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返り花

あの時もここに、桜が咲いていた。

私の家の近くには湖がある。湖畔に面した公園にはボート乗り場があり、土日は家族連れやカップルで賑わう人気スポットとなっている。いわゆるスワンボートという白鳥の形を模したものが特に人気で、行列が出来る事もしばしばであった。だが、私は独身だし、このボートを利用する機会はなく、興味もそれほど湧かなかった。むしろ、本物の白鳥を見る方がずっと好きだった。

本来白鳥といえば、冬の鳥である。しかしこの湖にいる白鳥は人間に馴れていて、渡りをせずに、ずっとこの湖に住み着いている。私は時間を見つけては公園を訪れ、この白鳥たちを眺めるのが好きだった。桜の咲くこの時期には、数羽の雛が孵り、公園内では白鳥の親子が仲良くお散歩する姿を見ることができた。水面に一番近い位置に立つ桜の木は、まるで彼らを見守っているかのようだった。

この年には5羽の雛が孵り、さながら公園のアイドルのように、皆からの寵愛を集めていた。ヨチヨチと歩くその姿は言うまでもなく愛らしく、それを見守る人々も含めて、実に微笑ましい光景を生み出しているのだった。

しかし、自然は常に怖い局面を孕んでいる。雛が小さいうちは特に、天敵に襲われて命を落とす事もしばしばである。この公園にも、頭上に鷹が現れる事があり、動きの遅い白鳥の雛は、彼らにとって格好の獲物になり得るのだった。

白鳥の親は、鷹の脅威を知らないわけではない。陸に上がって雛が草を食べている時も、自分は草を食べずに、常に上空へ向けて目を光らせているのだ。私はそれを見て感心しつつも、果たして自分はこんな立派な親になれるだろうかと、不安を抱くのだった。運良く誰かと出会って子供を育てる事になっても、降りかかる火の粉を払えるような強い親になるなんて、これっぽっちも想像できない。


ある日の事、私は5羽の雛のうち、1羽だけが翼をうまく畳めないでいる事に気づいた。どうやら、羽に傷を負っているようだ。心配そうに見ていた私へ、顔馴染の近所のおじいちゃんが事の顛末を教えてくれた。

それによると、その雛は一度鷹に襲われ、連れ去られそうになっていた所を、間一髪で親が追い払ってくれたのだそうだ。しかし、逃げようとする雛の翼を、鷹が強く引っ張った為、翼が折れてしまったのではないかとおじいちゃんは推測していた。最近雛たちは皆、羽ばたきの練習をしているが、その1羽だけが不自然な動きをしているから、この推測は間違っていないのだろう。

いずれにせよ、怪我をした1羽の生存確率が、他の雛よりも低くなるのは間違いない。人間のように医者がいるわけではないし、骨に異常があるのであれば、仮に羽が生え揃っても飛べるとは限らないからだ。

正直に言えば、この状況から次に起こる事を想像するのは容易かった。単にそれが、私の想像したくない結末だったというだけで。


一週間ほどが経ったある日、私が公園に行くと、白鳥の雛が4羽しかいなくなっていた。見当たらないのは、当然あの1羽である。犯人はあの鷹だ…私は直感的にそう確信した。

あの鷹にも、きっと雛がいる。草食動物である白鳥と違い、肉食動物はある程度大人にならなければ狩りをする事ができない。鷹の雛は、親の狩りが成功して初めて、命を繋ぐ事ができる。白鳥の雛が九死に一生を得た瞬間、獲物を捉え損ねた鷹は、飢えに一歩近づいたのだ。だからこそ、次は絶対に失敗できない。

それを頭では理解できても、白鳥への感情移入が覆るわけではない。故にこの悲しみは、私のエゴでしかないのだ。一度も空を飛ぶことなく生涯を閉じたあの1羽を、私は憐れまずにはいられなかった。

その後、残された雛たちは健気に成長していった。湖畔に佇む桜の木は、季節を一つ進めようと、その花を湖面に散らしていく。だが、その綺麗な光景も、私にとっては泣いているようにしか感じられなかった。


そんな事があったから、私がこの湖を訪れる回数は徐々に減っていったのだが、それでもたまに訪れた際には、あの家族の行方をどうしても気にしてしまうのだった。

公園に若葉が茂る頃には、小さかった雛たちも親と同じくらいの大きさにまで成長していた。こうなると、鷹に狙われる危険も少ない。私の心の片隅にあった、悲劇が繰り返されるかもしれないという不安も、いつの間にか薄れていった。夏が終わり公園の木々が色づく頃までには、私の傷も塞がり、記憶の扉は完全に閉ざされていた。


そして、ずっと独りだった私の人生に、転機が訪れる。プライベートで親交のあった男性が、私の事を好きだと言ってくれたのだ。私達は付き合うことになり、彼は私を色んなところへ連れて行ってくれた。いつしか私の心には、哀しみが入り込めなくなっていた。


私は彼との時間を重ねるうちに、将来の事も考え始めるようになっていった。以前は白鳥の親子の件もあったからか、自分が誰かの妻になり、誰かの親になるという想像は、無意識のうちに避けていた。しかし、彼と出会ってからは、具体的な家族像をついつい想像してしまうのだった。それは、彼の優しさがそうさせるのも勿論だが、私の中であの白鳥に対する想いが清算された事で、家族を持つ事に対する怖さや不安が払拭されていったのだと思う。

落ち葉もしっかり散り敷いて、この街にも冬が来た。彼が私の街を知りたいというので、あの湖畔にある公園を案内することにした。彼は船着き場に停めてあったスワンボートを見つけると、一緒に乗ろうと言ってくれた。

もちろん、私は喜んで応じた。


彼は私の手を取って、二人そろって「白鳥」の中に入り込んでいく。私は信じられなかった。いつも家族やカップルがこのボートに乗っている光景をただ見ているだけだった私が、まさか実際にこうして、この幸せの内側にいるなんて…。


中に据え付けられたペダルを、二人で漕ぎ始める。船着き場を出たボートは、入江の真ん中までやってきた。


「せっかくだから、写真を撮っておこうよ。」


彼はそう言うと、スマホをインカメラにして、私の肩を抱き寄せつつ、湖をバックに二人の顔が映るよう、角度を調整し始めた。

そこには、二人の笑顔だけが収まるはずだった。しかし次の瞬間、画角の隅の方から私の目に飛び込んできたのは、ボートの船体に刻まれた「傷」だった。

「あっ…」

私は思わず、声を漏らしてしまった。この傷は、恐らくボートが何かに接触した際にできたものだ。打ちつけたというより、引っ掻いたような跡が、スワンボートのちょうど羽の辺りに痛々しく残っている。

私以外の人に取って、この傷は単なる「跡」に過ぎないだろう。しかし私にとっては、記憶の底にある重い扉を開ける鍵なのだ。鷹に翼を食い千切られそうになり、羽に傷を負ってしまったあの雛の、たどたどしい羽ばたきが、私の脳裏に浮かび上がる。

あの雛も、他の兄弟と同じようにすくすくと育っていくはずだった。親と同じくらいに大きくなって、身体をゆさゆさと揺すりながら、草むらを闊歩するはずだった。父親に、母親に、兄弟たちに、そして湖畔の桜に見守られながら、美味しい草をお腹いっぱい食べるはずだった。そしてやがては、家族で編隊を組んで上空を飛び、この湖を一望するはずだった。


私はこの人と愛を育んで、やがては子供を儲け、幸せな家族生活を送るのかもしれない。誰かを愛すること、子供を育てること、家族になっていくということ。そうやって当たり前のように順番に巡ってくる幸せの陰で、不幸の種は純真な笑顔を脅かそうとしている。

やっと私に巡ってきた幸せのすぐそばにも、不幸は潜んでいるのかもしれない。今、この瞬間の幸せが深ければ深いほど、それが断ち切られた時の傷も深くなるに違いない。もしかしたら私が恋をした事で、将来何の罪もない我が子が、不幸な目に合うのかもしれない。最近やっとポジティブになって来た私の思考を、この傷は一気にネガティブなものへと転換させようとしていた。


「どうしたの?」

さっきまで幸せのピントを探っていたスマホのカメラには、嘘のように影が差した私の顔と、それを心配そうに見守る彼の顔が映っている。取り繕って話を逸らしても良かったが、気遣ってくれている彼のためにも、私には説明する責任があるように感じられた。

「ごめんね…実は…」

そう切り出すと、私の想いは堰を切ったように溢れ出した。この春、この公園で起こった、白鳥の親子を巡る一連の流れ。それが私にとっていかに辛い出来事だったか。そして今、突如として呼び起こされたその記憶が、この幸せな時間に深い影を落としている事を、懇々と彼に伝えた。

私は気が付かなかったが、彼は真剣に話をききつつも、ゆっくりとペダルを漕いでいたようで、私が話し終わる頃には、ボートは入江の対岸にかなり近づいていた。彼は、おもむろに岸の方を指して言った。

「ひょっとしてあれかな?白鳥の家族を見守ってたっていう、桜の木は。」

「あ…うん、そうだね。」

私が応えると、彼は続けた。

「やっぱりそうかぁ。あの木だけ、冬なのに花が咲いてるもんなぁ…。」

「えっ…本当?」

「うん、あの枝先の辺りに。ポツポツとだけど、確かに咲いてるよ。」

「あの白いのがそう?」

「そうそう。確か返り花って言うんだよ。」

「間違えて咲いちゃったのかしら…」

「きっと、あの家族の事が心配だったんじゃない?それか、もしかしたら単純に、春が待てなかっただけかも…。」

「ふふふ、そうかもね。」

「きっと、幸せを前借りしたんだな。」

「えー?その言い方は好きじゃないよ…。」

「あれ、そう?…良いと思ったんだけど…。」

「春に咲く分がなくなっちゃうでしょ!」

「いや、そしたらまた前借りすれば…」

「そんなのダメに決まってるじゃん!」


幸せを貸し借りするなんて…そう思って反射的に「ダメ」とは言ってみたものの、内心では少し思い直していた。それどころか、なんだか言い得て妙な気すらしてきて、いつの間にか、その言い回しがすとんと腑に落ちていた。私はこうやって、彼を好きになっていく傍ら、彼の選ぶ言葉も好きになっていくのだろう。

彼は私の名を呼んで、話を続けた。

「ねえ、明美は輪廻転生って信じる?」

「え、なんで?太郎は信じてるの?」

「うん。だってほら、目の前で桜が冬に咲いてるのを見ちゃったらさ、何があっても不思議じゃない気がして。これってもしかして、魂が生まれ変わる場所を探してるんじゃないかな?」

「なるほど、面白いね。じゃあ、あの雛の魂も、まだこの辺にいるのかも…。」

「そうだね。生まれ変わっても、家族の傍にいたいだろうからね。」

私はふと、これまで起こった全てを信じたくなって、心の中で一遍の詩を紡いだ。



『返り花スワンボートの羽に傷』


声に出したわけではないのに、あたかもそれが聞こえていたかのように、太郎はこんな言葉を返して来た。

「いやぁ…そんな事もあろうかと、こういうものを準備してあるんだよ。それも、耐水性の一番デカいやつ…!」

「え、なに?」

興味深く見つめる私の視線を制しながら、太郎はカバンをゴソゴソと漁ると、中から「絆創膏」を取り出した。慣れた手つきで紙を剥がすと、彼はそれをスワンボートの傷の辺りに貼り付けた。そして、傷口を優しくポンポンと叩いてこう言ったのだ。

「これで良し。もう怪我すんなよ!」

私は只々驚嘆するより他なかった。彼はそのたった一言だけで、物理的に傷口を塞いだだけでなく、私の根に蔓延る心理的な不安まで、瞬時に払拭してみせたのだから。

気がつくと私の中にあったはずの「怖さ」はどこにも見当たらず、心の深奥部には感じた事のない「熱」が灯っているのが分かった。私の血はそれを全身へ届けようとして、身体の端々へと駆け始めたところだ。

「ありがとう…。」

味わった事のないその熱を、全身で確かめるのに夢中で、そう言うのがやっとだった。その「熱」は瞬時に私を覆い尽くし、今まで信じたくなかった景色を、信じたい色へと塗り替えていった。


この熱を抱いている限り、幸せは逃げていかない。私は、そう確信した。



船着き場へ戻った私達は、手を繋いであの桜の木へ向かって歩いていく。入江に沿って半分くらい歩いた所で、ふと振り返ると、沖の方から船着き場に向かって、あの白鳥の家族が並んで泳いで来ているのが見えた。

私は、ふっと心が軽くなった。

これでもう大丈夫。
あの子の魂は、家族と共にある。


再び一つになれた彼らを見届けると、私達は並んであの桜の木の前に立った。

「これね?前借りした幸せっていうのは。」

「そうだよ。綺麗でしょ。」

「うん、とっても…。」

私はこの幸せをもっと感じたくて、彼から他の言葉も引き出してみようと思った。

「ねぇ、前借りっていうけど、それって一体どのくらいまで借りられるものなの?」

「うーんとね…。」

彼は一瞬考える素振りを見せたが、すぐにいたずらっぽく笑うと、こう答えた。




「返せないくらい。」


私は顔をくしゃくしゃにしながら、その手を強く握りしめた。私の「熱」が、この手を伝って彼の心へ流れ込んでいく。そして、全く同じものが、向こうからも流れて来ているのが分かった。


命には、繋がっていこうとする意思がある。

この「熱」の正体を、私はそう結論づけた。 

目の前の枝に、返せないほどの幸せが咲いている。ゆっくりと味わうように、私はそれを心へ刻み込むのだった。



『しあわせの前借り返り花きれい』



【了】

企画、執筆 … 恵勇

参考文献 … 『かえりばなの個人的見解』
蝦夷野ごうがしゃ
(敬称略)


挿入句①② … 恵勇

俳句出典① … 南海放送ラジオ

夏井いつきの一句一遊虎の巻より

兼題『帰り花』銀曜日の紹介句

※ラジオ放送にて、拙句に素敵な鑑賞を頂戴し、物語の筋道を拡げて頂いた、虎の巻パーソナリティの家藤正人さんへ、心より感謝申し上げます。


〈作品紹介〉

輪廻転生を信じるあなたへ。


俳句好きなお母さんがいる家族の物語


   作者の鳥愛の原点となったノンフィクションストーリー


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