見出し画像

「もしも、イースターがなかったら??」 ルカの福音書24章1〜12節 2023.4.9 守谷キリスト教会礼拝

キリスト教信仰の特徴を一つ挙げるならば、

イエスが本当に十字架で死に、そしてよみがえったことを、

「歴史的な事実」として受け止め、
その認識を信仰の大前提としていることです。


イエスは
「信者や弟子たちの心の中で」よみがえったのでも、
「私たちにとって」今も生きているのでもありません。

「キリストがよみがえらなかったとしたら」自分たちの宣教も信仰も空しいと
パウロが言っている通りです。

"そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。"
コリント人への手紙 第一 15章14節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


ルカや他の福音書の記者たちは、

イエスが死んで葬られたこと、
そして墓が空だったことの

最初の目撃者が女性たちだったと伝えています。

もしも、イエスの復活についての記事が捏造だとしたならば、
なぜ創作者たちは
当時社会的な信頼度が低いとされていた女性たちを目撃者としたのでしょうか。

また、
十字架を前にして逃げ出し、隠れていた弟子たちが、
たった数ヶ月後には大胆にキリストについて証し、
やがて自分たちの命を落とすまで
世界中にキリスト教を伝えていくことが、
どうしてできたのかについても説明が必要になるのです。


さらにイースターは、古い世界が過ぎ去り、
すでに復活が起こった新しい世界に
私たちが生かされていることを思い出させる日でもあります。

古い世界は完全に終わったのではなく、過ぎ去ったのです。

だから、残存している悪もまだあります。

しかし、すでに新しい世界は始まり、
やがてイエスが再び来られる時、完成するのです。


私たちは、
イエスが新しいからだをもって復活した永遠のいのちを、
今生かされているこの新しい世界にあって体験するようにと招かれています。

罪人たちの手に引き渡されたイエスは、弟子たちに
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」
と招かれました。(ルカの福音書9章23〜24節)


自分の十字架とは、
神がこの新しい世界において、あなたに託しておられる使命です。

それは自己実現で終わることはありません。
隣人や他の被造物のために仕える時、
それに伴って様々な感情的な困難を覚えたり、
犠牲を払わなければならないことがあります。

しかしその時、
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです」
という復活のいのちを体験します。


ですから私たちは復活を信じたところから、さらに一歩前進しましょう。

イエスを死者の中からよみがえらせた神の力が私たちを通して、
私たちを遣わされている場所を変えていきます。

この信仰は、復活という歴史的事実に基づいているのです。


いいなと思ったら応援しよう!