虹の空と銀の怪物と向こうの旅
――人生は旅だというやつがいる。
その旅には道がある。けれど、進む先を見通すことは出来ない。
その旅には夜がある。けれど、暗闇の世界にもやがて朝は来る。
朝の光を拝めず、夜の間に野垂れ死ぬ奴も居る。旅の全てが幸せとは限らない。歩いた道の結末は様々だが、その過程は全て旅だ。
クー・ラフィックにとっての人生は――どうだろう。クーにはまだ解らない。人生について語る人間など、世俗の労苦を見下ろす賢人か、旅を歩ききった老人くらいのものだ。クーはそのどちらでもない。
『ケーニシ』は荒れた土地だった。長く人の手から離れ、時と共に崩れた建物が一帯に眠っている。かつては人々が生活していた街も、今や中途半端に立ち並ぶ壁と、鬱陶しく足元にごろつく石塊に過ぎない。
濁青の空の下、廃墟の遠くにはシェルター都市の青い防壁光が見える。今や人類に残された数少ない安全圏。何億もの凡人たちが死にゆく最中、世界有数の科学者たちが、頑丈な地下シェルターに籠り、必死になって作り上げた人類の努力と叡智の粋を脅かすものはいない。少なくとも、今のところは。
地面に転がった大きな瓦礫を、クーは忌々しく思いながら乗り越えた。使い古したブーツは頑丈で、足に馴染んでいる。幾度となく街の残骸を踏んでもまだ、ケチな持ち主に付き合ってくれている。
荒い息がレスプ・マスクの内側に篭もる。クーの喉には古傷があり、自力ではロクに呼吸が出来ない。家で大人しくしている分にはマスクなしでも十分だが、こういった労働をする時には必須だ。もしも奪われることがあればたちまちの内にクーは紫の風船になって死ぬだろう。
いっそ徹底的にやつらがこの廃墟たる街を破壊し尽くしていれば、さぞかし歩き良かっただろう。しかし破壊者たちは自分たちに便利のいい程度に街を整え、それ以上には労力を裂かなかった。なんとも効率的なことだった。
沢山のがらくたを抱えて、クーは自分の定めた拠点に戻った。拠点と言ってもささやかなもので、燃料焚火と寒冷地でも使用可能な寝袋が一つあるだけだ。他の人間は居ない。生きているものといえばまばらに生えた植物とおこぼれを漁る巨大鼠くらいのものだ。――そのはずだった。
「クイイ」
その小さな生物は細い声で鳴いた。食料の入った荷物に鼻を突っ込んでいたそれは、クーに気づくと怯えたように尾を震わせた。
銀色の鱗の生えた体表に細長い尾と、四本の足に四本の腕。ぎょろりと動く丸い目玉には細長い瞳孔が収縮している。かつて生息していたトカゲ種の姿にも似たそれは伝承の半身半馬のごとき四足歩行で立ち、クーを見ている。
体躯こそ小さいものの、肺呼吸生物において多足多腕の特徴は、今や当たり前となった変異生物種のものだ。
「なんだ、チビの怪物」
クーはちっぽけな銀色の怪物に声をかけた。シェルター都市の外は変異生物種に溢れているが、こういった廃墟で出会うのは珍しいことだった。恐ろしい変異生物種といえど、食事のない場所には住まない。
これがもしも標準的なサイズの変異生物種であったなら、クーは拾い集めたがらくたを捨て、一目散に逃げ出しただろう。だが、この怪物の体高といえば精々、成人の膝を越えるか越えないか程度だ。この程度の変異生物種に逃げるも殺すも億劫だし、馬鹿馬鹿しい。適度に脅かして追っ払ってしまいたかった。
「迷子か? 群れからはぐれたのか」
一歩踏み出すと、ちっぽけな怪物は慌てて足をばたつかせた。だがそれがまずかった。食料バッグを転げ落ちた怪物は、間の抜けたことにバッグからぶら下がっていた、明り石のストラップに足を引っ掛けたのだ。怪物はキイキイと鳴き、抜け出そうと暴れるがストラップは余計に絡んでゆく。
「ああもう、このマヌケが……」
ただ何処かに行ってくれさえすれば良かったのだが、面倒なことになった。クーは溜息を吐き、渋々と暴れる怪物に近付いた。大人しくしてろよ、と祈り、折り畳みナイフをストラップの紐へと近付ける。ナイフが明り石の光を薄く反射した。怪物は増々パニックに陥り、死に物狂いで暴れだした。怪物の尾がナイフを掠め、ひやりとする。
「テメエ、それじゃ切れねえだろうが――」
文句を言おうとした時、プチ、と何かが切れる音がした。怪物の動きに耐えかね、ストラップの紐が切れたのだ。捕らえる暇もなかった。自由になったことに気づくと、怪物は一目散に拠点から逃げ出した。――ちぎれた明り石のストラップを足に絡めたまま。
「あっこら、待て!」
ああ、最悪だ。面倒に面倒が重なって、最悪の面倒臭さに転がり込んだ。俺が何をしたっていうんだ? クーは薄暗い夜を呪った。少なくとも今日は禁煙の誓いすら破ってない。こんな事態が降りかかる理由はないはずだった。
クーは心底うんざりしながら、逃げるちっぽけな怪物を追った。怪物の足首に絡んだ明り石の光が跳ねている。ぼんやりとしているが、その薄桃色の光は夜によく目立つ。当然だ。元々、暗い場所での目印としてぶらさげておいたのだから。
怪物が草むらに転がり込んだ。クーは舌打ちした。視界の悪い所に逃げ込まれては厄介だ。早く追わなければ小さな影を見付けることは永劫出来なくなるだろう。クーは足早に歩を進める。
――その時、甲高い悲鳴が上がった。
「キイイイイ!」
それはあのちっぽけな怪物の鳴き声だった。慌ててクーは草むらを掻き分ける。そこに大きな黒い影が飛び出してきた。咄嗟に身を屈め、襲いかかるそれから身を逸らす。
「何だ……!?」
巨大な毛むくじゃらの影が唸った。筋肉の盛り上がった四足は地面を抉り、ブラシのような黒い剛毛が逆立つ。尖った二つの耳は凶々しく、長い口には固く鋭い牙が並んでいた。――変異生物種。かつては犬と呼ばれていたそれはその面影もない程に歪な巨躯を誇っている。
クーは身構えた。先程の間の抜けた怪物とは違い、楽に勝てる相手ではなかった。鉛弾銃を引き抜きながら退路を探る――そして気付いた。犬のような変異生物種の口に、明かり石をぶら下げた小さな怪物が咥えられていることに。キイキイと悲しげな声を上げるそれの足元に、桃色の石が揺れた。クーは舌打ちした。
「チッ、しょうがねえな……!」
腹を括ってしまえばクーの行動は速かった。間髪いれずに安全装置(セーフティ)を下ろし、引き金を引いた。銃声が響く。昔ながらの鉛の弾丸が黒毛の変異生物種に向かう。黒毛は筋肉を躍動させ、その場から飛び退く。
「ハ、逃がすかよ――!」
黒毛の飛んだ先めがけ、クーは思い切り砂を蹴散らした。目鼻に舞い散る砂粒に黒毛が怯む。間髪入れず、もう一度引き金を引いた。――ダン! 命中した。黒毛の横腹に穴が空き、赤い血が吹き出した。変異して尚、その血液は赤いようだ。黒毛は悲鳴を上げ、その口から小さな怪物が落ちた。
黒毛は瓦礫混じりの地面を血で汚しながら、よろよろとその場から逃げ去った。後に残されたのはクーと、小さな盗人だけだ。放り出されたちっぽけな怪物を掴むとそれは苦しげに暴れた。クーは怪物の足から明かり石を解き――そしてぽい、とその生き物を放した。
抵抗していた怪物は驚いたように目を丸くし、クーを見上げた。その様子が可笑しく、クーは笑う。
「マヌケな奴。ほら、群れに戻れ。ん? 意外か? 運が良かったな、今日はそういう気分なんだ」
その時――風が舞った。澱んだ雲が裂けた。
――美しい景色を見た。銀色に輝く花畑が夕日に照らされている。草むらは花の群生地だったのだ。それが今、夜を前に一斉に開花を迎えた。
銀の花粉が輝き、舞い散った。銀の花畑の前には、クーの人型の影と小さな四脚四腕の影。
そこには、一人と一匹しか居なかった。
この美しい光景を見ているのは、ただ、彼らだけ。彼らだけの景色がここにあった。
遠く山の向こうに巨影が見えた。ぐねぐねと動くそれもまた生物だ。夕焼けを背に夜への活動を始めているのだろう。ちっぽけな怪物は夕日の向こうを見て進もうとした。けれど踏み出せないのか、不安げにクーを見た。
「……お前の群れはあっちか」
美しい銀色を前に、クーは呟いた。それからちっぽけな怪物の前にしゃがんだ。怪物は逃げなかった。クーは一つのことを決めた。自分でも信じられなかったが、不思議とその気持ちは揺らがなかった。
「……ストラップ。お前の名前はストラップだ」
それは良い名に思えた。こいつらしいマヌケな響きだと思ったし、それでいて愛らしさもある。クーはトカゲじみた四脚四腕の怪物を抱き上げた。怪物は抵抗しなかった。
その滑らかな首に桃色に光る明かり石のストラップがかけられる。
「――ああ、良いだろう。俺が、あの山の向こうにお前を連れて行ってやるさ」
山の向こうで夕日が沈もうとしている。巨大なぐねぐねとした影の姿も遠くなっていた。空にはちらちらと星が瞬き始めていた――。
◆ ◆ ◆
東の空が淡い虹色に輝いた。それは朝の訪れだ。
虹色の夜明けの下に大きな都市の姿が浮かび上がる。朝霧の中、この近辺で唯一のシェルター都市『タラヅカ』は、半透明のエネルギー・シェルターの向こうで静かに佇んでいた。廃墟で拾い上げた荷を背負い、レスプ・マスクのクーは小さな銀色の怪物と共に都市へと帰還した。
夜明けの都市はまだ寝ぼけ眼で、都市門への大通りにあるのはまばらな人影だけだ。見上げれば高いビル群の上、エネルギー・シェルターの薄い青色を透かして尚、空は虹色に朝焼けていた。
勤勉な店主が早朝からガラガラと道端の店のシャッターを開けた。店には、首の長い馬兎や二つの口を持つ猫、肥大した四つの目玉で頭部が埋め尽くされた蛙など、様々な食用生物が干されていた。かつては存在しなかった生物たちも、今や当たり前のように街に並ぶようになった。
――全ての空が白き瞬きに覆われたあの年、星外の成分と共に隕石が落ちてから、世界は変わった。
新たな粒子がこの星の空気中に蔓延した結果、大気の屈折率が変わり、今日のように朝日が虹色に輝くようになった。
天が齎したのは美しい風景だけではなかった。隕石に付着していた未確認のウィルスだか惑星外元素だか――それがこの星の生き物を劇的に変化させた。
まずは外見の変質だった。ある中型肉食獣種は巨大化し、ある樹上生活獣種は六つの腕を生やし、またある高木植物種は全く違う特徴を持つ複数の花を開花させるようになった。
二つ目は性質の変質だった。ある蔦植物種は動物種を捕食するようになった。ある大型肉食獣種は凶暴ではなくなった。ある洞窟生息種は光を浴びるようになった。
この星の生態はたった一日を境に一変した。
初めの頃、世間はその変化や原因について熱心にニュースを流していたが、残念ながらクーは良い視聴者ではなかったので話半分にしか覚えていないし、今は誰もそんな日常のことをニュースにしたりしない。しかしそれは――確かに進化だったのだろう。変異した生物種は活発に活動するようになり、星が降る以前よりも数を増やし、生活可能領域を広げていった。即ち、彼らは地球の支配者として君臨していた人類の脅威となった。
哀れなことに、それまで繁栄を誇っていた人類は宇宙から齎された進化の恩恵に預かれなかった。
数多の生物が姿形の変化を迎える中、何故か人間にはその恩恵がなかった。惑星の上に生きる八十億もの人類の中で変化を得たのはごく僅かで、それも殆どが生育途中の幼児ばかりであった。変化のあった彼等も新たな肉体が社会環境に適合できず、その大半が幼い頃に死んだ。彼らの変異遺伝子が従来の人類にとって代わり、繁栄することはなかった。
その結果、人類は築き上げた都市を追われることになった。巨大化し、凶暴化した一部の変異生物種はやがて自らの得た力に気付くと、群れをなして街を襲うようになった。
森を開拓し山を崩し海を埋め、地を心地よいアスファルトで満たし、長く外敵に乏しい生活を送っていた多くの人間に為す術はなかった。高層ビルの半分もあろう巨大変異生物種たちは家々を踏み荒らし、ビルを角で打ち崩し、逃げ惑う人間たちを捕食していった。
警察は太刀打ちできなかった。要請を受けて出動した軍隊はそれなりに戦った。大きな砲弾で変異生物種を穿ち、死体を転がした。けれど軍隊も彼らを狩り尽くすことは出来なかった。
人間の都市を狩場と見定めた彼らは場所を変え、時間を変え、様々な都市に現れた。軍隊が駆けつけるまでに一つ、また一つと人の都市は破壊されていった。世界各地で何万、何億の死者が出てから――やがて人類は、かつての生活を諦めた。故郷を捨て去り、科学者たちが作り上げた新たな街へと移住したのだ。
『タラヅカ』はそういったシェルター都市の一つだ。シェルター都市の中でも後の方に作られた場所で、移住できるようになるまでにこの一帯の多くの街が滅んだ。クーが廃品を漁る『ケーニシ』もそういった間に合わなかった土地の一つだ。
当初、『タラヅカ』に移住できた人間は多くなかった。生活を失い、家族を失い、友人を失い、人々は疲弊していた。しかし十五年の月日が経ち、今や『タラヅカ』はかつて人類が栄華を誇っていた頃のような賑やかさを取り戻していた。変異生物種が『タラヅカ』の青いエネルギー・シェルターを突破したことは一度もない。
もはや自由に外界へ羽ばたくことは出来ないが、この限られた安全地帯で生きていくことこそが、新たな人類の在り方になった。
当事者でありながら、多くの人間にとってはそれらは何処か遠い出来事でもあった。
先程の野犬もどきの類なら街の内外問わず姿を見ることはあるだろう。それは外敵としてでもあり、商品としてもだった。
けれど街を襲うほどの巨大な変異生物種を――怪物をクーは見たことはない。精々、破壊された後の街を見て傷跡からその脅威を想像する程度だった。かつて、無防備な都市が外敵に襲われ、警報が鳴り響けばしたたかに身を守る地下通路へと逃げ込んだからだ。クーは目敏く、生き汚かった。多くの一般人同様に。
これだけ都市が滅ぼされても、クー同様、実際に怪物を見たものは多くない。襲撃があれば人間は一目散に安全な場所へと隠れるか、都市から逃げ出した。間に合わなかった人間は、死んだ。
だから、ちゃんと怪物の姿を見たものは兵士くらいのものだ。襲撃時の恐怖を呼び起こすため、ニュースでもそれらの映像は禁止されている。
人々は霧のような漠然とした恐怖の存在を知りながら、それに直面することなく生きている。
クーの家もまた『タラヅカ』にある。『ケーニシ』は危険を犯し、残された遺物を漁る稼ぎの場の一つに過ぎない。荷を担ぎ、慣れた様子で石畳の大通りを歩くクーの肩で、ストラップは物珍しそうに周囲を見渡していた。頭がひょこひょこと動く度に、下げられた明かり石が揺れる。
かつての人が様々な生き物を飼っていたように、今日でも変異生物種を連れる人間は少なくない。ぽつりぽつりと人と擦れ違っても、四脚四腕のトカゲというこの地域ではあまり見かけない種であるストラップも珍しがられることはなかった。
道の反対側を覗こうとしたストラップの細い二本の腕が、レスプ・マスクからはみ出たクーの耳を掴んだ。クーは僅かに首をよじらせた。
「おいよせ、くすぐったいだろ」
「クイイ?」
クーの文句にストラップは首を傾げた。黒く丸い目がぐりぐりと動く。レスプ・マスクの排気口から溜息が吐き出された。
「お前な、こっちは文句つけてるんだぜ? 怒ってるんだ。もうちょっと警戒心を持て、野生生物だろうが。噛み付かれるとか、投げ捨てられるとかだな、考えろよ。俺がちょっと本気出せばお前みたいなチビ、ぺちゃんこなんだぜ」
「クイイ?」
やはりストラップは同じ調子で反対側に首を傾げた。忠告にも関わらずまるで警戒するような素振りは見られない。やがてトカゲのような鼻がヒクヒクと動くと、何かに気づいたように再度クーの耳を掴み、頭頂部へとよじ登った。
「おい、ちょっと待て、何だっ」
鱗に覆われた脚部の指が鼻に入り、クーはくしゃみをした。むず痒い鼻を押さえながらストラップが気にする方を向いた。その視線の先にあったのは――一台の移動屋台だった。働きに出る者のために軽食を提供する店だ。今は朝食向けにホットサンドを焼いているようで、その香りがクーの鼻にも届いた。
ストラップは香りの方向に首を伸ばし、興奮を伝えるように四本の脚が強くクーの髪を掴んだ。
「あれが気になるのか?」
成る程、外界には焼いたパンなどは存在しない。初めて嗅ぐであろう香ばしい匂いにちっぽけな怪物が興味を持つのも不思議ではなかった。
しかし、クーは落ちそうなほどに首を伸ばすストラップの鼻を指でぐいと押し戻した。冷たい鱗の感覚が指に触れた。
「だが駄目だ。食う前にまずは――一仕事終わらせないとな」
――『タラヅカ』の都市正門から歩いて二十分ほど、その薄暗いビルはあった。コンクリートの階段を登り、クーは二階にあるその店の扉を乱暴に蹴った。立て付けの悪い金属扉が重苦しく開いた。
「おいタルア、居るだろ」
散らかった床を蹴って歩く。店の奥から寝ぼけた声がした。
「んああ……? 誰だ……?」
「ラフィックだよ」
「んん? クーか!」
がさごそと巨体が動く音がし、カウンターの向こうのソファが軋んだ。やがてむくりと大柄な男が目をこすりながら立ち上がった。だらしない贅肉が重力に揺れるのを見ながら、クーは背負った荷を下ろした。
「よう、タルア。遺物を買い取ってくれ」
「ったく、いつも朝からよぉ」
雑然と積み上げられた廃品の山の中から、店の主であるタルア・マドックが現れた。タルアは不満げな表情を浮かべていたが、クーは気にせず言葉を続けた。
「とっとと捌いて寝たいんだ。それに文句をいうなら店の鍵くらいかけておけ。オマエの店が今まで強盗に入られたことがないのは不思議なモンだよ」
「ハ、バカ共はウチの店の価値が解かんねえのさ。で、いつものヤツか? 何割くらいだ?」
「廃品が八つ。遺物が三つだ」
「へえへえ。あんな所にまだ遺物があったとはな」
「幾らでもあるさ。きちんと探しさえすればな」
タルアは廃品回収屋だ。クーのような、変異生物種蔓延る外界にわざわざ足を伸ばし、廃墟と化した都市を歩くような物好きから、廃墟に残された機物を買い取る仕事をしている。打ち捨てられた古い機械たちだが、直せば今も動くものもあるし、そういったものを懐かしみ愛用する人もいる。使えない物でも分解し、リサイクルすれば新たな資源となる。かつての風景は失われ、外界が人間にとって危険な場所となった今、こうした僅かな資源も重要なものだった。
そして廃品回収屋が扱うもう一つのもの――遺物だ。遺物とは即ち『遺品』だ。
かつて、都市で多くの人間が死んだ。かつて、都市から多くの人間が逃げ出した。
全てのものを持ち出すことは出来なかった。多くの人が家族との思い出すら残したまま、その地を後にした。その中には親愛なる人の遺体すら見ることなく生き別れた者たちも少なくはない。
故に――クーのような人間はそれらを集める。亡き人の面影を、追慕を宿す品々を。
床に広げられた廃品を検分するタルアを、クーは暇そうに眺めている。手を動かしながら、タルアは口を開いた。
「暇そうだな、クー。タバコも買ってくか? 気に入りのやつ入ってるぜ」
「良い。禁煙中だ」
「続いてるのかよ、何日だ?」
「二日目だな」
「そりゃすげえ」
タルアは心を込めずに言った。
「オマエ、そのクソ呼吸器に煙草なんざ死ぬようなもんだぜ」
「売ろうとしたヤツが言うか?」
クーはレスプ・マスクの奥で呆れた。
事実クーの傷ついた呼吸器では、摂取する煙量をきちんと計らねば死ぬ。その程度は気をつけていたし、すっかり止めてしまうほどクーは神経質ではなかった。
カチャカチャと音を立てながら、検分された廃品や遺物が分けられていく。クーやタルアにとっては見慣れた光景だが、それに興味を持つ者もいた。
ストラップはクーの肩の上で、大きく目を開き首を傾げてそれを眺めていたが、やがて興味深げに廃品の山に近づき、クンクンと匂いを嗅いだ。
「アン? 何だァ? このチビ、どっから入りやがった? どけどけ、部品でも食われたらたまったもんじゃないぜ」
「待て、野良じゃない。俺が連れてきたんだ」
寝ぼけ眼でストラップの存在に気付いたタルアが、四脚四腕のトカゲを追い払おうとするのをクーは静止した。
「ハア? オマエが?」
「野犬に襲われてるところを助けてな。懐かれた」
「あんまり見かけねえヤツだな。何の生き物だかわかりゃしねえ、人間を食う怪物かも。どっちにしろ変異生物種だ。今のうちに殺しておけよ」
タルアはおもむろに、がらくたに埋もれた箱の中から銃を取り出した。
「よせ」
「アア? たかだがトカゲ一匹じゃねえか」
「良いだろ、たかだがトカゲ一匹放っといたって。こいつ一匹殺した所で何も変わらないのと同じ、生かしておいた所で何も変わりやしないさ」
ストラップは二人の会話にも気づかず、破損したアナログテレビの中に頭を突っ込んでいる。
「このチビ、群れとはぐれたらしい。どうも山の向こうから来たらしくてな。それで――連れて行ってみようと思う。群れがいる所までな」
「オマエ、こいつに情が移ったのか? 助けただけで?」
「まさか」
信じられないという顔をするタルアにクーは失笑した。
「随分とこの辺りしか歩いてないからな。こいつが案内する景色ってのを見るのもオツだろう。どうせもうすぐ終わる世の中だ。ちょっとくらい寄り道したって変わらんさ」
「そういうコトを言うと面倒だぜ。まだ世界は救われるって信じてる奴らも居るんだからな」
キイキイという声に目をやると、クーの足元にストラップが立っていた。その口には古い配線を咥え自慢げに見せつけている。
「随分と懐いてやがる」
「頭が悪いんだろうよ。こっちがちょっとその気になれば自分はぺちゃんこだって、気づいてねえのさ」
「ハン。外ねえ、もうすっかりなーんにもないだろうに、オマエみたいな外に行きたがる連中の気がしれねえぜ。シェルター都市には十分何もかも足りてるし、少なくとも今のところは安全だってのに」
「この都市に移住してきた時、俺はもうすっかり年だったからな。体が外に馴染んでるんだ。こんな壁の中でずっと閉じこもってるのは性にあわねえんだよ」
「オレだってオマエと変わらねえ年だが、こうしてちゃんと腰を落ち着けてる。外の空気なんて何年と吸ってねえ。だがすっかり慣れた。オマエが時代遅れなんだよ」
「そうかもな」
ストラップの咥えた配線を引っ張って遊んでやりながら、クーは呟いた。レスプ・マスクから呼吸が吐き出された。
「新しい時代についていけるヤツとそうでないヤツがいるのさ。俺は後者だった。――人類そのものは、どっちなんだろうな」
虹色の空は今や薄くなり始めていた。夜明けが過ぎ、空が徐々に青くなってゆく。窓の外では往来を行き交う人々が増え始めていた。
◆ ◆ ◆
人の住まうことのなくなった都市廃墟には、人以外のものが住み着くこともある。『タラヅカ』から西に位置するこの都市廃墟、かつては『トョナ』と呼ばれていた場所もそういった、変異生物種の棲家となっている。
太陽が昼に位置する頃、クーとストラップはその『トョナ』の廃墟を歩いていた。鞄の中には『タラヅカ』で揃えた旅の用意が収められている。食糧、簡易な寝床、衣服に、拳銃一式。ストラップは人間ではないので、食糧の用意だけで済むのは楽だった。
ストラップはすっかりクーを信用したようで、どこへ行くにもちょろちょろと後を追い、時には肩に乗った。たった一度救われただけで暢気なものだと思う。ある種の料理人の中には楽に獲物をしめる為、知能の高い動物を懐かせてから殺すともいう。クーが調理人であればきっとそうしていたことだろう。
『タラヅカ』で食料品を揃えに店を覗いた時は、したたかにもホットサンド屋の屋台に上り、クウクウと鼻声を鳴らした。結局、ストラップを可愛らしい客だと喜んだ店主によって、クーはホットサンドを二つ買わされた。ストラップは初め、香ばしく焼けたパンに興味を示していたが、一口かじると然程気に入らなかったらしく、中に挟まれたハムに気が付くとそちらの方を夢中で食んだ。結局、クーは残った二つ分のパンを食べる羽目になった。出来たてのホットサンドは空腹をよく満たした。
『トョナ』はこの辺りでは最初に破壊された街だ。かつては三番目に大きな都市だったが、今では崩れたビルや家屋に蔦や樹木が生い茂っていた。人気のない舗装道路の上を、額に角が生え、よく肥えた中型の変異生物種が通っていく。ここに住み着いた種の一つだろう。数匹の大きな個体の後ろを、小さな個体がついていく。どうやら群れのようだった。大きな個体は成獣で、未成熟な若者たちを誘導している。
ビルの上では首が二つ生えた鷹のような変異生物種が虎視眈々と獲物を探していた。
このような様子は南側の『ケーニシ』では見ることはない。『ケーニシ』に住むのは虫や鼠といった小型の生物種に過ぎず、中型以上の生物種が現れるとしても、そこを住処としている訳ではない。乾いた風が支配しようとも、未だ『ケーニシ』は人の土地の気配を残している。
しかしこの『トョナ』は違う。人の叡智の形でありながら、緑に覆われ多様な生物が生活している。もはやここは人の都市ではなく、彼らの土地だ。ここに生きる変異生物種にとってはショーウィンドウに突き出たアクリル製の屋根も自然の木々の覆いも変わりないようだった。
「食われるんじゃないぞ?」
「クイイ……」
レスプ・マスクの中から二つ首の鳥を示す。捕食者の存在を視認したストラップは、その場をやり過ごすまでクーの影に隠れるように歩いた。
『トョナ』の土地を半分ほど進んだ頃、ストラップが小さく鳴き声を上げた。
「クイイ」
「何だ? 方向でも間違ってるか?」
クーが足を止めると、ストラップはクーの足にしがみ付いた。それから鉤爪の付いた八本の手足で器用にクーの体を上ると、鞄の上でもう一度鳴いた。暫し思案したが、やがてクーはその意図に気がついた。
「……まったく、解ったぞ。おまえ、メシだろ?」
「クイイ!」
「おいおい、メシって言葉は覚えたのか? チビのくせに現金だな、お前は」
クーはレスプ・マスクの奥で苦笑した。昼食には丁度良い時間だった。クーとストラップは瓦礫の廃墟の中から程よく平らな場所を見つけ、そこで昼食をとることにした。
近くからかき集めた枝の上に携帯燃料の火が燃え上がる。冷たく乾いた空気に熱が灯った。
ストラップは小柄ながらよく食べた。朝にはたっぷりと分厚いハムを堪能したにも関わらず、今も分け与えられた食料に勢い良く噛み付いている。
天に星が瞬いてから二十数年。地上の生態系は一変し、変異生物種の研究はまだ進んでいない。何しろ、突如地球に数え切れないほどの新種が見つかったようなもので、その上彼らの多くはかつてより鋭い牙や巨体を備えており、おいそれと近付けるものではなかった。
故に、この銀色の鱗を持つ四脚四腕のトカゲの嗜好や生態も謎めいている。初めは肉食かと思ったが、与えてみればドライフルーツも好んで食べた。八本の四肢は器用なもので、しっかりと食べ物を掴むし、段差や壁も難なく登る。樹上生活をする種なのかもしれなかった。
四本の腕で抱えたドライフルーツの欠片を食べ終えると、ストラップは機嫌よく尻尾を上下させると、自分用の小さな水桶に鼻を突っ込んだ。
『トョナ』を抜ければ夕焼けの山に辿り着く。タルアの持つ地図で調べた所、山の麓には今も使われる道が存在し、その道をぐるりと回れば山の向こうへ辿り着くようだった。
ストラップの群れが山向こうのどこで暮らしているかは解らない。この小さな体で遠い道を歩けるとは思えないし、遥か彼方ということはないだろうが、このちっぽけなトカゲの言う通りに進むしかない。
心配があるとすれば食料のことだったが、山を越えた先にはシェルター都市の一つ『ウムダ』が存在する。『ウムダ』は『タラヅカ』より大きなシェルター都市で、他の巨大シェルター都市との地下直通線が通っている、大都市だ。先が遠いようであれば、そこで旅の用意を補給するのも良いだろう。
昼食を食べ終わり、クーは下半身にぶるりとしたむず痒さを催し、立ち上がった。食べれば出る。自然の摂理だ。
「ちょっと待ってろ、すぐ済ませてくる」
ストラップに声をかけ、クーは陰に向かおうとする。しかしちっぽけな怪物は短い足を動かし、クーの後を追おうとした。
「大丈夫だ。置いていくワケじゃねえ。待ってろ。解るか? 待て、だ」
出会ったばかりの野生種に言葉の意味が解るはずもない。しかしストラップは考えるようにじっと見上げると、クーの意図を汲んだように燃料焚き火の元へと戻った。
「そうだ、偉いぞ。荷物の番をしててくれ。頼りにしてるぜ?」
「クイ」
クーが軽口を叩くとまるで応えるようにストラップは鳴いた。一丁前に振る舞うその姿にクーは苦笑した。
ストラップを残し、クーは木陰へと近寄った。四脚四腕のトカゲはついて来ない。本当に意図を理解したようだった。
置いてきてしまったが、歩いている間だけでも多種多様な生物種が生息しているのを見た。概ね中型から大型の生物種だったが、ストラップのような幼体を狙う捕食者も少なくはないだろう。
早く済ませて戻ってやらねば――クーが思った時、茂みから音がした。
ズボンを下ろしかけたクーはぞっとして音の方向を見た。枯れ草の中から、赤い顔の獣がぬっと姿を現した。猿のような顔をした変異生物種は短い毛を逆立たせ、尖った唇から牙を見せた。上半身は猿のようだが、下半身はしなやかな捕食者の筋肉と長い尾を備えており、虎のようだった。
「チ――ッ……」
クーは逃げようとした。しかし猿虎の動きは素早かった。赤い顔の変異生物種は一足飛びにクーに組み付き、地面に押さえ込んだ。クーは抵抗しようとした。しかし猿虎の力は凄まじく、レスプ・マスクごと顔を引き裂かれ、呻いた。鋭い後脚がクーの古びたブーツを裂いた。猿虎の牙が肩に食い込んだ。
「クソッ! やめろ……!」
必死で足掻き、腰に下げた銃を取ろうとした。しかし慣れた金属の感触がない。失態だった。食事の際に銃を外したままだったのだ。猿虎が肉を食いちぎり、肩に痛みと熱が走った。溢れた血潮で服が濡れ、地面が濡れた。痛みで明滅する意識の中で、クーは死を覚悟した。
――その時、ギャンと低い悲鳴が聞こえた。猿虎の力が緩んだかと思うと、クーの体の上から伸し掛かる重みが消えた。その隙にクーは必死に近くの木に縋り、這いずるように立ち上がった。
痛む視界の中、クーが見たのは――大きな猿虎の尾に噛み付く四脚四腕の銀色のちっぽけな怪物の姿だった。
「ストラップ! よせ、逃げろ!」
己の傷も忘れ、クーは反射的に叫んだ。体格差は歴然としている。クーの胸ほどもあろうという赤顔の猿虎に対して、ストラップの体躯はその四分の一すらない。しかしストラップはその牙を放そうとしなかった。背に乗る小さな敵を振り払おうと猿虎が暴れる。猿虎の爪がストラップの腿をかすり、引き裂いた。しかし四脚四腕の銀のトカゲはその逆立つ剛毛をしっかりと掴んでいた。
壮絶さにクーは息を呑んだ。低い悲鳴が上がった。血を零したのは猿虎の方だった。頭頂部まで上り詰めたストラップの指が猿虎の片目を抉り抜いたのだ。赤顔の獣は痛みに一際大きく暴れ、ストラップは地面に転がり落ちた。凶暴な捕食生物は狂乱に陥り、片方の目から血を溢れさせながら、茂みの方へと逃げ去っていった。
「ストラップ!!」
クーは小さな怪物の名を呼び、破れたブーツにも構わず駆け寄った。ストラップは高揚からか、敵の逃げた方を睨み、フスフスと鼻息を荒げていたが、近寄るクーの方を見た。クーはしゃがみこみ、血の滴る四腕の一つを握った。
「ストラップ! ハハッ! お前やってやったのか! やるじゃねえか、さっきは鳥にビビってた癖に、ああ、凄かったぜ、立派なやつだお前は!」
クーの興奮が伝わったのか、ストラップもまた己の戦果を誇るように首を上げた。その左腿には戦いによる傷が刻まれており、銀色の鱗の内側の肉が見えていた。痛々しいそれにクーはそっと触れた。
「ああ、くそ。無茶しやがって。馬鹿野郎。いや、馬鹿は俺だ、お前を置いていった上しくじった」
悔いる声に、ストラップは首を傾げた。クーは苦笑した。
「ああ、助かった。お前は命の恩人だぜ」
レスプ・マスクの奥で笑ったのが伝わったのか、ストラップも喉を鳴らした。クーにはそれが嬉しく思えた。
クーは銀の鱗を赤く染めた小さな怪物を抱き上げると、肩の痛みを堪えながら荷物の所へと戻っていった。
◆ ◆ ◆
『トョナ』の廃墟を抜けてからは、クーとストラップは延々と歩き続けた。人の手によって舗装された道路は割れ、傷んではいたが未だ使う者がいるのは確かなようで、風化してはいなかった。
猿虎によってブーツは破かれてしまったため、『トョナ』の半壊した家から発掘した別のブーツに履き替えていた。長く使い続けた靴を捨てるのは惜しかったが、使い物にならなくては仕方がない。捨てられたブーツは小型の生物種の巣になるか、植物の苗床にでもなるだろう。
ストラップは思いの外、良き旅の相棒だった。ちょろちょろと動いては道行くものに興味を示すさまは飽きなかったし、一度の戦闘を経て感が磨かれたのか、危険な変異生物種が近くに居る時はクーよりも早く気がついた。
『トョナ』を出てから一晩が経過し、クーたちは山の半周まで辿り着いていた。『タラヅカ』を経ってからは二日目。『ケーニシ』での晩から数えると三日目となる。
この山を越えれば、ストラップの群れが居るのか。それは解らない。少なくとも次の都市はある。
今夜は一際寒く、冷たい空気に晒され夜空の星も一際白く輝いていた。
今日の宿泊地の近くには、『ケーニシ』にあったものと同様、銀の花の群生地が月の光の下で静かにさざめいていた。この花の咲く期間は短い。開花日から三日目を迎え、多くの花弁は萎れ始めている。
随分と心配したが、一日が経過してストラップの腿の傷は殆ど塞がっていた。クーの傷はまだ痛んでいるにも関わらず。変異生物種ならではの回復力なのかも知れなかった。
燃料焚き火が燃え、火の粉が爆ぜる。ちらちらと風に舞う火の粒がストラップの銀の鱗に煌めく。
食事を終え、腹をでっぷりと丸く膨らませたストラップは眠たげにクーの側に寄り添った。
安心しきったその姿に――クーは遠いものを見た気がした。
――否。それは幻覚だ。そんなものはない。それは、とうに失われているのだ。
他の幾万もの人間たちと同じように――。
◆ ◆ ◆
――それは、夢だ。遥か彼方の追慕に在り、今なお寄り添う記憶だ。
「お父さん! 見て見て! とっても綺麗!」
小さな子供が銀の花畑の中で踊った。月明かりの下で、腰につけた明かり石のストラップが揺れる。
――あの頃の夢だ。人間の世界が壊れ始めた頃。それでも、まだ生きていけると信じていた。未来に希望があると信じていた。
眠りに落ちた脳が作り出した幻であると理解していても、クーはその光景から目が離せなかった。
新品のブーツが草を踏んだ。銀の花粉が美しく空気に広がった。天の星が落ちる前はなかった、幻想的な光景。小さな子供がクーの元へ駆け寄った。その顔は未知の光景への興奮と、変わってしまった世界への少しの不安があった。
「お父さん――わたしが大きくなるまで、世界はあるのかな」
「ああ、大丈夫だ」
クーは安心させるように子供を撫でた。
「大丈夫だとも。俺がついてる。お前が立派な大人になるまで、導くのが父さんの役目だ」
涙が溢れた。何故だろう、こんなに幸せな時間に、涙を流す理由などあるはずもないのに。
「さあ、家に帰ろう、■■■■■――」
◆ ◆ ◆
熱い舌の感覚で、クーは目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだった。燃料焚き火は消えている。温かい感触に意識をやれば、そこにはクーの目元を舐める四脚四腕の小さな怪物の姿があった。
どこか不安げに見つめるストラップの銀の鱗を、クーの手が優しく撫でた。
「ああ、大丈夫だ。俺がついてる。お前が群れに戻るまで、俺が導いてやる」
静かな夜の中でたった二人きり、寄り添う小さな怪物の細い腕をそっとクーは握った。
「……さあ、家に帰ろうストラップ」
◆ ◆ ◆
翌日。『タラヅカ』を出て三日目。『ケーニシ』から数えれば四日目。
クーとストラップはあの夕日の山の向こう側へと辿り着いた。
聳える山の麓は草木の少ない乾いた土地だった。夜明け前の空は暗く、山が大地へと影を落としている。山頂にはぐねぐねと動く巨影が見えた。
岩陰から一歩進み、クーは初めて見る山向こうの風景を見た。
――そこには怪物が居た。
かつて都市だった場所に、巨大な体躯の変異生物種が歩いている。近くに、遠くに、ゆっくりとその生き物たちは崩れた家屋を跨いで歩いていた。同じような姿をするそれらは群れのようだった。
薄汚れた壁の近くで、破壊されたエネルギー・シェルターの青い輝きがばちばちと光っていた。
「ほら、行かないのか?」
クーが促すと、ストラップは嬉しそうに四脚四腕を持つ大きな変異生物種の群れに向かっていった。
群れの一匹がストラップの姿を認めると、屈んで鼻を合わせた。
その様子に気付いた群れの何匹かが集まってくると、ストラップに肉を分け与えた。人の腕であろうそれに、ストラップは嬉しそうにかぶりついた。
「……ストラップ」
遠いその姿を見て、クーは我知らず、肉を食うそれの名を呼んだ。
ストラップ――今はただのチビの怪物に戻ったものは一心不乱に肉を食べていたが、クーの声を聞き留めると齧り付くのを止め、振り向いた。クーは微笑んだ。
「いや、悪い。邪魔したな。そのまま食っててくれ」
返事をすると、ストラップはまた夢中で肉に食らいついた。
――ああ。良かった。
クーは満たされていた。破壊した都市に住まう変異生物種の群れも、散乱する血肉も何も気にならなかった。何もかもが失われたこの世界は、全てを満たしていた。肉を食み、骨を割る音が幾つも聞こえる。
きっとこれは人間の世界が終わる音なのだろうとクーは思った。
――ああ、満足だ。
この光景にクーは満ち足りていた。人類の行く末に絶望したわけでも、やけになったわけでもない。
――ただ俺は、失った心を満たしたかった。
たった一度で良い。また愛すべき家族を得て、愛するものの為に生きたかった。俺は誰かを愛したかった。それが、この小さな怪物だったというだけだ。それがやがて人類を滅ぼすであろう怪物であっても良かった。
「助けてくれ!」
人間の声が聞こえた。クーはそちらを見た。大柄な体格の男が必死に逃げていた。その体には無数の傷がある。大方、クーと同じ外の探索を生業とするものだろう。餌として捕まり巣たる都市まで運ばれたのだ。
クーは見知らぬその男の胴に銃を撃ち込んだ。
動かなくなった死体を見てストラップは驚いた顔をし、クーの方を見ると、それから嬉しそうに出来たての温かな肉塊に近寄り、かぶりついた。
――俺は幸せだった。
かつては存在しなかった、虹色の朝日が登った。
新しい日が訪れた。