 この盗みはななの進むべき道を一つに絞ること、ななが動かしていた「再演」の終わりをもたらす行為でもあるが、宝石を純那のものに置換することで汚染を行っている。その刀を振る新しい身振りは純那の口上を生むと共に僅かながらも純那の頬に傷を負わせるのである(*10)。このレヴューがラップになる予定だったことも思い出せば(*11)、この身振りは他者の力/言葉を「盗み」、自らの言葉の血肉として結びつけるようなものであり、傷はその困難さと代償を示していると言えるだろう。

 劇スは「残酷演劇」の付近を経由しつつ、別の地点へと向かう。前述のように「残酷演劇」は台本(作者=神)、反復(上演)性を避け、一度きりの、自らの具体的で身体的な言葉(演劇)を求める。しかしその純粋さを求める前提には「うちなるみずからの差異(*12)」が存在している。つまり自分以外の言葉が入り込んでいる不純さを暗に分かっているからこそ、純粋な言語を志向してしまうのである。純那の振る舞いは、自身が様々な他人の言葉/力で構成されていることを引き受けて、その先の「まだない」自分を口上によって引き出す。「残酷演劇」は即興などではなく、偶然に身を任せたりはしない(*13)とされるとき、言葉は外部の介入という偶発的で確率的なものでなく、寧ろ自己の内から必然性を伴う形で現れると考えられているのだ。

 「狩りのレヴュー」は自身の言葉/力が「盗まれる」と同時に他人の言葉/力を「盗む」ことが可能であることを示している。この「盗み」を純那に当てはめればシェイクスピアやニーチェ、ゲーテの言葉を引用することであり、それは同時にそれまでの会話や口調から切り離されているような「中断」でもある。前章で翻訳について考察した際に対象とそれを表す言葉の差が埋まらないことを指摘したが、それは引用とそれを解釈する文章にも当てはまる。極端な言い方をすれば、そこには引用元を曲解し、同時に引用先である他人の思考や文章を汚染するという暴力性も伴う。『ペン:力:刀』というレヴュー曲が示すように、刀だけでなく言葉も非常に獰猛で、可傷性を孕んでいるのである。

 付け加えるなら、自分以外の言葉に自分が貫かれているという構造は、「狩りのレヴュー」以外にも華恋とひかりの関係においても見られる。二人の「運命の交換」は相手から与えられた約束によって自身を燃やし続ける一方で、下手をするとそこから身動きが取れなくなってしまうという帰結を劇スでは示した。他人の言葉、約束といった外的なもの(余剰)が自分を形作り、もしくは拘束する。「分身[double]」はこうした状況で現われてくる。

3-2.暴かれる分身

 TV版でのキリンによるレヴュー/舞台はたった一人のトップスタァを決めるオーディションであり、彼女たちは俳優として舞台の上に立ち、役を目指す自分が表現される。そこでは日常とのギャップを感じさせつつも、キラめきの競い合いに収斂し、自分たちが演じていることに半ば無自覚なようにも見える。オーディションがあるからには本番が設定されるわけだが、恐らくその本番であろう「運命の舞台」は隠蔽/疎外され、沈黙させられていた。その一方で二者関係が露呈するような華恋の「運命の舞台」を経た劇スにおいては異なる舞台衣装をまといながら、半ば役を演じながら、自分を生成/解体していく。

 「残酷演劇」の土台では演劇が提示・再現する「現実」について、錬金術を例に出しながら以下のように考えられている。

錬金術が、その象徴によって、現実の物質という面でしか効力をもたないある操作の精神的「分身」のようなものであるとしても、演劇もまた「分身」と見なさなければならないのであって、それは分身がほとんど生気のないコピーに成り下がってしまった虚しく面白みのない日々の直接的現実ではなく、危険で典型的なもうひとつの現実〔潜在的現実――引用者〕の分身であり、その分身にあっては、諸原理がまるでイルカのように顔を覗かせてはたちまち海の暗闇のなかへと帰ってしまう。

同前、76頁

 ここで挙げられている錬金術とは大雑把に言えば、加熱などの操作によって混合物から純粋な物質や金を作り出す(抽出する)ような試みである。錬金術はそうした操作を通して「賢者の石」のような想像上のものを現実に作り出そうとする。そういう意味では、想像上の世界を舞台の上で表出する行為である「演劇」も錬金術に通じるところがあるだろう。

 その表出された想像上の世界とされる「もうひとつの現実」とは、言い換えるならば「ヴァーチャル・リアリティ」である。ただし、これは昨今「VR」と略されるような画面上に映される仮想現実(映像)というよりも、日常や現実に対して潜在的でありながらも驚異的でエネルギーを持っているようなカオスな場である。そして、そこで生み出される「分身」とは単なる現実の代替物としての複製や自分の代替物としてのアバターとは異なる、時として現実の自分をも壊して(侵食して)作り変えてしまうような、無秩序で危険な生気(キラめき)に満ちたものなのだ。Virtualには「実行力のある」や「実質的な」という意味があり、決して仮想や代替といったニュアンスのみに回収されない。

 「もうひとつの現実」ではないと否定される虚しく面白みのないコピーというと、フレームによってメイクや役を次々と変えていた表現から、「魂のレヴュー」で自身を「神の器=空っぽ」と称した天堂真矢を思い出せる。しかしその真矢の魂を西條クロディーヌが暴くに至るのは、フレームに映し出された個々の役を重視するのでも、フレームとフレームの間を見つめるのでもなく、より高い位置からフレームワークそのものを見つめなおすことを契機としていた(*14)。この舞台はその名が示すように、対象の魂を証明・発見という形で再生産すること、劇中の言葉を使えば「驕りも誇りも妬みも憧れも、パンパンに詰め込んだ欲深く、醜い人間(生)」の露呈を果たしていたのである。

 「第101回」の舞台、ワイルドスクリーンバロックは台本や筋書きを退けつつ、しかし偶然や余白を無暗に突き進むのではなく、自分の言葉/力/生の単一性が自壊しながら、危機に脅かされながら、他人の言葉を奪う可能性を自覚しながら、舞台と現実の葛藤による生を浮かび上がらせる。ここで言う生とは生身の――現実の我々と同じような、もしくは純粋な――人間になることではない。劇スでは確かに華恋や真矢といった人間たちの「再産」が行われているが、それは決して現実の人間に、あるいは生気のないコピーに近づくものではない。

 本稿の冒頭で確認したように、再生産とは古い肉体を捨て、新しく自分を作りかえて生まれ変わることである。同一性が保たれていながらも今とは異なる地点へと作り直されるという意味で、再生産と「分身[double]」は深い関係にあることを指摘した。ただし、そこで生まれる「分身[double]」とは「神の器=空っぽ」に裏付けられるような、俳優が変化していく無数の「役」を指すのではなく、また「役」を使い潰して自己拡大していく俳優でもない。「分身[double]」とは役が俳優を構成し、俳優が役を構成するような「重なり」を持ったものではないだろうか。そしてそれによって俳優が解体され、あたかも真っさらで「空っぽ」な器に見えてしまうのではないだろうか。次章では落下と身体の関係を考えたのちに、この「重なり」としての分身を考えていこう。

4.落ちる「分身」たちの再生産

4-1.落下と身体=物質

 スタァライトにおいて、再生産には落下が伴う。TV版第1話から華恋は落下を経験し、舞台へ飛び入りする。以降も舞台へ上がるたび、「アタシ再生産」を行う際に繰り返し落下(バンクシーン、つまり同じ映像を流用、反復すること)を描いている。落下について作中で具体的に言及されることは殆どないが、実写映画の視点から見れば「落下」とは象徴的な主題であり、映画/映像の限界を表しているとされてきた。

落ちること。精神分析的な主題としての失墜でも事故の転落でも、故意の投身でも、かまわないが、これを何とか垂直の運動として画面に定着させること。こうした映画の夢は、物語の上で何人かの落下者を生みだしてさえいるのだが、それにふさわしいカメラの下降運動はこれまたきわめて貧しいものだ。理由は、いうまでもなく、落下という運動が持つ過激性にある。つまり落下の速度にカメラが追い付かないということ、それに、落下する存在が地面に倒れる瞬間の衝撃は、とても生命を保証するものでないということが、貧しさの直接の原因なのである。〔略〕このことはあまりに当然のことと思われてか正面切って論じられることのない問題だが、〔中略〕映画の生の条件ともいうべきものと深くかかわりあった現実なのだ。

蓮實重彦(はすみしげひこ)『映画の神話学』、筑摩書房、1996年、240頁

 落下とは死の象徴であると同時に足場の喪失、調和の崩壊であり、重力に身を晒すことである。この点で、建築(特に塔を築いていくようなもの)とは重力に逆らう作用の現われであり、上下の違いはあれど縦方向の力に支配されているという点で落下と同じ力を共有している。

 映画と落下の結びつきはその表現や撮影方法だけでなく、形態においても類似の点(アナロジー)がみられる。映画は1秒間24コマで構成されており、フィルムがまだモノであったころは「上から下へ」と映像が進んでいた。そしてコマごとに黒枠があり、観ている画像そのものは区切られているのである。このことはアニメでも絵コンテの構造に通ずるが、それ以上に(もちろん修正などの工程もある)一つ一つの絵が複数の人間の手によって、また時間をかけて生成されるという点で、アニメにおいて一コマ一コマは全て違う絵である(*15)。だがその一方で、アニメーションは実写と異なり対象の物質性を大きく変えることなく、キャラクターの落下を描ける。つまり、実写でVFX(CGを用いた合成技術)などを用いずに落下全体を描こうとすると、俳優に似た人形やスタントマンなどを使って撮影をするしかなく、それは当人が落ちているとは言い難い。しかしアニメは絵(インクの染み)であることで、実写のように極端な置き換えが生じることなく落下を描けるのだ。

 これまで述べてきたように、実写映画とは「今、そこにないもの」をスクリーンに映すという点で俳優の「分身」が現れていることに加え、隣接したコマごとに分裂した対象がいて、上から下へと(落下するように)動いていくのである。それはさながら、分身が落下して(死んで)重力の違う空間へと移行・変容するようである。

 その一方で、このようにアニメーションのメディウム・スペシフィック(媒体の特性)に注目すると、『レヴュースタァライト』で行われる落下とはただの(紙の上の)移動であって、本当の意味での落下ではないのではないか、という疑問も同時に浮かんでくる(*16)。死を想像させる落下とは「意味内容シニフィエなき記号表現シニフィアン」、つまりいくら言葉で語ろうとしても語り尽くすことが出来ず、「落下した」という事実だけが残るような空白である。しかし彼女たちの落下とは言語表現することが出来ないような、着地と同時に身体が瓦解し、絶対的に変容してしまうような衝撃的なものではない。寧ろそれは必ず再生産へと至る点において、重力のない平面的な移動ではないかという問いが生まれるのである。

 確かにTV版において華恋は「二人でスタァに」なるために落下することを厭わない。落下したとしてもそこから再び登ることが可能であり、身体的な問題は殆ど発生しない。その意味でTV版にて行われる落下は、決してリアリズムに依らないキャラクターたちの(記号的な)身体を秘かに提示している。この非リアリズムは身体だけでなく、作品が持つカリカチュア的な舞台の存在にも見て取れるだろう。だが、こうした舞台や身体の性質は、華恋によって作品そのものが限界へと押し進められ、劇スへと向かうと同時に現れた舞台の恐怖、再生産の停滞が示されるときに変容を迫られるのである。

4-2.落下と傷痕

 TV版がもう一度登ることを描いたとするならば、劇スにおいて運命に留まり続けている華恋は舞台との関係の中で落下への恐怖を自覚する。停滞することが舞台少女としての死を呼び招くことが提示される一方で、「ミロのヴィーナス」を例に挙げて明らかにしたように劇スでは再生産や舞台に上がることの「怖さ」が描かれる。それは安住の地から落下する怖さとも繋がっているのだ。

 劇スは「続き」を生み出した華恋への追求、内面の発見の物語であり、その一つとしてTV版から落下を繰り返していた華恋が「最後のセリフ」の前に落下、再生産、舞台に立つことの怖さに気づく。表現論の観点から見れば、TV版から劇スにかけて記号――インクの染みとしての自由さから再現――現実世界を模倣するリアリズムへの移行を読み取ることは出来るだろう。しかし、それでも落下は華恋をバミリへと唐突に変身させるように、前者(記号)の性質も帯びている。変身バンクシーンはなくなり、落下—再生産への怖さが描かれる一方で、ここでは記号と再現のせめぎ合い/両立が見えてくる。もっと言えば、落下という死や傷に対しての恐怖意識が強化されると同時にそれはたちまち記号的、アニメーション的な再生へと向かう手順が意識される。加えて、劇スにおいては再生産では治しきれない傷のモチーフが現われてくる。各レヴューにはキャラクターの関係に傷・亀裂のモチーフを置くと同時に、その傷痕を覆うようにして修復が描かれている。そして傷から修復への移行として、もしくは再生しきらない傷痕を露呈させるものとして、落下が挿入されているのだ。

①怨み
傷:香子が花柳丸(デコトラ)を舞台から落下させて出来たサイドミラーのヒビ
落下:デコトラの後、香子と双葉二人だけで舞台から落下
修復:サイドミラーの亀裂の上に桜の花びらが重なる

②競演
傷:まひるがミスターホワイトの首を殴り飛ばす
落下:ひかり(とまひる)が舞台上のブリッジから落下
修復:ミスターホワイトの首を上からガムテープでくっつける

③狩り
傷:ななが写真に刀を突き立てて出来た切れ目
落下:純那がななの舞台から飛び降りる(飛び出す)
修復:水によって写真の切れ目が限りなく狭まる

④魂
傷:クロディーヌの剣によって出来た契約書の刺突痕
落下:燃え盛った舞台からの落下
修復:契約書の刺突痕の上で手を繋ぐ

⑤最後
傷:ひかりが華恋の胸を突くことによって出来た服の裂け目
落下:華恋が東京タワーから落下
修復:華恋が胸のT字型の裂け目の前でトマトを持つ

 こうして整理してみると、傷は落下の衝撃によって生まれるというよりも、登場人物たちの意思や行動に起因する形で発生していることが分かるだろう。落下の後にすぐさま修復の場面が描かれ、落下が修復・再生という意味での再生産を招いている。再生産を行い、生まれ変わることで、キャラクター同士の野生性はぶつかり合った。そこで生じた亀裂(破壊)は、確かに一応の修復が施されるが、それは完璧なものではない。桜の花びらはひび全体を覆いはしないし、ガムテープや写真の切れ目も、結ばれた手も、トマトもその下の傷痕を「元通り」には修復しない。TV版12話の「星罪のレヴュー」において、一度粉々にされた上掛けボタンは「元通りに」修復されるが、劇スにおいてはその傷痕を引き受けていくしかないのである。ここで重要なのは、亀裂が修復へと回収されるのではなく、逆に隠された亀裂や傷痕こそが本質であるということでもなく、それらが落下を通じてある種の重なりとして現れる点である。

 特に華恋においてそれは衣装(役)と身体(俳優)という形で現れ、「最後のセリフ」では役によって生まれた傷痕をトマトによって埋め合わせ、修復しながらも引き受けていく姿が描かれる。しかも傷痕(もしくは裂け目)は舞台において中心となるT字――「レヴュースタァライト」の終焉が刻まれ、そこから血液のように無数のポジション・ゼロが噴き出していた。この時、華恋の衣服の裂け目から素肌が露わになることについて注目していこう。

4-3.折り畳まれる分身

 本作はTV版で誰に対しても完璧な振る舞いを貫こうとするスーパーダーリンであった「愛城華恋を人間にする話」であることが制作陣のインタビュー(*17)などで度々挙げられており、レヴューシーンによって断片化され、散りばめられた過去、記憶を繋いでいくことが観客には要請されている。TV版での運命の舞台を終えて、「戯曲スタァライト」の続きを生み出し、演じた彼女は、その運命に逆説的に囚われてしまう。これまで断片的にしか語られなかった華恋の過去を肉付け、補充=役作りをしていく中で、王立演劇学院を知っていたかどうかという点に特に見られるように、彼女はひかりに対しても演技的に振る舞っていたことが分かってくる。その一方で舞台上では役者として立っていないとされる華恋は死を迎え、落下と再生産へと至る。そして「ワイルドスクリーンバロック」が終幕したとき、本作で最もアイコニックなショットの一つでもある華恋の衣服とT字の傷が現われてくる。

 本作は華恋を「人間」にすることが一つの目的であるが、そこで言われる人間とは非常に曖昧である。前述した華恋の胸のT字とは「レヴュースタァライト」のポジション・ゼロであり、それを通過して露わになる素肌は確かに「人間」としての華恋を描いているだろう。しかしそこで描かれる素肌は何ら特権的なものではなく、衣装や傷痕としてのT字と固く結びついているように思われる。

要するに、衣服=身体は、意味を湧出させる装置でありながら同時に意味を吹きこまれるもの、つまりは意味の生成そのものなのだ。/衣服は身体という実体の外皮でもなければ、皮膜でもない。衣服が第二の皮膚なのではなくて、身体こそが第二の衣服なのだ。/言いかえれば、身体は充実した実体として衣服の内部を形成するのでもなければ、衣服という記号表現シニフィアン〔外――「前景層」〕の超越的な意味内容シニフィエ〔内――「後景層」〕を形づくるのものでもない。むしろ意味する表面だけがあるのであって、表面をめくればもうひとつの表面が現われてくる。

鷲田清一(わしだきよかず)『モードの迷宮』、筑摩書房、1996年、27-28頁

 一般に衣服は身体に合わせて選ぶことが多い。そして衣服は、着られて初めて本来の形が分かるものであり、身体の動きによって伸び縮みしたり、時には破れたりする。一方で、衣服で覆い隠された身体が衣服などの表現を作るだけではなく、コルセットや衣服、他人との接触といった外的なものによって自己の身体(輪郭)を規定することも多々ある。ルビンの壺のように、「自分ではないもの」が周りにあって初めて、自分の輪郭は明らかになるのだ。つまり、身体は確かに当人だけのものだが、その輪郭は当人とは異なる人や物によって逆説的に決定されるのであり、衣服-身体の関係はどちらか一方に依るものではない。

 衣服-身体をそれぞれ一つの表面として捉えることは役-俳優の関係にもなぞらえることが出来るだろう。思い出されるのは、華恋の口癖であった「ノンノンだよ」という言葉である。それはかつて主役を演じた「青空の向こう」での台詞であったことが劇スで明らかになった。前章では引用について議論を展開したが、華恋も「青空の向こう」や作中劇としての「戯曲スタァライト」に貫かれており、そこで発した台詞がどんな形、作用であれ彼女を形成していたことは否定できない。「最後のセリフ」で華恋から大量のポジション・ゼロ=舞台が血液のように噴出していることがその象徴でもある。

 また、ここまで幾度となく言及してきたTV版での華恋の「運命の舞台」におけるフローラとその結末(新章)は、華恋によって生み出された役柄、顛末である。それと同時に新入生案内での「遙かなるエルドラド」における演技、涙には華恋だからこそ意味が発生してしまうことが、涙ぐむ新入生たち、舞台少女たちの反応を通して描かれている。華恋においては役によって俳優が形作られ、また俳優が役を作っているのだ。

 「私いま、世界で一番空っぽかも」という台詞と共に覗くことの出来る素肌は、役が取り払われてまっさらになった華恋の象徴やその本心などではない。前述したように素肌はT字として現れるのではなく、T字に引き裂かれた衣装との関係の中で現れる。意味生成/反転の場として衣服(役)と身体(俳優)を捉えると、「表面をめくればもうひとつの表面が現われてくる」という点に主従を打破するような重なりを持った「分身[double]」を見て取ることができる。内から外へと曝け出す一方的な構造ではなく、それらが極端に逆転するでもなく、奇妙な重なりのまま並置していること。この多重化としての「空っぽ」は決してまっさらなことではない。複雑に重なり、一つの層がさらに複数の層へと分かれ、折り目をつけられていくことで複雑化した状態こそが「空っぽ」なのである。

 本論の冒頭で再生産とは明日という未来へ向けて「旧い肉体を捨てて生まれ変わること」として、対象Aと同一性を持ちながらも異なる対象A'といった「分身」を生み出すことだと述べた。それは物質的、肉体的な分裂に限らず、その内部での変容も含んでいた。だがそこから「第100回」の余剰舞台を通じて、再生産とは足りないとされるものを言葉によって呼び出し、内部へと補充する運動であることを確認した。死を呼び招くような落下とはそれを経験した主体にとって空白的であり、落下中、前/後の自分を切り離してしまうという点において「身を分けて」いると言えるが、「第100回」ではそれよりも再生に力点が置かれる。一方で劇スはそうした落下への恐怖、身体のリアリティを提出し、再生産によって記号的な身体を描き出す。そこでは身体から外在化されつつも、彼女たちを繋げるような外部としての傷が修復されきらずに残り、循環や単純な再生とは異なる関係/身体が確保される。それは華恋の衣服と傷-身体の重なりから読み解けるような「分身[double]」であり、燃焼によって新しい自分が生まれてくるという前向きさと同時に、常に華恋を解体し続けるような状態を秘密裏に描き出そうとしていた。「空っぽ」という言葉には作品が持つ推進力やスペクタクルの裏側に潜む、葛藤としての舞台少女が見え隠れしているのだ。

5.出逢い――翳りを待ちながら

5-1.分身[double]について

 ここまでの議論をまとめよう。再生産が異なる自分=分身を生む行為という観点から出発し、作品のなかで再生産された舞台少女たちとは一体どういうものなのか、そこでの分身とは何なのかということを考えてきた。劇スへと接続する華恋の「運命の舞台」における再生産は「戯曲スタァライト」の続きを華恋の内から外在化して生み出すものであった。そこでは作品の内/外という区分はかく乱され、常に未-来へと開かれた下地が作り上げられた。劇スはそこからワイルドスクリーンバロック、非秩序的で乱立する舞台を展開し、「スタァライト」という舞台の上で安住していた舞台少女たちの野生性を挑発する。「狩りのレヴュー」では舞台少女の言葉が主題として扱われ、純那は他人の言葉ではなく自分唯一の言葉を志向するが、そこでの身振りはななの刀を奪うことで生まれたものであった。他人の言葉/力を盗むこと、それによって自分の言葉を生み出すことが描かれ、自分とは異なるものが逆説的に自分を形作り、そこから新しい自分(分身)が産出されるという構造が見えてくる。このときの分身は、決して何かのコピーでも二次的なものでもなく、つねに「もうひとつの現実」に属し、他者や自らを解体するような非常に危険な存在である。

 この解体性、それから生まれる「空っぽ」さについて考えるために落下表象に着目した。再生産を呼び招く落下は(オーディションという意味でも)身体が瓦解するようなリアリズムではなく、キャラクターの非リアリズム、記号(インクの染み)性に依っていた。しかし、劇スで舞台への恐怖が描かれるように、そこにはリアリズムと記号の葛藤、重なりを見て取ることが出来る。記号的に行われてきた落下=死は、その怖さと同時に再生を超過するような傷を引き受けていかなければならないような微かなリアリティを提出する。本作の中心である華恋の衣服/身体にそうした葛藤を読み取り、役と俳優、記号とリアリズムが重なりの中で共存しながらも常に他方を汚染しあって混濁してしまう複雑な「空っぽ」こそ、舞台少女の「分身[double]」性であると言ってよいだろう。だからこそ、彼女たちはある種の決断と共に混濁した自らに亀裂を入れ、演じ始める必要がある。演じるということは決断を必要とし、一応の「完成形」を提示しなければならないのだが、そこからまた彼女たちは心理的な葛藤のみならず、様々な分身[double]を生み、向き合い、再び演じ始めるのである。この常に混濁や重なりとしての分身を絶え間なく生み続ける運動を劇スは何とか提示しようと試みている。

5-2.カーテンコール

 出逢うことと「分身[double]」について多少なりとも言及したい。キリンの台詞と共に列車が舞台下手入口の先へと向かうとき、まさしくスクリーンと列車がほぼイコールで結ばれ、観客をそこに見出しているように思える。

〔列車の――引用者注〕速度の為に前景が解消すると、この立体感覚も旅行者から喪失する。旅行者は、遠いものも近いものも包含している「全体空間」から、抜ける。〔略〕パノラマ的にものを見る目は、知覚される対象ともはや同一空間に属していない。この目は、それが乗って移動する装置越しに、対象、景色その他を見ている。

ヴォルフガング・シベルブシュ、加藤二郎訳『鉄道旅行の歴史 十九世紀における空間と時間の工業化』、法政大学出版局、1982年、80頁

 列車に乗る乗客にとって車窓からの景色は景色を構成する対象に過ぎず、自然や街並みなどと同一の空間の出来事であると受け取られない。このことは映画を見る体験にも通ずるところがある。鑑賞者は平面の世界について装置(列車、スクリーン)を通して受け取り、そこに広がる景色や映画を眺めることも、無視して寝ることもできる。つまり我々観客もまた、劇場という名の硬直した列車に乗っているのだ。この列車はワイルドスクリーンバロックの終幕へと、「本日、今 この時」、作品と鑑賞者を結ぶような地点へと我々を運ぶ。そこでは「列車は必ず次の駅へ」というあの問いが観客である我々にも投げかけられている。

 塔という舞台から降りて、既存の舞台空間から、劇場から離れてもなお「舞台」の上だとするならば、「今こそ、塔を降りる時」は舞台のフラット化である。それは観客席や壁が存在せず、広がるのはおよそ舞台とは言い難い青空と砂漠、「空っぽ」のような旅の途上であろう。思えばレヴューシーンは「皆殺し」も含めて、全て暗闇の中で浮かぶようにして展開されていた。「星摘みは夜の奇跡」とあるように、劇的な舞台には日蝕や「翳り(*18)」というものが必要不可欠であるし、それは映画であっても変わらない。

 演劇は、「そうした人たち〔演者や観客〕の出会い、相互作用、共同作業(*19)」による上演を基本骨子に据える。TV版最終話で華恋がもう一度「逢う」為に塔を登り、劇スのクレジットでひかりが皆に「逢い」に行くように、本シリーズでは「出逢い」が強調されていた。そこには何か運命めいたニュアンスが織り込まれている。塔は確かに崩壊し、崩れ去るが、塔があるからこそ新たな約束や運命が可能であり、劇スはそれを抹消しない。実際少女たちの進む先(新国立組では見られなかったが)には塔に似た建築物(五重塔、自由の女神、エッフェル塔、ビッグ・ベン)が映りこんでいる。星摘みの塔や東京タワーと同じシンボル、高層建築物だが、作品を経てその機能も意味も異なっていくような拡散性がそこでは提示されているのだ。

 写真や映画は対象を固定化させる欲望を秘めた、ななとその再演(映画を繰り返し見ること)を象徴するものであるが、私たちはその中で固定化されえないはずの演劇を行う作品を見ている。このことは今すぐ映画館を出て、「出逢い」の為に演劇や町へ出よ、という短絡的な移行や解答を促すものではない。固定化された者たちが動き出し、時には止まり、「分身[double]」を生み出すような言葉やキャラクターの蠢きを捉えようとしているのである。それは彼女たちが時折リップシンクして曲を歌い、歌から離れて喋り、リズムに合わせて踊るような分解と一体化の連続でもあり、舞台装置に依らない光の強さを浴びて、翳りではなく自らの重なり-影[double]を引き受けることでもある。

 落下と再生、自己解体=混濁と決断、舞台に立つことを繰り返す。それはまさしく出逢うために別れ(分身が生み出され)ていく、華恋とひかりが最後に辿り着き、これからも行う運動と結びつく。分身が分身を生み、絶えず変化していくような舞台少女たちの物語は、まさしく一度きりの舞台を繰り返すように演劇的だ。それはもはや現実から遊離して、自由に笑い、走っている天使・女神のようである。しかし本作が映画作品であることを認めれば認めるほど、演劇的な――俳優と観客が互いに影響し、変化し、作品を形作るような――一回性から遠のいてしまう。そのように観ると彼女たちは自由なのではなく、反復的に同じ弧を描いている。ここには映画の持つ限界性、複製による内容や描写の完璧な反復性が現れているだろう。

 だからこそ、劇スは「観客」の位置づけを行うことで、この分身[double]性を託そうとしている。安易に観客の存在を意識させることは虚構と現実を対立させ/接続し、どちらかが一方に従属し、その接合面を忘れてしまうような錯覚を持つ危険も帯びてくる。また本作が行ってきたような過剰な演出や観客との共同性の強調は、逆説的にその噓くささを強調してしまう可能性をも孕んでしまう。だがそうした綱渡り・葛藤と向き合い、あらゆる観客・読み手に読まれ、無数に解釈されていくことで、絶えず変化していく分身[double]としての劇スが浮かび上がってくるのだ。

 2章ではななの再演、ひかりの運命の舞台を経て、翻訳を通じた華恋のアンコールを代理・補充として再生産を位置づけたが、我々は再演のような何度も同じ作品を見ようとする態度を切り捨てることは出来ない。舞台少女たちは「舞台に立つこと」を貪欲に求めるが、そこには観客の存在が常に意識されている。例えば華恋も始まりは観客であったし、舞台俳優になったとしても「観ること」からは免れない。彼女たちに無数の舞台があるように、観客ごとに無数の視点、観ることも発生する。読む/書く(語り)、観る/演じるとき、舞台少女と観客は異なる存在、次元でありながらも同じように一時的に決断するという点で重なりを帯び、一瞬にして消えていくような出逢いが生まれるのである。

 夜明けがやってくる。今はもはや彼女たちが走るのではなく、自由に翔けているように思える。翳り、演劇や映画空間であり、作品の見えない部分、再び出逢うところを待ちながら。

別々の道を歩いていても
私たちは同じ旅人・・・・だから・・・・
さようなら。ありがとう

『「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」パンフレット』、2021年、大場なな紹介頁より

*1 パンフレットの人物紹介に(恐らく第101回聖翔祭の)同じ台本、同じ頁が掲載されており、「最後のセリフ」を取り消し線で各々が思い思いのセリフに書き換えている。これはTV版第11、12話で華恋が行ったことと似ており、劇スとは登場人物それぞれの「最後のセリフ」についての物語であったと言うことが可能だろう。

*2 ただし注意点として、ここで映し出される雨宮直筆の第一原稿から俳優育成/舞台創造科の生徒たちに配られる第一稿には若干の修正がある。パンフレットにその台本が掲載されているが、後者には「果て」という言葉が追加されている。また前者で多用されていたダッシュや三点リーダーが落ち、作家の戯曲から俳優が読み、演じるものへと変化している。

*3 例えば絵画の起源とされるのは人物を描くのではなく、その影の縁をなぞったものである。表象とはギリシア語で「思い描く[phantasia]」を意味しており、本文に照らし合わせるならば、外観や対象そのものではなく、それを思い描くこと、つまり「今はここにない」という形で外観や対象の分身を描くことである。

*4 この「運命の舞台」はシーシュポスの神話を想起させる。シーシュポスが神々からの罰として山の頂上に岩を運ぶことを命じられるが、山頂に近づくと岩はその重さで転げ落ちてしまう。シーシュポスはこの不条理ともいえる試練をひたすら繰り返すのだが、何度も星を積み上げては崩れてしまう、ひかりの運命の舞台に相似的である。しかしながら有名なカミュの論考で見られた、不条理の受け止め方との間の連関には慎重な判断が必要である(カミュ、清水徹訳『シーシュポスの神話』、新潮社、2006年、210-217頁)。そうした点に加え、本文中で扱った「翻訳」行為を想起すればこの「星摘みの塔」とは統一言語を志向するバベルの塔との近さも窺わせており、やはり他人との意思疎通というモチーフを読み取ることが出来る。

*5 ここでは本論から少し道を外れて、議論に広がりと留保を与える為に「再生産」と弁証法の関係について指摘しておきたい。再生産とは一種の弁証法、正と反の対立を経て生まれる一般的なもの(合)への到達(止揚)という構造でもあるだろう。しかし、その方向性(目的)は二つの項を一つにまとめ上げて第三項へとまとめあげることであり、二者性(華恋とひかり、役と演者など)に留まる本作とはやや異なるとも考えられる。 弁証法とは、例えば、あるものを観て「これは円だ」という人がいる一方で「これは長方形だ」という人がいる。前者が正(テーゼ)、後者は反(アンチテーゼ)であり、この二つが対立し、そして「これは円柱だ」という立体に気づくこと(合)、対立意見を統合してより高い考えを得ることが止揚である。そしてこの合を正とした上でもう一度意見の対立が生じる。この運動を弁証法と言う。精神の弁証法を記述しようとしたヘーゲルから引けば、

このように比較することによって、意識が真をつかむことには、把捉すること〔正〕と自己に帰ること〔反〕のちがいがあるだけでなく、むしろ真そのものが、つまり物が二重の仕方で現れることに気がつく。

(G.W.F.ヘーゲル、樫山欽四郎訳『精神現象学』、平凡社、1997年、151頁、〔〕は引用者)

のであり、そこでは反の立場が自己に帰る、見つめなおすという外部の立ち位置として(いずれ内に取り込まれるという形で)用意されている。また彼の弁証法においては「否定性」が重要視されている点は無視できないだろう。

廃棄のはたらき〔止揚〕は、その真の二重の意味を表しており、この意味はわれわれが否定的なものにおいて既に見たものである。それは否定することであると同時に、保存することである。

(同前、141頁、〔〕は引用者)

 弁証法を、近代国家やドイツとの結びつきが重要であるヘーゲルに還元することへの注意は必要だが、過去の自分と今の自分を対比させ、新しい自分を生み出すという再生産のモチーフとの親和性は高いと考えられる。

*6 本論の内容からやや離れ、遠近法というシステムの注意点を指摘しておきたい。例えばパノフスキーは直線的で精密な空間描画(中心遠近法)というものは生理学的な空間を捨象していて、

物体と隙間(「空虚な空間」)の区別を否定し、空間部分と空間内容の総体をただ一つの「連続量(クワントゥム・コンティヌウム)」に解消してしまう。

(エルヴィン・パノフスキー、木田元監訳、川戸れい子/上村清雄訳『〈象徴形式〉としての遠近法』、筑摩書房、2009年、13頁)

と述べている。大雑把にまとめてしまうと、絵画技法としての遠近法は生理学的な眼(二つの球体)で捉えた空間とは異なり、幾何学的で機械的な、連続した空間にしてしまう。絵画や映像で見られる遠近法とは確かに美しいのだが、それがカメラや機械的なシステムから生み出されている点には注意が必要である。

*7 この台本や役柄に適応するための演技指南書としてコンスタンチン・スタニスラフスキーによる『俳優修業』などがあり、本稿のこの注釈以降で取り上げるフランスの詩人であり劇作家のアントナン・アルトーとの比較において、スタニスラフスキーは役との心理的「一体化」を目指していることが特徴である(大坪裕幸「アントナン・アルトーと演劇のカタルシス」、『立教大学フランス文学』第40巻、2011年、128-129頁、https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_、放送大学教育振興会、1996年、225頁。

*8 また補足をしておくと本作の監督である古川知宏が師匠と慕う幾原邦彦が『少女革命ウテナ』(1997年)などで参照した寺山修司(と60年代のアングラ演劇)にアルトーは影響を与えている。ここに一つの系譜を読み取ることができるだろう。

*9 もちろん、本作がアニメーションであり、映画であり、脚本家がいる時点で台本というものはある。しかし注意しなければならないのはこの固定化されうるフィルムの中で異なる方向(体験、アトラクション性≒ライヴ)を目指した点である。

より原理的(・メタ的)に考えると、本来アニメキャラクターに過ぎない天堂真矢が、animus〔魂――引用者〕を持ちうるはずがない。紙(あるいは画面)にペンでそういうキャラクターが描かれているだけである。しかし、全てが「舞台」の上の出来事であり、全てのキャラクターが「役者」であるアニメーションの中に再度「舞台」を設置することの意味は、キャラクターの「本心」を「曝け出して」演じるように求められているということが繰り返し明示される以上、現実世界で行う舞台の持つ意味からは逆転し、むしろ「現実」を「舞台」の上で表現しなければならない、ということである。/要するに、舞台のなかの舞台においてはじめて、キャラクターは役を捨て、生身の人間として振る舞うことが可能になるのである。

(フクロウ「wi(l)d-screen baroqueとは、キャラクターを生身の人間にすること。すなわち、魂(animus)を吹き込むこと」、『アニメクリティーク vol.5s』、アニメクリティーク刊行会、2021年、62頁)

*10 01:20:41以降を見れば、純那の顔に線が書き込まれており、傷を負っていることが分かる。「皆殺しのレヴュー」の血を流す身体描写や各レヴューにおける象徴的な傷のモチーフに収斂しがちだが、本編では純那だけがこのかすり傷のような痛みを背負っていることは重要だろう。また、外的な作用によって生まれたこの傷がすぐさま消えてしまうことは彼女がアニメーションとして描かれた「傷つかない身体」を持っていると同時に、(舞台上の演出だとしても)その傷を直ちに再生産してしまうような恐ろしさを感じさせる。

*11 『少女☆歌劇 ラジオスタァライト』#190、2021年12月27日、18:49、https://www.openrec.tv/movie/n9ze3471k84、2022年4月8日アクセス。

*12 ジャック・デリダ、梶谷温子/野村英夫/三好郁朗/若桑毅/阪上脩訳『エクリチュールと差異』、法政大学出版局、1983年、150頁。

*13 A・アルトー、前掲書、178-179頁。補足としてアルトーは精神病院に監禁されるなど、そのアクチュアリティ(現実性)は文学的な独自性と臨床医学的な一症例の狭間で揺れ動いている。実際本稿での引用はやや勇み足である感覚も強く、今後の検討が必要である。

*14 こうした演者と役の二重性を用いて古東哲明(ことうてつあき)は、哲学者、マルティン・ハイデガーの本来性と非本来性という概念を説明する。

だが舞台上では、〈舞台上の役柄としての自分〉と〈生身の役者としての自分〉との二重の分裂構造を、ごくあたりまえのように生きてしまう。ごくあたりまえのように生きてしまうとは、①まずそんな分裂構造など全く意識しない状態で生きているということ、②さらにいえば、生身の自分は消し、そんな自分のことも忘れ、役柄上の自分になりきって、はてはそれが自分だと思いこんでいる、ということである。

(古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』、講談社、2002年、106頁)

この自己忘却、役柄への没入の中で突如「不安」になる、自身の本来性の前に晒されるとき、それは「死」について考えるときである。本稿で指摘した舞台少女の在り方は、この分裂を、分裂として自覚して「本来性」を変化させていくものだといえるだろう。

*15 思い出すのは華恋が倒れて一度死んだシークエンスである。01:46:47で倒れた姿を見せたのち、01:46:54で目が閉じ、01:47:11になると再び目を開いている。これは整合性が取れていないとかそういったことでなく、むしろこのズレを見ても我々は問題なく作品を見られるのである。

*16 ここでも注意点を挙げておくならば、実写映画やリアリズムに基づいたような落下を、アニメーションの議論に適応することへの注意は必要である。また、TV版第1話で華恋がまどろみの中で落下する場面を見ると、そこには転入してくるひかりの存在が仄めかされており、落下がひかりという外部との結びつきを示唆していると分析することは可能である。

*17 「鼎談インタビュー 監督=古川知宏、脚本=樋口達人、劇中歌作詞=中村彼方」、『「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」パンフレット』、2021年より。

*18 ジャック・デリダ、藤本一勇訳『哲学のナショナリズム性、人種、ヒューマニティ』、岩波書店、2021年、219頁。ここでデリダが述べるような「翳り」というのは作品を動く-物として捉え、常に他なるものとして現れることを示す。作品には陽の当たらないところがあり、同じものでは決してないという潜勢力に繋がる。この意味において、「翳り」の中から出ることはそれを破棄することではなく、寧ろ新たな到来を待つことである。

*19 エリカ・フィッシャー=リヒテ、山下純照/石田雄一/高橋慎也/新沼智之訳『演劇学へのいざない 研究の基礎』、国書刊行会、2013年、37頁。

著者コメント(2022/10/10)

拙稿は感想や考察であり、また評論や批評[英:review, 仏:revue, criticism]の類いでもあり、暴力や自己満足も孕んでいる。内容について狭間・外側から言うことは何もないが、『Revue STARLIGHT』が評論・批評と同じ言葉を持っているように『劇ス』について文章を「かく」私もまた、何かを言い尽くしたいという幼さ、苦痛と向き合い、常に自分とまだ見ぬあなたに「賭け」ながら舞台に立っていた。スタァライトは別れの物語だが、それはまた逢う
為に別れるのである。拙稿もまた、そんな巡り合いを果たすことが出来たのなら本望である。最後に本作の鑑賞に誘ってくれた友人、何度も締め切りの延長に対応していただいた運営に感謝を述べて筆を置きたい。

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