使徒の働き3章1〜11節「私たちを見なさい」と言えるために。
ペンテコステの日に誕生したエルサレムの教会の姿は
使徒の働き2:43-47節に記録されています。
「教会」と言っても彼らは建物を持っていたわけではありませんでした。
「宮に集まり」とは、
エルサレムの神殿に集まっていたということです。
このことはキリスト教の性質にとって非常に重要です。
キリスト教は単に
道徳規範や社会を都合よく回すために作られた哲学ではないのです。
私たちは、ユダヤ教で信じられていた約束がすでに実現し、
世界は次のステップに入ったと信じています。
そしてさらに、この地にあって神の国がやがて完全に実現するという希望を、
私たちは持っているのです。
ある日、ペテロとヨハネはユダヤ教の伝統に従って、
祈るために神殿へ行き、生まれつき足が不自由な男性に出会います。
私たちが生きる消費社会は「何を持っていないか」に注目させます。
次から次へと欠けを満たす何かを提示され続ける私たちにとって、
ペテロの言葉は力強く響きます。
「私たちを見なさい」と言ったペテロは
この男性が直接求めていた富は持っていませんでした。
見栄えのしない服を着ていて、言葉も洗練されてはいなかったでしょう。
彼が自信を持って示したのは、
イエスの名によって聖霊が与えられ、
かつてイエスとの関係を
3度否定したにも関わらず赦された自分自身でした。
そのイエスの支配が目の前の男性にも及ぶという確信を
ペテロは持っていたのです。
「イエスの名によって」とはin tne name of Jesusです。
イエスの名は、
ただのおまじないや呪文を唱えるようにして使う道具ではありません。
それは、私たちがイエスの支配下にあること、
そしてイエスの所属であることを明らかにする強力な宣言なのです。
今日、
イエス・キリストの支配によって与えられている恵みは、
私たちにとって十分でしょうか。
教会が今日存在する目的は宣教のためです。
ないものを、あるかのように振る舞うことはできません。
神が私たちのためにすでに何をなしてくださったのかを本当に知るなら、
神の恵みが十分であることをもっと体験します。
そしてイエスの名によって祈る私たちを通して、
その影響は外へと広げられて行きます。