「仮面ライダーオーズ10th復活のコアメダル」から「絶望」の正体と、「仮面ライダー」というコンテンツの在り方を考える
まずはじめに、「仮面ライダーオーズ10th復活のコアメダル」の感想となるこちらの記事に、たくさんのアクセスありがとうございました!
『「仮面ライダーオーズ10th復活のコアメダル」が与えたのはトラウマだけじゃない…!本編のメッセージを帳消しにしてしまった時代錯誤な絶望』
SNSは可能な限り制限していますが、Twitterに寄せられた引用リツイートなどのご意見は読ませていただいております。
本当にどうもありがとうございます。
私としては上記の記事で映画についての話は終わりにするつもりだったのですが、皆様からのご感想や隙間から入ってくる情報に関して、また思うところが出て来ましたので、再び「感想文」を書くことにしました。
なお、これは誰かを批判するために書いた感想ではなく、あくまで私の心の整理です。
ただし、私自身が映画の否定派なので、そちら寄りの意見になってしまうことはお許しください。
また、きちんとしたデータ収集の結果ではなく、一部の情報から感じたことのみのまとめとなります。
もちろんネタバレもありますのでお気を付けください。
ちなみに、私の記事を初めて目にしてくださった方は、1回目の感想から読んでいただけますと分かりやすいかもしれません。
メンタルをやられてしまった方の予想以上の多さ
前回の記事でもお伝えした通り、私は10周年の映画に絶望してしまったため、基本的に情報をシャットアウトすることに決めました。
ですが、Twitterに記事URLを投稿させていただいていたので、その動向だけはチェックしております。
その結果、一定数の方からリアクションをいただきました。(ありがとうございます)
数としては多いと言うべきか少ないと言うべきかわかりませんが、ひとつハッキリしているのは、メンタルをやられてしまっている方の数が予想以上だったということです。
「メンタルをやられている」というのは、一過性の絶望ではなく、心に深い傷を負うレベルという意味です。
リア友からも「劇場で泣いてしまって立てなくなった」知人の方がいるなどの話を聞き、とても悲しくなりました。
その反面、「楽しかった!」「面白かった!」とおっしゃる方がいるのも認識しております。
それは本来「よいこと」です。
しかし、絶望している側にとっては、肯定派が制作側と楽しそうにしているのを見るのも、辛さを増長させる要因となります。
まさに負のスパイラルです。
そういった負の感情は、簡単に癒せるものではありません。
おそらく、制作側が「ごめん、これやっぱなし!」としてくれるまでは、絶望が完全に消えることはないでしょう。
しかし、「これやっぱなし!」としたら、今度は映画を評価した人たちがガッカリすることになりますよね。
実際の割合はさておき、このような肯定派と否定派は、どちらも一定数の方がいるように感じています。
この状況から私は、「もう、ファン全員で仲良くオーズを楽しむという未来はなくなってしまったんだな…」と思いました。
世界平和に言及していた「仮面ライダーオーズ」という作品にとって、一番悲しい結末です。
今回は、そんな事態を踏まえつつ、なぜ私が絶望したのかをもう一度整理してみます。
まずは、この映画が極端に賛否両論に分かれた理由を私なりに考えてみました。
僕らしいってなんだ?
…というのはAtoZのフィリップくんの台詞ですが、今回はフィリップくんではなく「映司くんらしさ」について考えてみようと思います。
今回の映画における賛否両論の論点は、なんといっても「映司くんの死」です。
おそらく、映司くんが死ななければここまで極端な二分化が起こることもなかったでしょう。
実際、「映司くんの死」については、「映司くんらしい」と思う方と、「なんか違和感ある」と思う方がいるようです。
それを賛否の理由として考えてみます。
私たちの知る限り、本編最終回まで、映司くんはざっくり以下の流れで生きていたと思います。
①「世界平和を目指す」→
②「自分の力が及ばないことを知り絶望」→
③「アンクたちと最終戦を終えて絶望を乗り越える」
で、私たちが一年間見ていたのは②の時期の映司くんです。
②の時期の映司くんは、「自分の手が届く範囲で人を救う」という信念を「手が届く限りは命に代えても」と言わんがばかりに、とにかく無茶しまくります。
そして、今回の映画の映司くんも、おそらくそんな感じの行動をしています。(あまり出てこないので厳密にはわからない)
なので、一年間②を見続けた方が、映画を見て「映司くんらしい」と思うのは当然なのです。
ずっとその姿を見ていたので。
ではなぜ、「違和感あるな」と思う方がいるかと言えば、そういう方は①と③、特に③の方をすごく大事にしているからだと思います。
本編ではほとんど描かれていない①と③ですが、わずかな情報や起こった出来事などから、「映司くんの過去と未来は、きっとこんな感じだろう」と想像することはできます。
そうすると、③を経験してから10年経った映司くんに対して「②のままで成長が止まっているわけがない」という考えに至るのです。
これが違和感の正体だと私は考えました。
「オーズらしさ」の捉え方の違い
とはいえ、この「映司くんらしさ」の捉え方が二極化したポイントだと明言するには、ちょっと弱い気がします。
中には、映画の「映司くんらしさ」を認めつつも、否定派だという方もいると思いますし…。
さらに映画に映司くんがほとんど出てこない以上、この件についてこれ以上の深堀はできません。
なので、もう少し視点を大きくして、今度は「仮面ライダーオーズ」という作品「らしさ」を考えてみます。
というのも、私は制作側から「この映画はオーズらしい」と言われたときに、とても違和感があったのです。
ではなぜ、感じ方がこうも極端に違うのでしょうか。
結論から言ってしまうと、それは「映司くんとアンク以外の人物を重視しているかどうか」にあるような気がしています。
本編でも映画でも、映司くんは命をかけて人を助けます。
そこを重視した場合、特に映画に対して違和感はありません。
では、比奈ちゃんの視点で見るとどうでしょうか。
本編の比奈ちゃんは、一般人ながらできる限りの行動と思いやりで、映司くんを救いました。
ところが、映画の比奈ちゃんは、なんだか受け身なばかりで大した努力もせず、ほぼ映司くんのことを見殺し状態です。
(ごめんなさい…なぜそう思うかは後述します)
この「比奈ちゃんの在り方」に注目するかどうかが、映画の賛否の分かれ目な気がしているのです。
もちろん、比奈ちゃんだけではありません。
本編の終盤、比奈ちゃん、伊達さん、後藤さんの役割は完全に「映司くんを救うこと」にシフトしていました。
ここに里中さん、知世子さん、さらにアンクまで加えてしまうと、映司くん以外のほぼ全員が「映司くんを救うこと」を目的にしていたとさえ言えます。
その「映司くんを救う」という裏テーマとも言えるべき要素が、映画では完全に「なかったこと」のようにされているのです。
それが、私が「オーズらしくない」と感じるもっとも大きな違和感でした。
では、本編と映画を比較した際、「映司くんを救う」という点においてどんな差があるのでしょうか。
以下は私の個人的な解釈ですが、具体的に考えてみました。
知世子さんの存在意義
最初からちょっと個人の意見が強めの話になるのですが、自分の中で結構思い入れがあったので、まずはこの台詞を紹介させてください。
「もっと欲張っていいじゃない!映司くんも、アンクちゃんも、お兄さんもって、ちゃんと欲張れるのは比奈ちゃんだけよ!」
これは、本編最終戦直前で、すべてを知った知世子さんが比奈ちゃんにかけた言葉です。
普通に考えればなんとも非現実的で、大それた欲望…という感じなのですが、妙な説得力があります。
知世子さんは、グリードの話を一瞬で信じるほど、非科学的な話にも動じません。
それはおそらく、自身がそんな不思議体験を何度もしてきたからです。
その中には、「欲望」という「目に見えない力」が奇跡を起こすという経験も含まれていたように思います。
つまり、この妙な説得力の理由は、知世子さんが本気で、「欲張ること」で全員救うことができると信じていたところにあると思うのです。
八方塞がりのあの状況で、比奈ちゃんができることはほんの少しです。
でもそのほんの少しの行動と、知世子さんの言った「欲張ること」=「願うこと」の力で、映司くんとお兄ちゃんは本当に戻ってきました。
アンクはいなくなってしまったけれど、最後に映司くんに見せた悪戯っぽい笑顔や、比奈ちゃんに見せた優しい表情は、比奈ちゃんの望んだものだったと思います。
それが私には、知世子さんと比奈ちゃんの「願いの力」が叶えた奇跡にも見えたのです。
この一連の奇跡を描いてくれたことで、私は「仮面ライダーオーズ」という作品が「目に見えない力」を肯定してくれたのだと、嬉しくなりました。
そして、この台詞が大好きになったのです。
ところが、映司くんが死んでしまったことで、この台詞は完全に力を失いました。
あんなにも希望と生命力にあふれた言葉が、今はただ期待を持たせただけの、夢見がちで無責任な言葉でしかありません。
「まぁ、現実はそんなに甘くないからね」と言っても、知世子さんはオーズの世界の人です。
なぜ、オーズの世界の中で、知世子さんが否定されなくちゃいけないんでしょうか。
知世子さんの無力さを見せつけられてしまったようで、なんだか釈然としません。
後藤さんの存在意義
もう一つ、本編で私がとても好きな台詞が、最終戦を控えた後藤さんのこの言葉です。
「前に、世界を守るなんて言ってたのが信じられませんよ。人1人助けるのだってこんなに難しいのに」
こちらディレクターズカット版に収録されているものなので、テレビ放送ではなかったようです。
ただ本当に、このシーンは短いながらめちゃくちゃいい…!
見たことないよという方にも、ぜひ見てみていただきたいです。
オーズ本編で成長したのは何も映司くんだけじゃありません。
経緯は違えど、世界平和を一人で達成することの難しさに気付いて、誰かの手を取ろうとしたのは後藤さんも同じだと思うのです。
後藤さんの言葉に対して、「それを知ってるか知らないかで、全然違うよ」と答える伊達さんにもぐっときます。
伊達さん自身も、きっと以前、そんな想いを体験していたのでしょう。
みんな、世界が平和になるといいなと思ってて、でも現実ってそんな甘くなくて…だから、自分の「手の届く範囲」のことをする。
そして最後、映司くんが後藤さんの手を掴むことによって、その「手の届く範囲」はぐっと大きくなります。
つまり、映司くんの「俺が欲しかった力、どこまでも届く俺の腕、それってこうすれば手に入ったんだ」というのは、後藤さんの想いでもあったんじゃないかな、と私は思うのです。
後藤さんは「映司くんを救う」ことによって、目的を一つ達成しました。
それは、後藤さんにとって、世界平和の第一歩だったようにも感じています。
しかし、これも映司くんが死んでしまったらすべて台無しです。
本編であんなに悩んだ末、映司くんを救うことだけに集中した後藤さんの想いや努力は…?
全部無駄になってしまいましたが、よかったのでしょうか。
伊達さんの存在意義
そんな感じで本編では、最終戦に近づくほどに、みんな「映司くんを救うこと」に真摯になっていきました。
しかし、おそらく映司くんを「救うべき対象」だといち早く気付いていたのは、伊達さんです。
それはもう、出会った瞬間から「映司くんは自分を泣かせるタイプ」と察知していたくらいですから。
にもかかわらず表立って協力できなかったのは、伊達さんには「医者」として、自身を優先させなければいけない事情があったからです。
伊達さんは「他人を助けるために、まず自分を守る」ことをモットーとしています。
伊達さんの強さや賢さは、「自他共に守る」を実現するための努力の賜物であり、だからこそ一般人にはありえない能力でバースの力をモノにします。
きっと、実際に野戦病院で働き続けるというのも、そのくらいの力量と覚悟がいるものなのでしょう。
そんな伊達さんのことを、私は、「リアルに他人を助ける仕事をしている人」の反映だと思っていました。
伊達さんの行動には無駄や隙がなく、数々の修羅場をくぐってきたことを想起させるリアリティを感じます。
(その意味では、たぶん映司くんが目指すべき人物像でもあったはず)
ところが、映画の伊達さんは、「それじゃ戦場で生きていけないのでは…」と思ってしまうくらいポンコツです。
ゴーダとちょっと取引めいたことをしに行っていましたが、特にこちら側の利点となるような機転の利いた話はできず、リスク管理もゼロ。
そもそも何の話をしたかったのか、未だに謎です。
さらに医者であるにも関わらず映司くんの延命措置はなし。
駆け寄ってちゃんと診ようとすらしません。
本当に戦場で活躍していた経験があるのか、疑いたくなるレベルです。
こんなやる気のなさでは、「他人を助けるために、まず自分を守る」なんて言われてもまったく説得力がなく、伊達さんの人物像にまで危うさを感じます。
比奈ちゃんの存在意義
しかし、今回の映画において伊達さん以上にやる気を感じられないのが、比奈ちゃんです。
本編の比奈ちゃんは、怪力とはいえ戦闘に参加することはなく、あくまで一般人・傍観者としての立ち回りをしています。
そのうえで、人の感情や状況を素早く察して、適切な言葉をかけ、的確な行動をとる…その様はものすごく優秀で、空気の読め方に関しては凄まじいとしか言いようがありません。
だから何なのかというと。
私は比奈ちゃんのことを「視聴者の反映」と思っていたのです。
本編の比奈ちゃんの言動は、驚くほど私の思考とシンクロしていました。
物語が進めば進むほど、比奈ちゃんの悩みは私の悩みになり、比奈ちゃんの喜びは私の喜びになり…と、異常に感情移入しやすいのです。
まぁ、私が比奈ちゃんと同じ女だからそう思うのかな~ということもありますが、お子さんの立場から見ても共感しやすかったのではと思います。
そんなわけで、私にとって比奈ちゃんの言動は、一番信用に値すべきものとなっていました。
だから当然、比奈ちゃんは本編と同じように「映司くんとアンクを救うために全力を尽くしてくれる」と思っていたのです。
なので、映画序盤。
比奈ちゃんが「こんな時、映司くんがいてくれたら…」と他人事のように言ったとき、私はこう思いました。
「きっと、映司くんはふらっと単独行動にでも行っちゃったんだろうな~」、と。
だからその後の回想シーンも、そこまでシビアな状況にはまったく見えませんでした。
「え、普通コレ死ぬよね…映司くん強すぎ笑」なんて思ったくらい、ものすごく軽い気持ちで捉えていたのです。
本当の本当に、私は、終盤アンクから「映司、なぜ死んだ?」と言われるまで…映司くんが本気でほぼ死んでいる状態なんて考えもしませんでした。
それは完全に、あの時の比奈ちゃんの台詞があまりに楽観的すぎたせいです。
だって、死にかけているのがわかっていてのそんな台詞…。
「映司くんがいてくれたら」って…もしかしたら死んでるかもしれないんですよ。(実際死んでたし)
なんで、死にかけてる人を宛てにするような、そんな自分勝手な思考回路になるんでしょうか。
(と書きながら、さすがにこんなひどいこと言わないかも、という気がしてきました。
もしかしたら「いてくれたら」じゃなくて「いたら」とかだったかもしれないですね。
それでも、受身なことに変わりはないですが)
とにかく、あのときの比奈ちゃんから「映司くんの安否を本気で心配している」様子は、まったく伝わってこなかったのです。
さらに、前回の感想にも書いた、ゴーダの「(女の子は)死んだよ」という言葉に、さらっと「…そう」と返すやりとり…。
…いや、誰が見てもそいつ明らかにおかしいよ…?
もしや…比奈ちゃんも偽物?とすら疑ってしまいます。
もはや、本編ではあんなに心を通わせていた比奈ちゃんという人が、映画ではまったくわからなくなりました。
あんなに賢くて一途だった比奈ちゃんが、「頭空っぽ」みたいになってしまっていて、感情移入どころではありません。
比奈ちゃんの想いに寄り添い過ぎた人の末路
そんな違和感を抱えながらも、私は本編を見ていたときの癖からか、無意識に比奈ちゃんの気持ちに寄り添って映画を見ていました。
映画には、比奈ちゃんがアンクに、「また3人で手を繋げるかな?…私、信じてもいいよね?」と語るシーンがあります。
この想いは、私も同じでした。
なので私は迷いなく、比奈ちゃんのこの台詞に、自分の想いも乗せたのです。
当然、それが叶うと信じて疑いもしませんでした。
だって、本編では一度叶っているのですから。
だから、この想いが打ち砕かれたときは、本当に信じられない気持ちでいっぱいでした。
形式上は、最後の最後で映司くんの手を取って、3人でとりあえず手はつないだものの。
比奈ちゃんだってそういうつなぎ方を望んでいたわけじゃないでしょう。
そもそも、あの願いは「全員無事でありますように」という趣旨のものではないのでしょうか。
ちなみにここが、私の中で、知世子さんの「ちゃんと欲張れるのは比奈ちゃんだけよ!」も否定された瞬間です。
まともに「映司くんを救う」ための行動をしている人もいなければ、「映司くんを救いたい」という想いが届くこともない。
こんなの、私にとってはもう全然、オーズらしくなんかないです。
別人が出てくる別の世界線のお話です。
これが「アンクとの絆」を描くための代償だったとしたら、あまりに残酷です。
「絶望」の正体
こんな感じで考えた末、私は自分が思った以上に、比奈ちゃんたちに感情移入していたことに気付きました。
多分私は、本編最終回で無意識に、空から落ちて来る映司くんに向かって、比奈ちゃんたちと一緒に心の中で手を差しのべていたんだと思います。
そして、映司くんはその手を取ってくれた…と、信じていたんだと思います。
でもこれって大袈裟ではなく、もしかしたら、もっと感受性の強いお子さんにとっては、無意識ではなく当然のことだったかもしれません。
中には「映司くんと一緒に平和な世界を作ろう」と思った子もいたかもしれませんね。
もちろん大人の方の中にも、「映司くんのことを救いたい」という強い想いがあった方が、きっといたはずです。
私たちは視聴者です。
実際に映司くんをどうこうすることはできません。
でも、本編で一度「救えた」ような気がしたから…今回の映画で「救えなかった」という印象が大きく残るのだと思います。
そのとき感じるのは、「自分の無力さ」です。
理屈ではなく、「『自分が』映司くんのことを救えなかった」と感じてしまうのです。
それが私の「絶望」の正体でした。
ちなみに、今回の映画では、映司くんは私たちの手なんか必要としていなかったこともわかってしまいました。
のばした手は、「仲間との協力」の意味じゃなかったんですから。
何とも夢のない話です。
そして、もしも私と同じように映司くんを信じていたお子さんがいたとしたら…それが一番悲しいです。
10周年だから、みんなのなかに理想がある
というわけで映画の賛否は、「映司くんの死」を「他人事として捉えるか」、「自分事として捉えるか」で分かれる…だったんじゃないかなと、私は自己完結しました。
ここまで読んでいただいて、「えっ…さすがに妄想激しくない…?」と思った方。
もちろん、そういう方がいてもいいのです。
作品をどう楽しむかは個人の自由なのですから。
作品の見方は、「冷静に見ろよ」とか「もっと想像を膨らませろよ」とか、誰かが強制するようなものではありません。
ましてや、一人一人が抱いた感想に制限をかけることはできません。
だから私がどう感じるかも自由です。
もっと別の理由で絶望した方もいるでしょうし、それもその方の自由です。
それを、視聴者同士で「理解できないなぁ」と思うのはいいと思います。
ただし、制作側は別です。
創造主である制作側は「絶望してしまった人の気持ち」も、受け入れる必要があるのではないでしょうか。
そもそも、視聴者による作品の捉え方の違いは、「オーズらしさ」、「映司くんらしさ」のような大きな部分だけでなく、もっと細かいことにも存在します。
それは、本編の放送から10年も経っているのでなおさらです。
10年経てば、ファンそれぞれの中に「理想の映司くん」「理想のアンク」も出来上がっています。
「いつも優しい映司くん」が好きな人もいれば「ちょっと毒舌な映司くん」が好きな人もいます。
「ツンの多いアンク」が好きな人もいれば「デレの多いアンク」が好きな人もいます。
新作を出すとなると、そういう部分は誰かがガッカリするしかありません。
どんなに面白い話を書いたとしても、10年経った作品を掘り起こしたら、どこかのポイントで「誰かが嫌な思いをする」というのは、致し方ないことなのです。
それても、「敢えて」、手を出したのです。
本来だったら完結している作品に、マイナスな印象を持つ人が出てくる覚悟で取り組んだのです。
だとしたら、「被害がより少ないように」するのが、ファンへの思いやりなんじゃないでしょうか。
もちろん、普通の作品だったら、視聴者の顔色を窺って作品を作るのはどうかと思います。
しかし、今回は特殊なケースです。
既に思い入れを持った人が多いというだけでなく、公式に「ファンのため」と銘打った作品でもあるのですから。
それで一定数の「ガッカリ」を超えた「絶望」を感じる人が出てきてしまったのですから、「企画不足」、「リサーチ不足」、「技術不足」という「失敗」は、認めるしかありません。
「仮面ライダー」だから、人を傷つけたことに対する責任がある
さらに、私がこの事態を制作側に見過ごしてほしくないな…と思うのには、もう一つ理由があります。
それは、これが「仮面ライダー」を名乗るコンテンツだからです。
「正義」を語る「仮面ライダー」が人を絶望させるなんて、一番やっちゃいけないことのはずです。
もちろん、時代によって「正義」の捉え方は様々です。
視聴者の趣味嗜好も変わりますし、全員が全員満足するような作品を作るのは、もはや不可能と言っても過言ではありません。
描き方によって誰かのトラウマを呼び起こして、傷つけてしまう…ということだってあるかもしれません。
それでも、たとえそうだとしても。
「仮面ライダー」というコンテンツであるならば、可能な限り人に「希望」を与える努力をしてほしいのです。
だって…石ノ森先生の褌で相撲を取ってるんですから。
石ノ森先生の作品でビジネスをする以上は、そこだけはわきまえるべきなんじゃないかなぁと、思うのです。
そしてもしも、結果的に人を「絶望」させてしまったのであれば。
その事実を受け入れることこそが「正義」に恥じないやり方だと思います。
だから、たとえ楽しんでいる人がいたとしても、それだけを結果として捉えず、絶望した人たちの気持ちも受け止めてほしいのです。
それは「これじゃ映司くんが浮かばれないよ!」と無理に納得させようとする言葉ではありません。
「これは失敗だった」と認めることです。
私の「本当にやりたいこと」
色々書きましたが、「だから謝罪しろ!」というわけではなく、今回もこれは私の気持ちの整理です。
なお、私は既に今回の映画関連の情報をシャットアウトし、映画はなかったことにしようと決めていました。
こうして改めて考察しても、やっぱり映画の映司くんと比奈ちゃん、伊達さんあたりは本当に別人だったのかも、という気さえしています。
でも…基本的にはそういうスタンスでいますが、残念ながら映画のことを綺麗サッパリとは忘れられません。
映司くんには元気で生きててほしかった…。
たとえ架空の人物だとしても…。
それは、普通に生活していて、家族や友達に対して当たり前に思う気持ちと一緒です。
だから、映司くんを好きでいる限りは、心の傷が完全に消えることはないんだなと感じました。
それと同時に、だんだんと「もう傷を負ったまま生きればいいか」という気にもなってきました。
絶望しても、悲しくなっても、どうあっても、私はこれからも映司くんのことが好きですし、もうそれだけで十分かなという、なんだかわけのわからない境地に達しています。
たとえ映司くんが、私の助けなんか必要としてなかったとしても。
たとえ比奈ちゃんたちが、もう一緒に映司くんに手をのばしてくれなかったとしても。
私は、これからも、映司くんが幸せになるために、手をつかむ努力をしたいと思います。
(アンクは…アンクに対しても言いたいことはあるのですが、まとまらなくなるのでカットしました笑)
そして叶うなら、この映画で嫌な想いをしている全ての人にも、幸せになってほしいです。
私がこの記事を書くことによって、映画を「純粋に楽しんでいる方」や「一生懸命作った制作側の方」も、嫌な想いをしているかもしれません。
そういう方にも、幸せになってほしいです。
偉そうに綺麗ごとを言ってすみません。
でも感想文なので、思ったことをありのままに書きます。
誰かがどこかで傷つけあったりしないことを祈っています。
そして、東映さんがこのことを真摯に受け止め、今後について検討してくださることを願っています。
「仮面ライダー」が「仮面ライダー」である限り、すべての人に「希望」を与えられるコンテンツとして存在していってほしいです。
最後に、映画で絶望されてしまった皆さまへ。
ここまで読んでいただき、どうもありがとうございました。
私の言葉が届くかはわかりませんが、皆さんの悲しみや怒りは当然のことです。
私がここまで長ったらしい文章を書いているのも、感情を整理するためですから…お気持ちは少しながらわかっているつもりです。
どうか皆さんが、少しでも元気になれますように。
私は祈ることしかできませんが、知世子さんの言葉を信じて、欲張って願わせていただきたいと思います。
全てのオーズファンの皆さまが、幸せでありますように!
読んでいただき、ありがとうございました!
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