真に強い者は、「なぜやるのか」を言語化出来る者である
今回のテーマでいえば「真に強い者は、”なぜやるのか”」を言語化出来る者である」
ということ。
「やれ」って言われたことをやるのは簡単。
「やりたい」と思ったことをやるのも簡単。
だが、「なぜやるのか」がなければ続かないのも、また事実なのだ。
「Why」、ここが足らない。
「どこでやる」「いつやる」「何をやる」
そういった方法論が議論されることはあるが
真になるところが議論されることはあまりないだろう。
私自身、Whyすなわち「なぜやるのか」
これが自分が納得できる言語化ができないので
今は一旦対外的な活動を休止している次第である。
一人一人が立ち返るべき「なぜやるのか」
ある先輩の方が、
「本当は一人一人が”なぜやるのか”立ち返って向かい合う必要がある」
という話をされてた。
私もその通りだと思ってね。
「なぜやるのか」を含めたものを通称で5W1Hというのだが
これは会社の仕事ではよく言われることだ。
だけども会社の案件に対していちいち考えることは皆無だと考えてる。
私たち会社に勤めるものたちは
あくまで会社が掲げている5W1Hに則ってるにすぎないのだ。
そこに則って私たちは月曜日からそれに従って働く。
会社が考えているそれは個人に向けてのものでないからだ。
だから、私たち一人一人が自分の人生の案件に対して
「なぜやるのか」と考えることは極めて稀といえよう。
足を止めるって勇気いるよね、と思う。
世の中にデスマーチってのがあるんだけど、
足を止められない人間の末路なんだよ、あれ。
一度走ったプロジェクトは止められないってやつ。
デスマーチというのは
一度作られたプロジェクトというのは
「間違っている」のはわかっているが
わかっていると認識しつつも会社の威信とか
客に対しての申し訳なさとか、そういうのがあるから
辞めるわけにはいかない。
一度間違った航海をやめるってすごい労力や迷惑がかかる。
周りに気も使わないといけないし。
「間違ってるのは知ってる、でもやる」
というのがデスマーチである。
「なぜやるのか」というのは私たちからすると
私たちが勤める会社が考えてくれていて、
個人では特段持たなくていいような感じにもなっている。
「なぜやるのか」と考える訓練をしないまま独立事業をしようとして
「なぜやるのか?」と問われて答えられないのも、無理はないのだ。
普段からそういうところに重み付けする訓練をしてないからだ。
2024年の振り返りと反省
翻って私の話になるが、「なぜやるのか」というのは
起業塾時代にも散々言われてきたことだった。
そして7年前の起業塾時代は、5W1Hを見出せず
何の成果も出せずに終わった。
それから2024年になったが、2024年を振り返ると、
スケジュールがびっしり埋まるくらい色んなところに行って
そして仕事をさせてもらった。
行く先々で困っている人がいて、その人たちのために「仕事」ができたのだから
2024年の採点で言えば100点満点中100点だったと言える。
ただ翻ってみると、
2024年はスケジュールがビッシリで、翌年1月の3連休まで
予定が抑えられてしまったこともあって
なかなか立ち止まることができなかった。
自分が「なぜやるのか」というのを考えないまま
予定を埋めるだけ埋めていってしまったのだ。
去年の12月に手遅れなことに気づいて
一度立ち止まって打ち直したいと思ったが、時すでに遅しだった。
すでに操縦桿は壊れていた。
今振り返ってみると、2024年の自分は
「とにかくスケジュールを入れるだけ入れている自分」に満足していたのだ。
動いている自分に安心してしまうもんだから
スケジュールをどんどん埋めるという悪循環を生み出した。
今今足を止めていて、「なぜやるのか」というのを
言語化するための題材を探しているが、
やはりどれを選んでもしっくりこない。
このまま言語化できるかどうかすらわからん。
総括
間違ったコンパスや地図を使ったまま航海する方が実は楽なのだ。
楽なんだけど、解決になってない。
軌道修正が効かなかった反省もあって、今は活動を止めている。
「なぜやるのか」って向き合うのは実は怖いことなんだと思う。
それは拷問だから、という話を前したのだが
拷問と感じるということは少なからず「怖い」と感じるからだろう。
私は、人の強さというのは「なぜやるのか」
というのを、言語化できるか否かだと思っている。
「なぜやるのか」っていうことこそ
「自分とは何か」っていう真髄だと思ってる。