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星見純那と『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』

弥栄
https://twitter.com/gyozaumaumauma


1.はじめに

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト(以下、劇場版)』では、“舞台少女の死”と “死からの再生産”がテーマに描かれている。劇中には、印象的な物品やシーンが数多出てくるが、それらは、この物語が芸の道に生きる役者のためだけでなく、今現実を生きている我々のための物語でもあるということを示唆するのに用いられている。

 筆者は星見純那が推しであり、星見純那の魂のキラめきに目を灼かれた観客の1人である。繰り返し『劇場版』を見る中で、「あのセリフって、どういう意味なんだ?」とか、「あのシーンって、つまりどういうことだったんだっけ?」と疑問を抱くようになり、整理できていない事柄が出始めた。

 そこでこの評論では、『劇場版』において、特に筆者が「これってつまりどういうことなんだよ」と感じた以下4項目について、順に述べていきたい。

  • “舞台少女”星見純那はいつ死んだか

  • 星見純那の武器とは何だったのか

  • 星見純那は『何に』けりをつけたのか

  • 星見純那にとってwi(l)d-screen baroqueとは何だったのか            

2.“ 舞台少女”星見純那はいつ死んだか

 『劇場版』は、“死んでしまった舞台少女”が生き返る物語であるから、死んでいなければ物語は始まらない。

 “舞台少女”はいつ死ぬのか。それは次の立つべき舞台に立たず、降りる時である。大場ななのセリフ(*1)からして、“舞台少女”は舞台との関わりを断つと死んでいるとみなされる。また、西條クロディーヌは天堂真矢と「すすめ!! あにまるウォーズ」に興じるシーンで「舞台が私の生きる道。とっくに決めたことだと思ってたのに、向かえてなかった、次の舞台に。あんたとのレヴューに満足して、朽ちて死んでいくところだった」と述べている。倦んで現状をよしとし、満足してしまうことも “死”につながるようだ。要するに、常にアップデートし続けながら舞台に立ち続けることで生きていられるのが “舞台少女”なのである。

 では、“舞台少女”星見純那はいつ死んだのか考えてみたい。映画序盤で、櫻木先生との進路面談のシーンがあるが、そこで大学進学したい旨を伝えている。櫻木先生との会話を引用する。

星見「今はもっと、勉強がしたいんです。舞台のことを客観的に、深く。
   生まれながらにして、偉大なものもいれば」
櫻木「努力して、偉大になるものもいる」
星見「ウィリアム・シェイクスピア」

 本人の言葉を額面通りに捉えれば、聖翔での学業を終えた次は、舞台を「客観的に」学びたい意志を表明している。つまり聖翔での学びは「客観的」ではなかった、と考えている。客観的の対義語は「主観的」であり、主観的である様とは「その人の性質に判断などが依存している様」である。依存というとあまり聞こえは良くないが、まさにその物事の渦中にいるとも言い表せないだろうか。『レヴュースタァライト』自体が舞台少女たちの内面を曝け出し、狭い関係性の中で内的なやりとりをする物語であるし、演じるというのはまさに己の内面と役柄とを接続する極めて主観的な行為と取れる。

 星見純那の進学希望先は上から順に

「草稲田大学文学部」
「日正大学藝術学部演劇学科」
「多摩芸術大学演劇学部」

である。上から、早稲田大学文学部、日本大学芸術学部、多摩美術大学演劇舞踊デザイン学科がモデルになっていると考えられる。早稲田の演劇サークルは有名であり、出身俳優も数多い。他の進学希望先も、「学問として」演劇を学ぶのにふさわしい環境である。だが、どれも舞台から距離を取る選択であることには変わりない。聖翔で舞台に生きてきた人間は舞台に上がれる場所へ行くべきであり、今さら大学へ行くべきと思えない。

 渦中にいて主観的に関わってきた物事に対して客観的な視点を持ちたいと思うのは、その物事に対して諦めが生じ距離を置きたい時か、またはキャリアに迷いが生じている時であろう。その道に進みたかったけれども諦めた人間が、学問として学びを得たり、課外活動を通して専門的に学びたかった事柄に触れようとするのは、よくあることではないだろうか(*2)。

 では星見純那の決意が揺らぎ、諦めが生じたのは、どんな時だったのだろうか。

 進路面談の前に挟まれた『遙かなるエルドラド』を授業で演じるシーンでは、星見純那はイスパニアを出ようとするサルバトーレを演じている。サルバトーレのセリフは以下の通りである。

「私は行かねばならないんだ、あの、大海原へ!」
「だから、止めないでくれ!」

 一方で愛城華恋演じる、サルバトーレを引き止めようとするアレハンドロのセリフは以下の通りである。

「ならば、僕は何を目指せばいい? 君を追って、船に乗った。
 僕はこれから、何を目指せば……!」
「なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ行ってしまうのだ、友よ」

 『遙かなるエルドラド』のイスパニアとは、明らかに「舞台」のことを指しており、サルバトーレとアレハンドロは “舞台少女”星見純那と、死にゆく舞台少女を惜しむ大場ななのことである(そして、神楽ひかりと愛城華恋でもある)。このシーンの時点では、すでに星見純那の視線は舞台の外に向いていることは明らかなので、さらに時間を遡ってみる。

 『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」(以下、ロンド・ロンド・ロンド)』の終盤で、第100回聖翔祭が行われ、『戯曲 スタァライト(以下、スタァライト)』が無事上演された様子が描かれている。99期生の中で素晴らしい出来だった、大変な盛り上がりであった認識が共有されていることは、大決起集会での眞井霧子の「第100回、あのスタァライトを超えられるのかほんと怖い!」というセリフからも推察できる。

 ここで付け加えておきたいのが、星見純那は聖翔への進学を両親に反対されていたが、押し切って舞台の道を究めんとするキャラクターだということである(*3)。おそらく、在学中も両親からの支持が得られていないだろうということは、長期休暇で実家に帰ろうとしない(*4)ことや、TVシリーズ内のレヴュー曲(*5)からも読み取れる。

 親に反対されている、または、自分の決意を応援されていない状態というのは、(どんなに意志が強くても)謂れなき罰を受けているようでかなりしんどいものである。周りの同級生たちが親に応援されて大手を振って学園にやってきた子ばかりであれば、輪をかけて辛いだろう。応援されていない状況を共有できる人間がいないのは、ひたすら孤独である。

 また、好物が「母のご飯」(*6)であるということから、親との仲は悪くないことが推察できる。だからこそ、親に夢を支持されていない状態が長く続くことは、少なくとも星見自身に罪悪感をもたらすことは想像に難くない。夢は自分だけのもので誰かに遠慮するものではないのは明白だが、親を困らせてまで突き詰めるものではない、と、星見純那がよほど図太いキャラクターでなければ考えるかもしれない。例えば、親の望む、喜ぶような道(=大学進学)を視野に入れるということも、ありうるかもしれない。

 99期生の中で素晴らしい出来だったと認識の共有があると思われる第100回の聖翔祭『スタァライト』で、もし「やり切った」と実感を得てしまった場合、そして両親への罪悪感を感じていた場合、安パイである「一旦両親を安心させる道(=大学進学)」をとる可能性も考えられなくもない。つまり、「あの」第100回聖翔祭で『スタァライト』をやり切ったと思った瞬間、“舞台少女”星見純那は一度死んだのである。


*1 「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちは?」

*2 これに当てはまらない人、学問として好きなことを突き詰めたいという気持ち、行為は、もちろん素晴らしくて素敵なことだ。ちなみに筆者もこのタイプで、ものを作るのが好きだったので、美大に進むことも考えたが、色々ありやめた。そして、一般大学で美術史を齧ったり、インカレサークルに入って絵の展示をしてた。

*3 https://revuestarlight.com/animation/character/?id=junna ・「キャラクター紹介」・「『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』公式HP」・最終閲覧日: 2022年3月23日

*4 TVシリーズ第7 話「大場なな」より。

*5 レヴュー曲『The Star Knows』より。

*6 http://gs.dengeki.com/news/103681/ ・「『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』スタァ・オーディションに向けた、舞台少女のコメント第3弾をお届け!」・「電撃G's magagine. com」・最終更新日: 2017年7月20日(木) ・最終閲覧日:2022年3月20日(日)

3.星見純那の「武器」とは何だったのか

 『ペン: 力: 刀』には、「これが私の折れないペンよ 時に剣より刀よりも強く」という歌詞がある。では、星見純那の「折れないペン」、つまり「武器」とは何だったのか。

 言わずもがな、星見純那の武器は弓(翡翠弓)である。レヴューで使用する武器は、その舞台少女の舞台でのあり方、いわばその人の魂の形だ。だからキラめきの表現として宝石がついているのだと考えられる。

 接近戦を要求される武器を使うキャラクターが多い中で、星見純那は飛び道具を使用して戦うが、「狩りのレヴュー」の途中からは大場ななの刀を使って戦う。宝石を砕かれてしまった星見純那の弓ではなく、切腹用に渡された大場ななの刀の宝石を砕いて、自らの緑の宝石で「上書き」し、己の武器とする。大場ななの刀を用いてレヴューが続行されたが、緑の宝石でキラめきが上書きされた時点で、あの刀は大場ななの刀ではなく星見純那の刀になった。ここに、星見純那の強さが如実に表れていると考える。

 狩りのレヴューで勝利するには、いつもの弓では一歩届かない。遠くから相手を見つめ、地の利を利用し上手に「小賢しく立ち回る」方法(*7)では、大場ななの言うとおり「あの舞台には届かない」。ここでいう「あの舞台」とは、大場ななが再演を繰り返してきた第99回聖翔祭の『スタァライト』とも考えられるし、 “舞台少女”星見純那が死ぬきっかけになったと思われる第100回聖翔祭での『スタァライト』とも考えられるだろう。いずれにせよ、いつもの舞台でのあり方、弓で戦う方法では勝てないのだということが、弓の宝石の破壊描写から読み取れる。

 狩りのレヴューの中で、「言葉が私の力だ」というセリフが出てくる。星見純那はさまざまな偉人の名言を引用して大場ななに立ち向かうが、前半の弓を使ったレヴューでは、偉人たちの名言を引用した星見の言葉は響かないと大場ななに一蹴され、引き摺り下ろされる羽目になる。

 偉人たちの残した言葉とは、知の積み重ねの結果と言える。それを誦じ、大切にする星見純那は、知の力や言葉の力を信じ、それに励まされてきた。星見純那の強みとは、偉人たちの言葉の力を自らの糧にできるところだ。「借りた台詞こなすだけはお前の星は屑星だ」(*8)と煽られようと、言葉が星見純那の背中を押してくれることは変わりのない事実なのだ。

 「他人の言葉じゃだめ」というセリフは、知の積み重ねに裏打ちされた偉人たちの名言に力をもらい、努力してきた今までの星見純那を否定するものでは決してない。今まではその名言たちを自らの励ましとするところで終わっていたのを、1つ先に進まないといけないことに気づいたからこそ出たセリフだ。言葉たちを咀嚼し、自らの血肉にして、自分の言葉で表現する力がなければ、次の舞台へは向かえないのだ。

 「あなた今まで何 見てたの?」は、偉人の言葉をただなぞっているだけで自分の言葉(キラめき)がない、と嘆く大場ななへの強烈なカウンターである。今も昔もこれからも、偉人の言葉たちは星見純那の力の源泉になり続けるのに、それがわからないなんて “あなたは今まで、私の何を見ていたの” と言っているのだ。

 星見純那の武器とは、人類史が積み上げてきた知に裏打ちされた偉人たちの言葉に他ならない。そして、それらを自らの糧にし出力することで推進力を得られる星見純那自身の知性でもあるのだ。


*7 TVシリーズ第2話での星見純那と愛城華恋のレヴュー(渇望のレヴュー)において、星見純那はなりふり構っていない戦い方を見せている。愛城華恋の乱入があったせいとはいえ、接近戦をする他の舞台少女の闘い方とはやや色が異なる。『劇場版』においても、狩りのレヴュー序盤は、軽業師が使うような輪っかを使うなどして舞台装置を活かしてレヴューを行っている。

*8 『ペン:力:刀』より。

4.星見純那は「何に」けりをつけたのか

 7人分の死体が登場したシーンで、大場ななの「私も、自分の役に戻ろう。あの子への執着、彼女への、けりを」というセリフを受け、星見純那は自分の死体を見ながら「けりをつけるって、何に?」と呟く。また、狩りのレヴューに向かう途中で「けりをつけるって、何を? 誰と?」というセリフもある。このことから、星見純那はけりをつける対象がわかっていないように思われる。

 けりを付ける相手とは誰のことだろうか。引用したセリフの通り、大場ななは星見純那とけりをつけたがっているのだが、星見純那はそれを認識できていない。とすると、星見純那がけりをつけるべき相手は大場なな以外の誰かだ。

 大場ななでないとすれば、けりをつける相手は「星見純那」自身以外にいない。TVシリーズから星見純那は自分と戦い続けている(*9)。狩りのレヴューを通して、大場ななではなく自分とレヴューしているのである。その自分とは、親の反対を気にして親を喜ばせるための進路(大学進学)を取るのか、舞台の上に居続けるのか、悩んでいる星見純那自身である。

 第2章で星見純那は第100回の聖翔祭のスタァライトを演じ終えた時、死んだと述べた。しかし実は、まだ「死にかけ」だったのではないだろうか。新国立第一歌劇団に向かう列車の中で星見純那が見つめるメモは「家族から反対されなかったか、反対された時どのように対処したか」など、露崎まひるが洗濯室で西條クロディーヌに見せたメモの内容とは全く異なる。そこか
ら読み取れるのは、星見純那は完全に舞台に背中を向けておらず、舞台に向き合おうとして足掻いている最中だということだ。

 大場ななにしてみれば、舞台から降りる可能性のある舞台少女は度し難い存在だから、「皆殺しのレヴュー」で天堂真矢以外を “殺した”のだろうし(*10)、狩りのレヴューで「死にかけ」の星見純那にとどめを刺す必要があった。大場ななにとって、「死にかけ」というのは「死んでいる」のと変わりない。

 一方で、前向きな気持ちではないものの、星見純那は舞台に立つか立たないかという “生きるか死ぬか”に向き合おうとしている。だから、大場ななに「彼女への、けりを」と言われても、星見純那にとってけりをつける相手は自分自身以外にいないのだ。

 先に述べているように、星見純那は何に(何を、誰と)けりをつけるべきかわかっていない。それは自己認識が甘いせいではなく、努力を重ねてきた人間であるからこそ、自分自身をけりをつける(切り捨てる)べきものとして考えていないからではないのか。要するに、過去の自分と今の自分の連続性を認識しており、過去の迷いや葛藤は今の自分を形作るものであって、今
の自分の選択は未来の自分に影響するのだから、決別するものではないと考えているのではないだろうか。

 だから、引導を渡すために大場ななが用意した舞台を、星見純那は「あなたに与えられた役なんかいらない。私の道は、私が切り開く」と啖呵を切って切り捨てることができる。

 『ペン:力:刀』には「数多の星が道標となれば 私は舞台へ 流れ着く」とある。一見、自らの意思を明確に持って舞台へ向かうのではない、と消極的な内容にも取れてしまう。だがこの歌詞は同時に、どこにいようと星の導きによって立つべき舞台へと導かれる運命にあるのだ、という意味にも解釈できる。星見純那の人生が舞台に向かって伸びているのは、疑いようのない事実だ。星見の名の通り、星が見えているのは己を照らしているからである。その星は、必ず星見純那を舞台へ向かわせる星である。

 そして、星見純那の人生には、星見純那以外に主役は存在しないはずだ。なのに、逡巡しているうちに両親からの期待や、期待に沿えないことへの罪悪感が、彼女の人生の中で大きくなってしまっていた。人生の決定に他者の意見を取り入れるとしても、納得して主体的に選択できないうちは、人生の主役はその人のものではない。

 人生における「主役の座」とは、すなわち決定権だ。大場ななに「お前は何者だ」と問われた時に、やっと主役の座を取り戻すことができた。ここで、大場ななの用意した “舞台少女”星見純那を殺すための舞台は、星見純那によって自分自身の舞台に書き換えられた。

 また、狩りのレヴューにおいて、「私の “邪魔”をするのなら、あなたを捕らえるわ」と大場ななに宣言している。大場ななの干渉を「邪魔」と認識していなければ出てこないセリフである。邪魔というのは、たとえば本人が何かしていることに対して、余計なアドバイスをされるとか、茶々を入れられることだ。アドバイスした側が良かれと思っていても、された側が「邪魔」と認識していれば、それは「邪魔」になるのである。

 以上のことから、星見純那は“舞台少女”として生きるか死ぬか、次の道を決めかねているが、その判断について他者にあれこれ口を挟まれる筋合いはないと捉えていると考えられる。人生の決定権は星見純那自身にしかなく、迷いを振り切るのも本人にしかできないことだ。だから、けりを付ける相手は、自分自身しかいないのである。


*9 レヴュー曲『The Star Knows』より。

*10 天堂真矢は大場ななに対し、「舞台と観客が望むなら、私はもう、舞台の上」と返しているので、皆殺しのレヴューが“舞台” であると認識できていることがわかる。

5.星見純那にとってwi(l)d-screen baroqueとは何だったのか

 『劇場版』でしばしば出てくる「wi(l)d-screen baroque」とは、キリンのセリフによれば「彼女たちが作り上げた『戯曲 スタァライト』の続き」、「あなたたちが演じる終わりの続き。わがままで欲張りな観客が望む、新しい舞台」である。また、『ロンド・ロンド・ロンド』の最後では、『戯曲 スタァライト』について、「あなたたちは終わりの物語の続きを始めたのだ」とキリンが言及している。

 「wi(l)d-screen baroque」がSFのジャンルで使われる用語「ワイド・スクリーン・バロック」(*11)のもじりであることは明白だろう。また、wildには「野生の、自然のまま」の意味のほかに「激しい、手に負えない、狂気の、夢中な」という意味もある(*12)。本来は終わるはずだった各々の物語にまとめてけりを付けるためには、他人の人生、時間、空間、感情を飛び越えて全てをまとめあげる必要がある。そんなめちゃくちゃをやってのけるために、舞台装置には「ワイド・スクリーン・バロック」の名前を借りた「wi(l)d-screen baroque」が必要だ。だが、死の淵に立つ “舞台少女”を再生産させるのにはただの「ワイド・スクリーン・バロック」では力不足だ。「ワイルド」を足すことで荒唐無稽な舞台の仕掛けとなる。

 では、wi(l)d-screen baroqueは、星見純那に対してどう作用したのか。狩りのレヴューだけではだめだったのだろうか。

 第4 章で述べたように、星見純那は「死にかけ」である。wi(l)d-screen baroque は、星見純那に必要だったというよりも、“舞台少女”星見純那と “舞台少女”大場ななの関係性の終幕と再生産に必要だったのだと筆者は考察する。

 星見純那の舞台(人生)は星見純那だけのものだと本人も思っており、自分の舞台を他者に指図されることに対して、狩りのレヴューで否を突きつけている。

 だが、残念ながら、望むと望まざるとに関わらず、他者や環境の影響は人生からは絶対に排除できない。人生における自分の判断が、本当に自分だけの考えなのかどうかは、誰にもわからない。

 “舞台少女”星見純那の物語と“舞台少女”大場ななの物語は――人間関係というのは往々にしてそうだが――互いに複雑に絡み合っていて、完全に独立する部分とそうでない部分がグラデーションのように存在する。

 「理解者がいない」孤独を抱える星見純那と、「舞台を一緒に作る仲間がいなかった」孤独を抱える大場ななは友人となった。星見純那が次に進むには、孤独な者同士として結びついていた友情に一度幕を下ろし、舞台でつながり合う対等な関係を再構築しなければならず、そのためにwi(l)d-screen baroqueが必要だったのだ。他人を自分の望むように操作したり、願望を押し付ける関係は、そこに友情が成り立っていたとしても、真に対等な人間関係とは言い難い。

 狩りのレヴューは、大場ななと星見純那の2人だけのレヴューだ。しかし、wi(l)d-screen baroqueは2人だけの物語にとどまらず、他の舞台少女たちのレヴューも巻き込んで終幕へ向かっていく。狩りのレヴューだけでは、ただ友情に決別して「関係の再構築」で終わってしまうだけかもしれないものを、wi(l)d-screen baroqueが持つ、時空や人生を飛び越えてむちゃくちゃにまとめ上げる引力で物語の終わりへ、そして星見純那のその先の人生へ引っ張っていくことができるのだ。

 大場ななは何度も再演を繰り返してきた。それは、星見自身の努力を否定しうるものであるにもかかわらず、再演についての告解を聞き、星見純那は大場ななを赦した。憧れの舞台を求めて、ループを繰り返すという想像を絶する行為の吐露に耐えうるのは、同じくらい深い孤独を抱える相手しかいないだろう。

 それぞれに強烈な孤独を抱えて惹きあっていたもの同士の関係性に風穴を開けるには、物語をしたためた紙を糸で綴じるようにぶち抜くしかない。その糸はwi(l)d-screen baroqueでしかあり得ない。「狩りのレヴュー」や「皆殺しのレヴュー」や他のレヴューは綴じられるべき物語であって、wi(l)d-screen baroqueこそが物語をまとめあげられるのだと考える。wi(l)d-screen baroqueとは、物語の綴じ糸なのだ。


*11 ブライアン・オールディスが著書『十億年の宴』でチャールズ・L ・ハーネスの『パラドックス・メン』について言及した際に使用した言葉。以下の通り引用する。

「それは時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄なこの小説は、模倣者の大軍がとうてい模倣できないほど手ごわい代物であることを実証した。この長編のイギリス版に寄せた序文で、私はそれを《ワイド・スクリーン・バロック》と呼んだ」

(浅倉 久志 他訳)

めちゃくちゃで荒唐無稽な話なんだな、ということが伝わると思う。

*12 https://eow.alc.co.jp/search?q=wild ・「wild とは」・「英辞郎on the WEB」・最終閲覧日: 2022年5月22日

6.さいごに

 この評論では、「星見純那とwi(l)d-screen baroque」について4項目に分けて述べた。

 1つ目の「“舞台少女”星見純那はいつ死んだか」については、第100回聖翔祭「スタァライト」をやり切ったと感じた時に、死んだと結論づけた。2つ目の「星見純那の武器とは何だったのか」については、「偉人の言葉と、偉人の言葉を自分の糧にして表現できるその知性」であると結論づけた。3つ目の「星見純那は『何に』けりをつけたのか」については、自分自身にけりをつけたと結論づけた。4つ目の「星見純那にとってwi(l)d-screen baroqueとは何だったのか」については、物語の綴じ糸の役割があると結論づけた。

 星見純那とwi(l)d-screen baroque について真面目に考察をするうち、星見純那のかなり頑固で、真面目で気難しい人間性の片鱗に触れることができた気がする。星見純那は推しなので、星見純那が「舞台」を諦めるわけないだろうという思いが前提にあってこの評論を書いているため、正直、かなり偏った解釈になっていると思われる。

 劇場版を見て整理できなかったことを、スタァライトファンの方々には当たり前、分かり切った事柄を並べ立てて整理、提示してしまっている感じはあるけれども、整理できたのでよしとしたい。同じような疑問を感じていた方の助けになれば幸いである。

 さて、私は星見純那推しであるが、それはなぜかというと、彼女が努力の人であり、逆境に立つキャラクターだからである。愛城華恋や他のキャラクターとは違って、子の夢に親が前向きになることが難しい場合もある。星見純那は幸い入学できたが、普通、親に反対されたら、そこで道は途切れてしまうこともある。それは当人にはどうしようもないことだ。

 星見純那は逆境に心を焼かれながら歩いている。世界を灰にするほどの情熱が迸る魂の眩しさから目が離せないのだ。星見純那は逆境に立つ人間のロールモデルには残念ながらならないが、でも、勇気や道標になってくれる。それでよいのだ。「理解者がいない」と感じる人生を歩く頭上に光る星になってくれるだけでだいぶ救われる。

 星見純那からもらったトマトを齧って、新しい舞台、登るべき頂を見つけて、進まねばならない。舞台から降りることはできない。

著者コメント(2022/10/10)

 『劇場版』を見る時、もう何度も映画館で見ているのに、「狩りのレヴュー」での「君は輝いてたよ、星見純那」「なんで過去形なのよ……!」「あーあ。泣いちゃった」のやりとりで毎回律儀に怒り散らかしていたことを思い出します。星見純那のキラめきが過去形にされたことがとても悔しくて、居た堪れなくて辛かったです。
 今でも見返すと新鮮な気持ちで憤慨してしまいます。ですので、『劇場版』における星見純那ってそんなに輝いてないかよ!? いつも私の目には眩しく輝いてるわ!! 確認するわ!! という気持ちで筆を取らせていただきました。
 星見純那の知力で届かない星に手を伸ばそうとする、そして、星見純那の舞台の主役は星見純那だ、と言い切れるその格好よさ、愚直さ、頑固さにとてつもなく惹かれてこんなに狂うことができたんだな、と改めて自分の「好き」の源泉に向き合うことができました。
 この場を与えてくださった主催様に感謝申し上げます。

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