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「私たちと同じところに来られた神の子」 ルカの福音書3章21〜22節 2023.1.22 守谷キリスト教会礼拝説教

「炊き出しの列に並ぶイエス」という版画があります。

この中でイエスは、
炊き出しを配る側ではなく、

一緒に列に並ぶ側として描かれています。

木版画作品Fritz Eichenberg作『炊き出しの列にならぶイエス』

私たちが礼拝しているのは、
目に見えないけども確かに存在する、創造主である神です。

その方は
「得体の知れない何か」ではなく、
はっきりとした人格をもった存在です。

そしてナザレのイエスとして
私たちの歴史の中にはっきりとその存在を示されました。

受肉とは、
創造主である方が(コロサイ1:15-17)、

その神のあり方を捨てて
私たちと同じになってくださったこと(ピリピ2:6-11)です。

"御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。"
コロサイ人への手紙 1章15~17節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

"キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。"
ピリピ人への手紙 2章6~11節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

そしてこの方が、
私たちを暗闇の力からご自分の支配の下へと移してくださったから、
私たちは御前に出て、大胆にイエスを礼拝します。

"御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。"
コロサイ人への手紙 1章13~14節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

しかしそれにしても、

私たちが礼拝をささげるべき対象が、
「炊き出しの列に並んでいる」とは、どういうことなのでしょうか。



イエスは公生涯に入る前、
バプテスマのヨハネから洗礼を受けました。

当時の人々も、またヨハネでさえも、

キリストは「洗礼を授ける側」、「人々を裁く側」、
として登場すると考えていました(ルカ3:15,16)。

"人々はキリストを待ち望んでいたので、みなヨハネのことを、もしかするとこの方がキリストではないか、と心の中で考えていた。
そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。"
ルカの福音書 3章15~16節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


ですから、
ご自身にしみも咎も汚れも全くないにも関わらず、
罪人たちと一緒に列に並んでいるイエスを見つけた時のヨハネの衝撃は、
とても大きいものだったでしょう。

イエスは、神のあり方を捨てて、徹底的に受肉されたのです。


このようなイエスと、共に歩む私たちの信仰生活を歌っている讃美歌が
「救い主イエスと」です。


この歌詞の下敷きには、
出エジプト後に荒野を旅したイスラエルの民の物語があります。

彼らが荒野で渇いた時、
神はモーセに命じて岩を打たせて、水を与えました(出エジプト記17:1-7)。

"イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。
民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。
民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。
さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。
それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。"
出エジプト記 17章1~7節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


この箇所の中でイエスを象徴しているのは水を与えたモーセではありません。
彼によって打たれた岩が、イエス・キリストを象徴しています(Ⅰコリント10:2-4)。

"そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、
みな、同じ霊的な食べ物を食べ、
みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。"
コリント人への手紙 第一 10章2~4節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

悩みと痛みに立ち尽くす私たちのすぐそばに、
イエスは今日も立ってくださっています。
イエスは、洗礼を受けるために罪人の列にも並ばれた方だからです。

しかしそれで終わりません。

私たちを癒すために、
私たちと同じところにきてくださったイエスご自身のからだが、
神によって打たれ、十字架によって裂かれたのです。

ですから、讃美歌「救い主イエスと」で歌っている、

「目の前の岩は裂けて水湧く」とは、

"試練が自動的に砕かれて、万事うまくいく"
という意味ではありません。

私たちが貧しさの中にある時、イエスは私たちと同じところに来てくださいます。
私たちがイエスに目を上げるなら、
困難な中でも共にいてくださるキリストこそが揺るがない岩であることを知ります。
そして目の前の岩であるキリストの肉が、十字架によって裂かれ、
そこから湧き出るいのちの水によって私たちは癒されたのです。

イエスは洗礼を受けられたあと、
神の子として確信をもってイエスは踏み出し、
十字架への道を歩んでくださいました。

神を知ることにおいて、成長しますように。神を知るとは、受肉されたイエスについて知ることです。この方のうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。

"このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。"
コロサイ人への手紙 2章3節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

本日の説教を振り返るために

1.苦しみ、悩みの中にある時、イエス・キリストに対する親しみを見出せていますか?


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