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宇宙さんはロマンティックがお好き

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。
 どんな話の流れだったろうか、その女は自分を口説いてみせろと言い出した。うまいこと落とせたら一晩付き合ってもいいという。
 そうだなあ、とりあえず胸がでかいと褒めてみる。女は「まあ!」雑すぎると言って回数制限を付けられた。もし口説けなかったら?と聞けば、地球を消滅させる気らしい。
「私、最近ちょっと機嫌が悪いの。もう地球なんか太陽に吞み込まれちゃえばいいのに、なんて」そう言ってロングカクテルに口を付ける女はなかなかの美人だ。
 はは、そりゃえらいことになったな。スコッチに手を伸ばすとグラスはもう空だ。控えていたバーテンに指をひとつ立ててもう一杯を頼む。

 連日の通信障害と社会インフラの混乱で、この街の人影はまばらだ。ベッドタウンのほうでは不安定な電力供給もあって、結構な混乱を引き起こしているという。雑音ばかりのラジオは、時折思い出したようにそんな話を伝えている。
 そんな日でなくとも閑古鳥が鳴く馴染みのバーは、いつも通り営業を続けていた。雑居ビルのエレベーターも止まっていたから、十階まで上がるのに難儀する。何もこんな日まで店を開けなくてもとバーテンの親父に呆れたが、あんたみたいなやつが来るからと返された。
 いつも通りの寂れた店内を見渡すと、もうひとり、なんと先客がいる。女だ。自分よりも少し若いだろうか。軽く挨拶だけして、ひとつ離れたカウンターから様子を伺った。
 ロンググラスに口をつける彼女は、鼻筋の通った綺麗な顔に薄い化粧が映える。艶やかなセミロングの髪が、その美しさを証明していた。あと、とにかく胸がでかい。これはいいことだ。
 男はおもむろにポケットからコインを出した。親指で弾かれたそれは、宙を舞ってパチンと彼の手の甲に収まる。重なった掌から彼はコインをゆっくりと覗き込んだ。まあそんなことをしていれば、女のほうだって気になって仕方ない。
「何をしているの?」
「表だと思う?裏だと思う?」
「さあ、どっちかしら」
「いい女がいるときは、これで占ってから声を掛けることにしてる」
「あら、言うじゃない」
「こいつは魔法のコインでね、どんな時でも俺にツキを回してくれるんだ。隣、いいかい?」

 店では未だにブラウン管が現役だ。VHSで古い映画を流している。静かなジャズが掛かる店内にあってその音声は切られていたが、繰り返し同じものを流しているので、だいたいの話は憶えてしまった。女は隣の席から目を細めるようにして眺めている。
「ああ、これ。懐かしいわ。この子がいずれ太陽系になるのよね」
「随分古い映画を知っているじゃないか」
 男に映画の趣味はなかったが、女の懐古趣味につい嬉しくなってしまう。女も女で上機嫌で、喜んでそれに応えていく。
「ほんの四十六億年前の話よ。ついこの間じゃない」
「はは、そんな歳には見えないがね」
 藪蛇だったろうか。面白いことを言う女に、男はうっかりそんな話題を口にしてしまった。
「あら、私のこと、いくつに見える?」
 ほらきた。面倒な話題を踏んでしまったと軽く後悔する。男は知っていた。この話題で幸せになった奴はいない。だたうまく乗り切る、それが定石だ。男は直感的な年齢から八つ少なく答えてみせた。
「残念、はずれ。お上手だけど、ちょっと言い過ぎよ」
「そうか?十代ってことはないだろう?」何を言われても、ここは白を切り通す。
「そうね、10⁹代ってとこかしら」
 ふんふんと鼻をならしてみせる女は、少し機嫌がいい。男を覗き込むとピースサインを向けてこう言った。
「若く見られるってうれしいけどね、女性に年齢の話をするのはNGよ。はい、チャンスは残り二回です」
 ほら、女はやっぱり理不尽だ。男は少しだけそんなことを思う。

 バーに備え付けられた公衆電話が鳴ったのは、それから直ぐのことだ。
 面倒くさそうにバーテンが出ると、男を手招きして見せる。どうやらお呼び出しらしい、なんだこんなところまで。
『どうも、国家安全保障局です』
 男の冗談に付き合う趣味はない。乱暴に受話器を置くと、間髪置かずにまたけたたましくベルが鳴る。バーテンが厭そうな顔でこちらを見るので、仕方なく今一度電話に出てやった。
「なんの用だ」
『その人、宇宙なんです。頼みますよ、地球の未来が掛かってるんです。なんとか機嫌を取ってください』
 電話口の男はそう懇請した。何を言ってるんだ?宇宙?振り返ってみれば、手持ち無沙汰になった女が無口なバーテンに絡み始めている。薄めのボストンクーラーが回ってきて、多少気が大きくなっているようだ。
『昨今の天変地異はご存じですよね?宇宙は最近、ご機嫌斜めなんです。ついさっきも酷い放射線バーストが起きて、各国の衛星が軒並みダウンしました。宇宙は胸が大きいのを気にしてますから、その話題は避けてください。ああ見えてロマンチストなんです』
 宵の口もこれからだというのに、もうすでに頭が痛い。
『あと、年齢は10⁹って言いましたけど、10¹⁰のほうが圧倒的に近いです。ちょっと鯖読んでるあたりもご配慮いただければ』
 男が静かに受話器を置くと、電話は小さくチンと鳴って仕事を終えた。さて、これは。男は顎の髭を撫でながら、少し考える素振りをして女の元へ戻っていく。

「やあ、すまない」
「だあれ?女の人?」
 女は小さなチョコレートを次々に口へ放り込みながら男を待っていた。女の絡みがよほど辛かったのだろう。バーテンはおつまみのおかわりを出して奥へ引っ込んでいる。
「残念ながら男さ。君を口説いてるからね、嫉妬しているらしい」
「やだ、なにそれ」
「君のことを宇宙だって言うんだ。確かに君はどんな星空よりも価値がある」
「あら、お上手ね。でも、私を本気で口説いてくれる男なんてそういないわ」
「そりゃそうだ、君が眩しくて皆目を伏せてしまうのさ。女が宇宙だというなら、男はそれを包むだけのハートが必要だ」
「言うじゃない。貴方にはそれがあるっていうの?」
 どう思う?男が笑うと、彼女もつられるように微笑んで、その細い指先で空になったグラスの淵をなぞってみせた。「OK、奢らせてくれ」

「おさけの一杯で、私をどうにかしようったって甘いわよ」
 運ばれてきたそれは六杯目だ。女はだいぶ酔っている。「君と釣り合うカクテルなんてそう無いさ」もたれ掛かる女を肩で支えながら、男は優しくそう返す。
「でね、聞いてる?」
「ああ、聞いてるさ」
 女の話は黙って聞くに限る。人類有史以来、これは男の鉄則だ。相手が悪魔だろうと宇宙だろうと、それは変わらない。
「なんていうかな、結局宇宙って寂しいのよ。星とか浮かべてみてもわあ綺麗だなあって、最初だけ。すぐに弾けて消えてしまうの」
 おそらくこの世界で誰も理解できない愚痴を吐く彼女。その瞳にはじわじわと涙が溜まっていた。これを世間では泣き上戸という。男は黙ってスコッチに口を付けた。
「星に生き物が湧いてきたって、何も変わらなかった。ちょっとお話できたらいいなって、黒い板切れを落としてみたのだけど。みんなで楽しそうにしてるだけで、結局私はひとりぼっち」
 知恵のモノリスをもたらした張本人を目の前に、男はおもむろに窓の外へ視線を向けた。ビルで切り取られた四角い夜空には、無数の隕石が火球となって降り注いでいる。やれやれ、これはまいったな。男は今、地球の全てを託されていた。
「私のこと好きだと言ってくれた人もたくさんいたわ。でも、望遠鏡で覗くばかりで誰も私のことをわかってくれないの」
 OK、それは天文学者だ。ぐずぐずと鼻を鳴らす女の背中を撫で、そのまま軽く腰へ手を回した。男は小さく息を吐くと、その語りを始める。
「いいかい?君はひとりじゃない。星も俺もみんな君の中にいる。君はそれを知らずにいるだけさ。それともうひとつ、俺はどうやったって君の全てを知ることはできない」
 女は寄せた肩の先にある男の顔を見上げると、「どうして?」小さな唇を開いてそう尋ねた。男は少しだけ口角を上げて、こう答える。

「いい女には、何か秘密があるものさ」

「惜しいわ。チャンスは残り一回です」女は男の首筋に自らの頭を寄せてみせた。耳と頬に伝わる彼の温もりが心地良い。男はもう一口だけスコッチに口を付けると、小さく鼻を鳴らす。「なかなか手厳しいことで」そう言って彼女の腰をもう少しだけ寄せて抱いた。
「私だってお安くないのよ」
「言うね、泣き止んだくせに」

 空気を読めない公衆電話がじゃんじゃんと鳴り出すと、無粋なおせっかいに男は眉を寄せた。察したバーテンが電話線を引っこ抜くと、「さあ、最後の一回はどうするの?」いたずらっぽく女が男の耳元で細い声を上げる。
 男は上げた口角から白い歯を覗かせると「惚れ過ぎて腰を抜かすなよ?」ポケットからもったいぶるようにして取り出したコインを、ゆっくりと女の視線の前へ差し出した。そして―――

 ブラウン管が掠れたエンドロールを流し始めると、男は女と一緒に店を出た。火照った顔を上げて空を仰げば、ビルの隙間から満天の星空が覗いている。男がそっと腕で差し出すと、女は少し恥ずかしそうに自らを絡めてみせた。ふたつの影は寄ってひとつ、街の向こうへ消えていく。

 地球時間で数年後、この世界に新しい宇宙が生まれるのだが、それはまた別のお話。

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