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《マンボ》 2020年11月の星の行方
こんにちは、こじょうゆうやです。
さて今月もやってまいりました。こじょうの放言の極み、マンボです。
早いものでもう11月に入りました。昨日10月31日の満月は、ちょうど11月へと日付が変わる頃合いでしたから、節目を感じたのはぼくだけではないはずです。
さてさて、そんな美しい切り替わりから始まる11月を感じてみようかと思います。
特にビッグでミラクルなイベントは、来月の冬至頃からの流れですが、そこを迎えるまでのこの11月の過ごし方というのは、案外いちばん大切なのかもしれません。
星々の様子を感じてみて、具体的に、いくつか気をつけた方がいいのかしらと思うことを綴ってみますね。
選択、決定について
特に10月末までの動きというのは、比較的のんびり、人によっては停滞感とか焦燥感をおぼえる方もいらっしゃったのはないでしょうか。思い通りに事が運ばずにじれったい!とか、不安だ……とか。全体の周波数を感じると、そんな気がします。
え、別にそんなことないよ?
イケイケドンドンだぜっ?
という方ももちろんいらっしゃると思います。ご自身の進む道をビシッと決めてらっしゃる方は、そんな風な感触があるかもしれませんね。
人によって早い遅いの差はあるといえども、決めるにはまだちょっと早いかも、という気が、ぼく個人的にはしています。
とはいえ、良い悪いの話ではありませんから、決して気を悪くしないでくださいね。
11月は最終的に決めるまでに、あれやこれやまだまだ悩んで良さそうな期間だと思います。だからこそ、完全無欠の自己一致的どんぴしゃりが決められるかもしれません。一度決めたことを撤回するって、人によっては難しいことかもしれませんが、まだうっすらと宙ぶらりんにさせるくらいでちょうど良い気がします。
バスケットボールのシュートを決めるイメージで例えると、もし完全無欠の自己一致的どんぴしゃりなゴールイメージが、リングにもボードにも一切触れない、ネットだけがひっくり返るくらいの綺麗なゴールの場合でしたら、イケイケドンドンの方々はもうすでに、様々な形でゴールを決めていらっしゃるのだと思いますが、百発百中でその完璧なゴールが狙えるまでシュートを磨くといい期間なのかもしれません。ただゴールを決めるだけじゃ満足しない、達人名人の領域が手に届く機会を手にしていると言えるでしょう。さらなる高みへ、というやつですね。
まだまだ試合までは時間がありますから、勝敗は宙ぶらりんにしたまま、個の技を磨き上げるにはもってこいだと思います。
思いつきのこの例え、わかりやすいのだろうか。(笑)
とにかく!
特に11月15日の新月から月末30日の満月までは、そのどんぴしゃり決めが、つつがなくできるのではないかという印象です。
選択や決定というのは、日常の些細なことにまで広く関わっていますが、ぼくの個人的な解釈だと、多次元の選択、決定という意味において、です。
これまでに散々多次元だとかなんとか言ってきましたが、言い換えると、どう在りたいか、どう生きていきたいか、の選択です。
自分はお金がないから、、、、とか、
今の自分にはパートナーがいないから、、、、とか、
今現状「欠けている」とご自身が感じるものをベースとして、選択や決定をなさらないようにしていただけるといいのかなと思います。
お金がないから、あの服は買っちゃいけない、買えないとか、
パートナーがいないから、私は素敵じゃない、劣っているとか、
いやいや、そんなことはまったくございませぬ!!!(今日一番の大声)
そういう、意識や思考を固定化するような枠組みは、
ご自身で、無意識に、無思考的に、設けてしまっていることが多いだけです。そういった枠組みを片手に携えながら生きているケースは、誰であっても、ほんとうによくよくあることですから、元気をなくさないでくださいね。
で、特にそのような枠組みを固定化するパターンが二つほどあると思ってます。それは表裏一体ではあるんですけれども、
ひとつは、罪悪感が根底にあるもの、
もうひとつは、正義感が根底にあるもの、
です。
ここ最近はその両者が、特に目立っているように思います。
どちらも、周波数としては荒いですし、エネルギーの質量としては重たくて、反転しているけれど、波形がよく似ている、というイメージです。
つまり、至高と呼べる愛の状態とは、異なりますから、これからの新しい世界にはそぐわない周波数でしょう。
今ここまでお伝えした中で、ご自身の中で何か響いたり、反応が起こったりした場合は、そのパターンにハマっている可能性があると思います。よくよく感じてみてください。悪いことではありませんから、その認識のために勇気が必要なら勇気を出して。
そこで、もし。
先ほどお伝えした、
え、別にそんなことないよ?
イケイケドンドンだぜ?
的な感触をお持ちの方がそうなった場合は、もっともっとすんばらしい選択や決定をすることができる余白というか、伸び代がある、ということのあらわれですから、イケイケドンドンの只中にいるご自身を疑ったり否定するのではなく、思わぬラッキーボーナスが転がり込んできたように、
あれ、これよりもっといっちゃっていいんですか?(うふ)
的に、選択と決定を見直されると、完全無欠の自己一致的どんどんぴしゃりな動きが加速していくのではないかと思います。
とはいえ、正直そのあたりは個々人の自由なので、宇宙は介入干渉するつもりなんてさらさらありません。ほんっとに無慈悲なほどに、ありません。
自己固定化のもと、選択決定をすることも、大いに良し!なのです。
最終的にはすべてが、その人その人の自由意志に基づく選択決定になりますから、そうなる前に、今一度感じ直してみませんか的な期間が、
この11月なのだろうなと、ぼく個人的には感じています。
自分以外の誰かや何かについて
星の坊主さまを名乗っておはなし会をしていた時だけでなく、いまだに聞かれることがあります。
「周りの人や、広く世界を見渡した時に、まだまだ目をつぶりたくなるような出来事が多すぎる。それなのに、これからの世界が良くなるだなんて、どうして言えるの?」
さて、みなさんはどうお感じ、お考えでしょうか。
ここで一度、感じ考え直してみていただけると面白いと思います。
* * * *(よおく、感じよう〜♫)* * * *
さて、どうでしょう?
どんな風に自分自身がとらえていらっしゃるか感じられましたか?
ここからはぼく個人的な感じ方の話をしますね。
みなさんが得た感触は、そのまま大切に置いておいてください。ぼくの言葉は耳半分以下で十分ですから。
では、さっそく。
正直、ぼくはそのあたりのことに統一感を持たせる必要はないと感じています。
世界が良くなると思えるなら、そうでいいし、
思えないなら、無理して良くなると思わなくたっていい。
このように書くと、結構薄情な感じですね。
でも、個人的にはそういう感じです。
たとえ身近な友人知人隣人であろうと、自分とすべての他者は、もともと大いなる一つであるとはいえ、細部に渡り、ことごとく違いを持って存在していますから、その違いを生かして、それぞれがそれぞれで在ることが最良、かつ最高の調和に至るというのが、ぼくの捉え方です。
手を取り合ったり、足並みを揃えたりすることは、時と場合によって必要になることもたくさんありますが、それはとっても瞬間的なことだと思います。最近の傾向は、手を取り合ったまま足並みを揃え続けようとして、こんがらがって転倒するとか、まったく前に進めない、とか、そんな印象があります。二人三脚でさえ、結構難しいことですからね。
基本的には、個々が個々で在ることの方が、特に人間の場合は大切な気がするんです。だから、他者と手を取り合わないことや、他者と足並みを揃えないこともあっていいんじゃないかと思っています。
魂という観点で見ると、一人一人見事なくらいに、その色や輝き、佇まいに違いがありますから、それを均一に、単一にすることはかなりの無理が生じます。
その無理を実現するためには、膨大なエネルギーが必要となりますし、同時に負荷も半端じゃないです。反動だって必ず起こるでしょう。無理はその言葉が表すままに、道理に反していることですから、宇宙全体の原理原則とはまったく違います。
そうなると、星々との連動もなくなってくるため、いよいよほんとうに個人のみが持つ能力やエネルギーだけで、生きていかなければならなくなります。そこには持続性も、可能性もほとんど感じられません。
ですから個人的には、
他者や何かへのアプローチを始めるよりも前に、自分自身があるがままで在ることへのアプローチこそが、いの一で大切だと感じています。
もちろん他者や何かへのアプローチをすることは悪いことではありません。
むしろとっても重要なこと、だからこそ、その前に自分自身への意識を行き届かせ、確かな個を自認することが必要かもしれません。意識の目覚めが起きていれば、他者や何かへのアプローチと、自分自身への意識を行き届かせることを並行して行うことができるようにも感じます。
意識の目覚めなどと言うと大袈裟かもしれませんが、些細な違和感を自覚して行動につなげることができれば、それはもう意識が目覚めた状態といって良いと思っています。
ですから意識の目覚めはわりと数多く起きていて、今となればあまり特別なことではないんです。そこに自覚と行動が伴えば伴うほど、意識はより深淵に自他の世界に拡張していきます。
目覚めたかそうでないかはさておき、軸足が自分自身にしっかりあれば、他者の舞台に降り立ったとしても、自分を見失うくらいに翻弄されることはないでしょう。
もし、他者や何かへの貢献が日常化している方で、毎回同じようなことが起こる(ループ)を感じることがあれば、ひとまず、他者や何かへのアプローチを一旦お休みして、すべての時間を自分自身に注ぐくらいの気持ちで、日々を過ごしてみるのもいいかもしれません。
隠し持つ世界の開示
もし、憧れの世界や、暮らし方、人脈などがあるならば、そこに手が届くチャンスが訪れているかもしれません。なあんて言うと、占い師っぽい言い方にはなりますが、ほんとうにそう感じています。
多くの方が、自分自身を過小評価している関係で、美しくて素晴らしい、数多くの世界がひとりひとりの人の中に封じ込められてしまっているんです。
あのぉ、、、
もったいぶらずに、出してください(笑)
その世界が出るか出ないかで、これからの世界は大きく変わります。むしろそれがひとつでも出ないと真の地球は完成しません。
まずはあなたから、なんていう常套句がありますが、
ほんとうに、まずはわたし、あなたから、なんです。
そのみなさんが隠し持っている世界は、どうやって出せるか。
大それたことはする必要がありません。
とーっても些細なことからでいいんです。
たとえば、ぼくが営む畑でつくられるお野菜は、決まったお客様にお出ししているんですが、毎回のように、ご感想を送ってください方がいらっしゃいます。
その方のお言葉のいくつか、ご紹介させていただきますね。
(プライバシーに関わる部分は割愛させていただきます)
2020年8月7日
今夜、お野菜が届きました。
ありがとうございます。
宅急便のかたのおかげも。
封を開けて、お野菜たちが現れました。
パクチーの香り。
こんにちは、よく来てくれましたね、とご挨拶。
ひとつひとつ、そっと触れたり、鼻を近づけたりしました。
どうやって食べようかな…。明日が楽しみです。
お野菜たちの会話、こんなふうに感じました。
「長野より暑いのね」
「食べてくれるのはあの人ね」
「あ、彼女、おふろに入った」
「彼女も冷えとりやってるみたいだね」
「じゃあしばらく出てこないね」
こうしてお野菜がその方の元に届くたびにご感想を寄せていただけるようになりました。つい昨日は、こんな言葉を。
2020年10月31日
お野菜たち。
「来ましたぜ」
「わたしはスープにね。ゆでたお湯も使えますよ✨」
「わたしはゆーっくり食べてくれたらいいですけえ」(どこのことばでしょうか)
「わたし、鮮度!鮮度!」
おしゃべりしてくれています。
この方は、手元に届くお野菜の声を、箱を開けて出していく最中などに聴いてくださって、それを言語化して、わざわざぼくにお送りくださっているんです。
これが、「隠し持つ世界の開示」の一例です。
お野菜が持つ固有の周波数は、受け取り手によって言葉の表現が少しずつ異なりますが、異なることは間違いではなく、単純に個性の違いというだけですから、どれもこれも完璧な正解です。
隠し持つ世界の開示、それは賛美、共感、同感、批判、中傷、文句とは違います。そういったものは隠し持ったものじゃないんです。無意識のうちに出ちゃうんで。
いやそれは意識的な共感、批判なんだ!という方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。ただぼく個人的には、それは意識的ではなく、意図的なのではなかろうかと感じます。
誰かに見てほしい、こっちを向いてほしい、という顕示欲求的意図です。
それは無意識下でも起こりうるため、意識的とは言えないことがほとんどな気がします。
隠し持つ世界は、絶対的に痛快な個性が必ず顔を出します。
それは普段無理やり呑み込んで隠しているとかそういうものではなく、あたたかくなった水から立ち上る湯気のように、極めて自然に発生しているのにも関わらず、その発生を表出させていない、表出させることを選んでいないものです。
それをぜひお選びください、というのがこの11月です。
ご紹介したお野菜の声は、その方から自然発生したものを、意識的に言葉に置き換えて、ぼくという外部に向かって発信したものだと感じました。その習慣をつけようというその方の意図はあるのかもしれませんが、野菜の声(に限らず、自然物の響き)にそもそも意図はありませんから、その声をただ聴いて、ただ言葉にすることは意図的行動にはなりません。
この違い、上手に書き落とせているかは定かではありませんが、おわかりになりますでしょうか?
そしてこれは、意図は悪い!と言っているわけではありませんからね。ジャッジメントにはご用心なんです(笑)
意図なくして、この世界、人間は存在しません。
そもそも、意図がなければ、星をつくる存在が意図して生まれたこの地球すら存在してないでしょう。もしかしたら、宇宙も。。。
今の世界に生きる人々は、関連付け、というものがとっても上手だなあと思います。特にインターネットが普及してからは、ほんとうにたくさんの人々が関連付けができるようになっているように感じますが、短絡的な場合も少なくなく、早とちりでこんがらがってしまっていることもたくさんあるようです。
というわけで、意図は悪いものではありませんし、賛美、共感、同感、批判、中傷、文句も悪いものではありませんからね。こんがらがらないようにご注意くださいませ。
さて、そんなわけで!
隠し持つ世界の開示、このマンボの読者さまの中でも、きっときっとあるはずです。ぜひぜひ、「個々の内部に自然と立ち上がる現象」という名の世界をとらえて、どのような形でも表に出す、開示をなさってみてくださいね。
ちなみに、感情もまた、その世界の開示につながる重要な要因です。
意図的な感情なんてありませんからね(おそらく優れた役者さんもそんな表現はしていないはず)。
ご自身の内部に存在するきらめく世界を、ぜひぜひ、もっともっと、解き放ってみてくださいませ◯
今月は、そんなマンボです。
こじょうゆうや
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