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晩夏のパントマイム2

彼の名前は萩尾周という事だった。何だか作家さんみたいな素敵な響きの名前だ。少なくとも私はそう感じた。

「私の名前は倉橋裕美子。月並みな名前だけれども。」

「うちの姉と同じ名前だ。裕美子のゆは衣篇に谷ですか?」

「そうよ。周くんにはお姉さんが居たのね、だから私みたいなおばさんとも気軽にお話を続けられるわけね。通りで、女性慣れしているって訳ね。」

私は何となくこの青年にとても良い印象を持ったので、思い切って名刺を差し出した。

「良かったら連絡してみて。」

青年はそれを受け取ると、さっと踵を返して行ってしまった。

私は実質、従業員一人の小さなデザイン事務所を経営していた。無職というのもなんとなく生きていくのに不便な世の中だったし。

でも滅多に使わない名刺と、確定申告だけは、「事務所なんて余計なことしなければ良かった」と思わせる、後悔の先立たない要件だった。

夏はもういっ時程の猛威を失って、朝晩はすっかり涼しくなった。気づけばもう9月。私は一人で家に篭っているのも良くないという友人のすすめで、とあるNPOでボランティアを始めた。と言っても、ニュースレターを封筒に入れていくだけの単純作業なんだけれど。

HIV陽性者のQOL、或いはHIVから身を守る術を啓蒙するNPOだったので、ゲイと思しき男性が多数見受けられた。

ある日、偶然というには余りにも出来過ぎの再会があった。なんと、あの美術館のカフェで働いていた青年が、発送の仕事の場に現れたのだ。私のようなおばさんの事など憶えている訳もないだろうと、半ば自嘲気味に考えてはいたが、一方で少しの期待も否定しきれずにいた。

青年と目が合った。

私は初恋に心を焦がす少女のような気持ちで、頬に紅をさしたその顔で口角を少し上げてからお辞儀をした。

青年はというと、彼の方も戸惑いを隠し切れず、被っていたキャップを取って深々と挨拶をした。

「あの、萩尾です。カフェでバイトしていた。そう、名刺も頂いた。倉橋さんですよね?憶えていらっしゃいますか?」

「もちろん。周くん、久しぶりね。」

発送の取りまとめをしている女性が、びっくりして言った。

「あら、お知り合い?ドラマチックね!そうきたなら作業もはかどるわね。と言ってもあくまでマイペースでやって頂いて構わないんだけどね。あら、そうそう飲み物。お二人、何かお飲みになるでしょう?」

二人はニコリと笑いながら「アイスティーを二つ」と声を合わせて言った。

続く