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スタァライトで変える人生論

sota
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まえがき

 あなたにとって『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』とは何か。私にとっては、人生観を変えるような大きな影響を受けた作品である。本稿では、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において聖翔音楽学園99期生が行った決断や選んだ進路、物語の演出を基に、我々観劇者の人生観について何かを変えてくれるような要素を取り上げ、考察していこうと思う。

 「人生観」という言葉1 つとっても、様々なものがあるだろう。そこで、本稿では様々な人生観について、前後半に分けて論を述べていこうと思う。前半ではメインキャラクターのうちの3人を取り上げて、彼女たちから想像される人生観について考えていく。後半では、そういったキャラクター個人の人生観なども含め、劇場版やスタァライトという作品から影響を受けた私個人の人生観に関する考えを示していきたい。

 そもそも、人生観なんて人それぞれだという人も多いだろう。その意見はごもっともで、人生観は人それぞれのものであり、それを否定することは許されない。私はこの文章を通して読者の人生観を否定し、私が示すものが正しいとしたいわけではなく、読者にこのような人生観もあるのか、と軽い参考程度にでも考えてもらいたいだけであることを念頭に置き、読み進めてほしい。

大場ななと「99」

 まず、この物語のメインキャスト9人が所属する、99期生の99という数字に着目しよう。この数字を最初に見た観客の多くは、なぜ100ではないのか、と思うことだろう。100という数字はとてもキリが良く、区切りの数字として使われることも多い。しかし99期生は、1年時には99、2年時には100、3年時には101回目の聖翔祭となり、真ん中の中途半端な位置に100が置かれることになる。

 ではなぜ100ではなく99なのか。私はここに1つの仮説を立てる。この数字は、『TVアニメ 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、TVアニメ)での大場ななの葛藤を表すためだけに用意されたものなのではないだろうか。大場ななはTVアニメで、99回目の聖翔祭に固執し、100回目の聖翔祭の前で折り返して99回目の聖翔祭を再演し続けていた。ではそれと数字にはどのような関係があるのか。キリが良い数字というものは、何かが終わる契機とされることもある。100回目で何かが終わることを恐れていたと考えると、どこか大場ななと繋がるものも見えてこないだろうか。つまり、100回目の聖翔祭に進むことで、99回目の聖翔祭で見たキラめきが終わってしまうことが怖かった、という仮説だ。

 さて、ここからは、仮説で触れた大場ななの再演から、人生観について本格的に考察していこうと思う。大場ななが行った再演という行為は、言ってしまえば過去に固執し成長を止めてしまうものである。同じ時間軸を何度もめぐる行為では、経験を糧に成長することができなくなってしまうためだ。一見すると物語の悪役のように捉えられてしまうかもしれないが、大場ななもれっきとしたメインキャストの1人である。彼女がメインキャストとして据えられているということは、彼女の役にもそれ相応の意味がある。

 では、それにはどのような意味が込められているのかを考察していこう。まず単純に、失敗からの成長を体現していると考えられる。再演を失敗の一端と捉え、そこから仲間の助けを借りながら成長していくという、王道ともいえる物語だ。ただ、それだけのための配役ならばありふれたものになってしまうだろう。私は、何度も繰り返す再演の中で少しずつ、より良いものを作ろうとした彼女の在り方にも意味があると考える。彼女のTVアニメ作中の発言に、再演の度にその内容を少しずつ変えていったというものがあった。トライ&エラーを繰り返した大場ななは、ある意味他の舞台少女より多くの経験を積んだ人間として表現されるべきだと私は思う。実際、大場ななはいたるところで、天堂真矢よりも大人びた言動をするシーンが見られる。その上で、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、劇場版)では愛城華恋の行く末を誘導するような立ち位置にもいた。

 これらのことから、大場ななは失敗のお手本としてだけでなく、諦めずに目標に向かい続けた人物としても捉えることができるのだ。大場ななの劇場版での発言「私も自分の役に戻ろう」は、大場ななというアニメにおける1キャラとしての少女の役と、再演を経験したことで形成された普通とはかけ離れた女性の大場ななを切り離して考えている、という風にも捉えられる。TVアニメで見られた悪役的要素は、後者の役の現れであったのではないだろうか。

星見純那の選ぶ道

 次は、劇場版で大場ななと共に進路に大きく揺れがあった星見純那について考えていこう。最初は国内の大学へ進学し客観的に舞台を勉強することを考えていたが、最後にはアメリカの演劇学校に留学し舞台に立ち続けることを決めた。その過程には、大場ななとの「狩りのレヴュー」が大きく関わっていることは言うまでもない。ここで考えるのは、人生における選択肢と迷いについてだ。星見純那が進路を変えたきっかけの1つは、新国立第一劇場に向かう電車の中での出来事だ。石動双葉に新国立第一歌劇団への入団を勧めたのが西條クロディーヌであることを確認し、星見純那が選んだ進路が正しかったのかどうか考えているシーンが見られた。「でも、今は、よ」という表現も使われ、それが大場ななとのレヴューのきっかけにもなっている。大場ななにとっては、星見純那の選択した消極的ともいえる進路を見て、「星見純那はそんな人じゃない!」という思いだったのだろう。そんな思いで始まったレヴューでは、星見純那が進もうとした道を否定するかのような大場ななの発言も多く見られた。

 しかし、ここで疑問が生まれる。そもそも、星見純那が最初に選んだ道は間違いだったのか、というものだ。まずは、現実の我々に重ね合わせて考えてみよう。アニメだから、と言ってしまえばそれまでかもしれないが、(おそらく)一般人である我々なら舞台という厳しい道を進むことにはやはり躊躇してしまうだろう。では、星見純那以外の8人はなぜ躊躇なく舞台に進めたのか。それは、聖翔音楽学園という環境が大きい。演劇において国内トップとも言われる高校に合格し、3年間の学びを得た少女たちであれば、進路の選択で迷いなく舞台の道を考える人が多いだろう。そう考えると、一般的に見れば、星見純那の進路希望はいたって普通なのだ。少数の人々しか進むことを許されない世界へ足を踏み入れることを恐れ、遠回りをしようと考えるのはいたって自然だろう。私はこのようなことから、星見純那が最初に選んだ道は間違いではなかったと思う。ただ、最後に選んだ舞台への道も、間違いとは言えない。未知の世界へと挑戦する道は、誰しもが決断できるものではない。どちらを選んでも、それが否定される理由はないはずだ。

 これを踏まえて、大場ななが星見純那の進む道を否定したことについて考えよう。大場ななは、星見純那が舞台に対し中途半端な選択をしたことを受けて、まっすぐに前を見据えひたむきに努力をし続ける星見純那が「眩しかった」と言い、舞台少女としての生死を迫った。星見純那は結果として生を選び、大場ななとのレヴューを制した。大場ななは星見純那の運命をまるで自分が握っているかのように迫っていたが、逆に焚き付けられた星見純那は再び主役を目指す道を進むことになる。この大場ななは、TVアニメから今までにあった舞台少女として対等に渡り合うレヴューではなく、一方的に価値観を押し付けるレヴューを望んでいる。その結果、星見純那は自分の脆さ、未熟さを感じ改心したが、本来価値観の押し付けは好ましいとは思えない。「自分の運命は自分のものでしかない」ということは、揺らぐべきではないと思う。誰かに決められた運命は、本当に自分が歩むべき道なのか。これについて思考を巡らせた星見純那が聡明であったことは言うまでもないだろう。

露崎まひるの成長

 もう1人、露崎まひるについても触れておく。彼女は、他の99期生のメンバーと比べても早い段階で前を向いて進むことができていた。それは、劇場版での「競演のレヴュー」を見るとよくわかる。他のメンバーは過去の自分にケリをつけるレヴューだったのに対し、露崎まひるだけは神楽ひかりに舞台に立っていることを自覚させるレヴューを行っていた。大場ななの「皆殺しのレヴュー」の時は完全にのまれていた彼女だが、自分が舞台の上に立っていることを自覚した時点で先に進む準備はできていたのだろう。

 では、何が彼女の過去にケリをつけさせたのだろうか。私は、TVアニメ第5話での「嫉妬のレヴュー」で、露崎まひるという舞台少女は完成していたと考えている。このエピソードは、聖翔音楽学園1年時の聖翔祭でスタァライトを演じた時に、愛城華恋からキラめきを与えてもらった(と思い込んでいた)ところから始まる。露崎まひるは、愛城華恋からのキラめきをもらうことで舞台少女として生きていけるとずっと思い込んでいたが、「嫉妬のレヴュー」で彼女自身にもキラめきがあるということを愛城華恋に気づかされたことで、愛城華恋に依存しない、本当の舞台少女露崎まひるに生まれ変われた、というのがTVアニメ第5話の大まかな内容だ。劇場版では、この露崎まひるの基盤が大きく変わることはなく、神楽ひかりを本当の舞台少女に生まれ変わらせるためのレヴューをしている。舞台少女として他人に依存することと自立することがどれほど大きな違いなのかを理解していたからこそ、神楽ひかりを次の舞台へと送り出すことができたのだろう。

 彼女の生き方は、清廉潔白としたまっすぐな生き方、というのが合っていると思う。幼い頃の夢を思い出し、夢に向かってまっすぐに進み続ける彼女の生き方は、我々が生きる世界に当てはめても中々できるものではない。大体は、夢半ばで挫折をしたり、新たな道を見つけて方向転換したりすることだろう。露崎まひるは、その挫折に似たようなものを第5話で克服しているのだ。愛城華恋のキラめきで前も見えなくなっていた状態だったのを払拭し、再び前に進み始めた彼女は、ある意味では最も主人公然としたキャラとして描かれている。ただ、そこに至るまでの他人に依存した生き方は未熟であったと言ってもいい。

 人間は誰しも他人の力を借りないと生きていけない。それは、親然り、友達然り、教師や上司も当てはまるのであり、時として全くの赤の他人ですら必要となり得るのである。しかし、他人の力を借りることと他人に依存することは、全く別物であると言ってもいい。依存するというのは、全てを相手に委ねることだ。露崎まひるの場合、舞台少女としての未来を全て愛城華恋に委ねていたことになる。それは、愛城華恋が決めた道にどこまでも付いていき、彼女が舞台を降りる時に露崎まひるもまた舞台を降りるというようなことも起こり得たということだ。依存している人間は、自身ではその異質さに気づけないことが多い。「~のためだから」と自身を正当化するのが当たり前になってしまい、自分に疑問を持つことがなくなると、さらにそれはエスカレートしていく。露崎まひるは、その依存状態から「嫉妬のレヴュー」で抜け出すことができた。その心の成長は、もしかしたら愛城華恋以上のものかもしれない。

『私たちはもう舞台の上』

 次は、この『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』における概念について触れていこう。手始めに、劇場版主題歌のタイトルでもある『私たちはもう舞台の上』という言葉についてだ。これについては、作中のキーワードでもあったことから、物語の中でも、我々の中でも多く触れられた話題だろう。では、結局この言葉は何を指示していたのか。

 まずは、物語のキャラに対してだ。特に、決起集会後のトンネル内で愛城華恋と神楽ひかり以外の7人の舞台少女が、声を合わせて「私たちはもう舞台の上」と言ったシーンに注目する。私は、このセリフによって彼女たちは既に観客に観られているということを自覚させようとしていたのだと考える。この観客という言葉が指すのは、まさにこの『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語を見ている我々のことだ。劇場版では、観ている我々に対してキャラクターが話しかけてくるようなシーンが度々見受けられる。観客すらも舞台装置として機能させるために、作中でも観客の存在がまるでそこにあるかのように振舞っているのだろう。この、観客に見られているという意識は、すなわち舞台の幕が既に上がっていることを示している。この舞台という言葉が指しているのも、ただの舞台だけではなく『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語そのものを含むのではないかと推察できる。ここまでのことを踏まえると、「私たちはもう舞台の上」という言葉は、この7人に対し「物語は既に始まっているんだ。観客の望むものを演じろ」と暗示しているようにも聞こえるだろう。

 しかし、私はこの言葉は我々観客にも向けられたものだと考えている。つまり、観客の我々も「人生」という舞台の上にいるということだ。この物語に使われたメインモチーフの1つに、「列車」が挙げられる。それには、列車を見る度にこの物語を思い出して、明日への活力にしてもらいたいという思いが込められている(*)。それと同じように、彼女たちが放つセリフの1つ1つにもメッセージが込められていると考えると、「私たちはもう舞台の上」という言葉が我々に向けられたものであるというのも納得がいくだろう。そう、我々は生まれた時からもう既に舞台に立っているのだ。それを伝えるためにこのセリフを二重にかけたのではないかと私は考える。


* これはFebri のインタビューにおける古川監督の発言から来るものである。 https://febri.jp/topics/starlight_director_interview_1/

この世は大きな舞台

 ここからは、前の話題と関連して我々観客にとっての舞台について考え、人生観についても大きく踏み込んでいく。まず、我々が立っている舞台とは何か。前節でも書いている「人生という舞台」がそれを指している。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』でも、「人生とは舞台」という表現が多く使われる。この舞台ではメインキャストは我々1人1人、周りの人間は役者、または観客という解釈だ。舞台とは物語を演じて拍手喝采を浴びるようなものではないのか、と多くの人が思うことだろう。しかし、我々がこの『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』で見てきた舞台は、必ずしもそれだけではなかったはずだ。キャストの彼女たちの普段過ごす姿からレヴューをする姿まで含めて、全てを舞台だと感じたのではないだろうか。それと同じように我々が過ごすこの瞬間1つ1つも舞台として捉えることができる。

 では、我々が生きる世界全てが舞台だと仮定して、何がどう変わるのか。それは、自分が役者であるという意識だ。舞台の上では、役者は常に演じ続ける。時には優しい青年を、時には残忍な大人を、また時には、空っぽな少女を演じるのだ。現実を舞台と仮定すると、我々は「自分」という役を演じていることになる。この場面、僕なら、私ならこうするというのを瞬時に判断し、行動に移す。ただただ普通に生きている世界を舞台と捉えることで、自分が思っているよりも世界が面白いものに見えてくる、というのが私の伝えたいことの1つだ。

 私は、これによっていくつか利点も生まれると考えている。1つは、自身を俯瞰して、客観的に見られることにある。自分を演じるためには、自身について詳しく知っておく必要がある。自然体の自分でいれば、勝手に自分を演じたことになるのではないかとも思えるが、そもそも我々はその自然体の自分についてどれだけ知っているだろうか。自分はどのような時にどのような行動を取るのか、何を好み、何を嫌うのかなど、普段気にしていないことを一度客観的に捉えることで、いつもなら取らない選択肢を浮き彫りにすることができる。

 もう1つの利点は、挑戦のしやすさ、失敗による苦悩の軽減などにつながる、意識の持ち方だ。例えば、自身のコンプレックスを受け入れることが楽になる。自分のここが嫌い、と思うところも、そういう役柄だと思えば少しは気にならなくなる。さらに、何かを始めようとする時に、自分が物語の主役を演じている意識を持つことで成功へのモチベーションを上げることができる。大事なシーンに遭遇した時にも同じことが言える。自分にとってターニングポイントとなるシーンで、自分が主人公であるような振る舞いをすることによってモチベーションを大きく上げることができる。これらはこじつけのように聞こえるかもしれないが、意識を高く持つことは人間を強くするものだ。以上から、人生とは舞台というのは我々にも当てはまる上に、この考え方で人は生きやすくなるのではないかと私は思う。

 この話を聞くと、「いつだって自分は主役だ」と思える人と「自分は主役にはなれないな」と思う人が現れるだろう。後者の考えを持つ人でも明日を少しでも気楽に生きられるように、私の考え方を少し深堀りしていこうと思う。まず、舞台の主役になれるのはたった1人だけではない。この世にいる誰もが生まれながらにして主役だ。では、誰しもに、主役に見合うような活躍があるのかと言われるとそういうわけではない。私は、人間1人1人が人生を歩んで積み上げてきた経験は、全てが舞台の物語1つ1つに匹敵すると考えている。よく耳にする、「あなたの代わりはいない」という言葉や「十人十色」ということわざは、まさにそれを表すような言葉だ。特筆するような出来事や事件がなくても、その人が見て、感じてきたものは唯一無二のものである。

 例えば、本屋で有名人の半生を書き出した本を見ることがたまにあるだろう。あれらは、今まで身の回りに起こったことが、本人の感じたことと一緒に書かれたものだが、内容を見ると意外と何の変哲もない人間の半生が書かれていることも多い。しかし、それを読んだ人々は「こんな経験をしてきたんだな」と関心を持つのだ。また、親友と雑談をしていると、特に何もおかしなことのない1日の出来事について話し合うこともあるだろう。私もそのような話に興味を向けて聞いたり、逆に話したりすることがよくある。そう、誰の人生をとっても「普通」なんてものはないのだ。自分にとっては自分以外の人間の生き方はどれも不思議に見えるものだ。それと同じで、他人にとっては自分の人生はまるで作り話を聞いているかのように思えるのだ。

 これでも納得がいかなければ、ここまで我々が題材にしてきた物語を見てみよう。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、もちろん現実とはかけ離れた設定ではあるが、それはあくまで「設定だけ」の話だ。もしこの物語で、舞台装置が動かなくなったらどうなるのだろう。舞台少女のキラめきという概念がなくなったら、キリンが喋らなくなったらどうなるのか。そこに残るのは、舞台に憧れたごく普通の9人の物語だ。では、そうなったら我々
観客はそこに興味をなくしてしまうのか。恐らく、その問いの答えはNoだ。我々はこの物語に魅入られ、追い続けてしまうだろう。その理由はいたってシンプルだ。なぜなら、その舞台に憧れた9人の普通の少女の歩む道が「普通に見えない」からだ。

「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちは?」

 ここまで、舞台少女にとっての「舞台」と我々観客にとっての「舞台」について長々と話してきたところで、劇場版のキーワードの1つである、「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちは?」について軽く触れておく。このセリフも、大場ななが放ったものだ。これは舞台少女としての自分たちの行く末を案じたセリフで、この問いに他の8人は向き合うことになる。劇場版では、愛城華恋と神楽ひかりがこの問いに対し「列車は必ず次の駅へ。舞台少女は次の舞台へ!」というセリフで答えを示していた。では、我々観客にとってはどうか。我々にとっての「次の舞台」とは、ターニングポイントで区切られるものであると私は考える。人生にとっての大きな区切りで次のステージに進むとき、それは我々にとって新たな舞台に立つことと同義であるだろう。舞台少女たちが今までの舞台にケリをつけ、先に進もうとしたのと同じように、我々も次の舞台に進むとき、過去の自分にケリをつけて先に進むことが必要だということになる。「心機一転」という言葉が、それを端的に表しているだろう。

舞台と観客

 では、この概念についての話の最後に、今まで話した「観客にとっての舞台」の反対にあたる、「舞台にとっての観客」について話そうと思う。「舞台にとっての観客」とはどのような存在なのだろうか。観客は、言ってしまえば舞台になければならない存在だ。その理由は、「観客がいないと舞台が盛り上がらない」や、「観客がいないとお金が入ってこない」というようなものではなく、もっと根本的なものだ。そもそも、「観客がいないと舞台が成り立たない」からだ。劇場版では、観客が望む限り舞台が続く、という概念をキリンが示していた。これは裏を返せば、「観客が望まない限り舞台は閉幕する」ということだ。

 観客が舞台を観測しない限り、そこに舞台は存在しない。どんな優れた物語を作り、どんな優れた演者がいたとしても、そこに観客がいないだけで全ては認知されないものとなる。つまり、「舞台にとっての観客」とは、絶対になくてはならない、ある意味で演者と同じくらい必要な存在である。

 これを踏まえた上で、「観客にとっての舞台」と「舞台にとっての観客」について同時に考えてみよう。「観客にとっての舞台」については、人生そのものの比喩として捉え話してきた。観客も常に舞台に立っている、というのが私の考えだ。では、その観客が立つ舞台にもまた観客がいなければならないはずだ。つまり、この2つについて考えてきたのであれば、「観客にとっての観客」についても考えなければいけない。

 これは、「観客にとっての舞台」について話したときに少し触れたが、観客の作る舞台の観客は、自身を観測できる全ての人間だ。近親者や親友から、街行く人々の1人1人、コンビニの店員、ネット上での繋がりまで、自分のことを観測できる位置にいる人間は全て観客として扱える。そのため、観客が作る舞台の観客は常に存在していることになる。それでは、その舞台が終わるのはいつなのか。私は、人との関わりが消滅した時だと考える。たとえどんな形であろうと、自分を認識してくれる人がいるならばそれでいい。しかし、それが1人もいなくなった時、人間は本当の意味で孤独となり、世界から存在しないものとして扱われるのだ。そこが舞台の終わり、言い換えれば、人生の終わりだ。孤独に生きるとはよく言うが、本当の意味で1人で生きることはほぼ不可能に近い。自分のことを全て1人で行うのは、文明が始まる前から不可能に近かっただろう。私は、人との関わりを切らせてはいけないと強く思っている。親友が多い少ない、人と関わるのが好き嫌いなどは人によって様々だが、人との関わりは保っておくべきだ。「観客にとっての観客」がいなくなれば、舞台は閉幕してしまうからだ。

愛城華恋という人間

 最後にフォーカスするキャラクターとして、この物語の主役について話していく。愛城華恋についてだ。彼女の生き方は、人間としてもあまり見ない部類であるものの、劇場版ではその人間らしさが如実に描かれていた。これを最後に取り上げ、終幕としたい。

 幼い頃に彼女は、神楽ひかりと運命を交換した。それは、はたから見れば単なる髪飾りの交換にしか見えないだろう。実際、このシーンを最初に見た我々も同じことを思った人が大多数のはずだ。しかし、このシーンで行われていたのは、髪飾りの交換を通したお互いの運命の交換だ。運命の交換、という言葉はいまいち実感しにくいが、強いて表現するとしたら、お互いの運命においてお互いをなくてはならない存在として認識付けた、というのがわかりやすいかもしれない。この時から、愛城華恋と神楽ひかりはお互いになくてはならない存在となった。そして、その時に見た舞台、スタァライトを演じることに憧れ、2人でトップスタァを目指すことになる。

 この運命の交換の力は強大で、12 年間離れ離れだった2人からまるで消え去ることがないかのように、2人を結び付けていた。これは、並みの人間では到底考えられない現象で、現実ではほぼあり得ない話だろう。12年前に結んだ約束のためにずっと努力をしてきた、というのは、普通の人間ではまずない。ただ、この愛城華恋と神楽ひかりの意思の固さも、本当は人間らしさがにじみ出すようなものだった、ということが判明したのが、劇場版での話だ。特に、愛城華恋の視点を見るとそれがよくわかるだろう。彼女は神楽ひかりと運命を交わし、神楽ひかりがロンドンへ行った後も気丈に振舞い続けていた。幼い頃の約束を守るため、ただひたすら努力する少女になり続けた。しかし実際は、心のどこかで神楽ひかりが舞台を諦めてはいないかと不安に思っていた。もし神楽ひかりが約束を忘れていたら、今までやってきたことは何だったのか。日に日にそう考えることは止まらなくなってくる。それでも彼女は、気丈な少女を演じ、自分自身にも疑いの心を持たぬように言い聞かせていたのだ。

 ここまでを見て、愛城華恋の人間らしさが垣間見えたと同時に、やはり彼女の意思の強さに目が行くだろう。なぜそこまでして、盲目的に神楽ひかりとの約束を信じ続けたのか、と考えてしまう。その答えは、劇場版の「最後のセリフ」にある。愛城華恋は、神楽ひかりに対し、「私も、ひかりに負けたくない」と言い放った。これは、舞台少女としての欲望であり、神楽ひかりと運命共同体として生きてきた愛城華恋から出てくる言葉としては想像もつかないものだった。2人「で」目指すスタァから、2人「が」目指すスタァに移り変わった瞬間だ。

 では、このセリフまでに何があったのか。愛城華恋は、神楽ひかりがいないと舞台を続ける理由がないと思い込んでいた。しかし、それにより一度舞台少女としての死を経験したことで、今まで自分が舞台を続けていた隠された理由に気づくことになる。それは、単純に舞台が楽しい、好き、という感情だ。今まで神楽ひかりとの約束を12 年間も律儀に守り舞台を続けてこられたのは、この楽しい、好き、という感情があったからだろう。何度約束に対し不安になっても、舞台の楽しさが彼女をつなぎとめていたのだ。これで、ずっと神楽ひかりを信じ続けたと思われていた、人間離れしたような意思を持つ愛城華恋も、本当は普通の人間と同じように悩みながら進んできたことがわかった。

 人間は誰しも悩みを抱えるものだ。これは、どの人間でも同じことで1人も例外はない。作中の天堂真矢にも、表にはほぼ出さなかっただけでそれは存在したはずである。ただ、外から見ると意外と悩みがないように見えてしまうものだ。愛城華恋の回想に出てきたファストフード店でのシーンは、それを顕著に表している。彼女の同級生の男子がそのシーンで、愛城華恋にも本当は悩みがあるのではないかということを言っていた。他の同級生はそれに思い至ることすらなかったような素振りだったことからもよくわかる。それでも人間は、悩みを抱えるのは自分だけなのではないかとついつい思い込んでしまう。苦悩を抱えることは、特段悪いことではない。それ以上に、どうやって苦悩を乗り越えるかの方が大事になってくる。しかし、その悩みに押しつぶされそうになり、目の前のことから逃げてしまいそうになることもあるだろう。それをしなかったのが、愛城華恋の本当の強さだと私は思う。何度不安に駆られても、その度に約束を思い出し、神楽ひかりとの再会まで歩みを止めなかった愛城華恋は、強い人間であったことは確かだろう。

 私は、この強い生き方が今を生きる人間に必要なものだと思う。ただ、悩みの乗り越え方といっても色々ある。その選択肢の中でぜひ選んでもらいたいのが、仲間と支えあいながら解決していくものだ。愛城華恋が神楽ひかりとの約束を胸に前に進んだように、人との関わりの中で超えた先で掴んだものは記憶に残りやすいものだ。その記憶は、自信にも繋がっていく。愛城華恋ほどの強さを手に入れるのは些か難しいものだが、少しずつでも前に進んでいくと、人生が明るくなっていくのではないだろうか。

私の「スタァライト」

 最後に、私の人生観を変えた経験談をここで述べようと思う。私は高校の頃、いわゆる進学校と呼ばれる高校へ入学した。そこでは、勉学も運動もできることが当たり前で、成績底辺でギリギリ入学した私には劣等感を感じざるを得ない環境だった。学習面ではいつも下から数えた方が早く、勉強をできる時間も部活で限られていたために成績も中々伸びなかった。その部活はというと、全く経験のないラグビー部に入部したのだが、人一倍体重が軽かったのもあり、他の部員よりも何もかも劣っていると感じることが多々あった。そんな全てに劣等感を感じる生活の中、高校1年の夏に『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』に出会った。最初は、ただその世界観に惹き込まれていた。第7話からTVアニメをリアルタイム放送で食い入るように見ていたのを、今でもはっきりと覚えている。TVアニメ全話放送終了後2周、3周とTVアニメを見返す中で、私は「自分の人生の舞台の主役は自分自身」ということに気づいた。たとえ何に劣等感を感じようと、それを含めて自分の舞台の演目や演出であり、最後まで演じ切ることが主役としての役目だ。結末も自分次第で決まるのだから、今はただ進むだけだ。そう思うようになった私は、逆境に何度も立ち向かい、辛い高校時代を乗り越えることができた。この経験や考え方は、大学に進学した今でも私の心に根付いている。これが私の、「スタァライトで変える人生観」だ。

おわりに

 ここまで、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を題材とし、舞台を軸とした人生論を語ってきた。総括として、私がこの文章の読者に伝えたいことを書いていく。それは、人生は自分次第だ、ということだ。ありふれた言葉かもしれないが、結局これが一番大事なことになる。例えば、目の前に誰かの決めたレールが敷かれているとする。人によっては、そのレールを進むことも厭わないのかもしれない。しかし、誰が何を決めようと最後にやるかやらないかを決めるのは自分だ。そこで決められた運命に抗うか、従うか。どちらを選ぶのが正しいかなんていうのは誰にもわからない。しかし、自身で選ぶというのが必要だということは胸に置いていて欲しい。

 それでは、あなたが進む舞台の幸を願い、幕を下ろすこととする。

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