「私たちと同じところに来られた神の子」 ルカの福音書3章21〜22節 2023.1.22 守谷キリスト教会礼拝説教
「炊き出しの列に並ぶイエス」という版画があります。
この中でイエスは、
炊き出しを配る側ではなく、
一緒に列に並ぶ側として描かれています。
私たちが礼拝しているのは、
目に見えないけども確かに存在する、創造主である神です。
その方は
「得体の知れない何か」ではなく、
はっきりとした人格をもった存在です。
そしてナザレのイエスとして
私たちの歴史の中にはっきりとその存在を示されました。
受肉とは、
創造主である方が(コロサイ1:15-17)、
その神のあり方を捨てて
私たちと同じになってくださったこと(ピリピ2:6-11)です。
そしてこの方が、
私たちを暗闇の力からご自分の支配の下へと移してくださったから、
私たちは御前に出て、大胆にイエスを礼拝します。
しかしそれにしても、
私たちが礼拝をささげるべき対象が、
「炊き出しの列に並んでいる」とは、どういうことなのでしょうか。
イエスは公生涯に入る前、
バプテスマのヨハネから洗礼を受けました。
当時の人々も、またヨハネでさえも、
キリストは「洗礼を授ける側」、「人々を裁く側」、
として登場すると考えていました(ルカ3:15,16)。
ですから、
ご自身にしみも咎も汚れも全くないにも関わらず、
罪人たちと一緒に列に並んでいるイエスを見つけた時のヨハネの衝撃は、
とても大きいものだったでしょう。
イエスは、神のあり方を捨てて、徹底的に受肉されたのです。
このようなイエスと、共に歩む私たちの信仰生活を歌っている讃美歌が
「救い主イエスと」です。
この歌詞の下敷きには、
出エジプト後に荒野を旅したイスラエルの民の物語があります。
彼らが荒野で渇いた時、
神はモーセに命じて岩を打たせて、水を与えました(出エジプト記17:1-7)。
この箇所の中でイエスを象徴しているのは水を与えたモーセではありません。
彼によって打たれた岩が、イエス・キリストを象徴しています(Ⅰコリント10:2-4)。
悩みと痛みに立ち尽くす私たちのすぐそばに、
イエスは今日も立ってくださっています。
イエスは、洗礼を受けるために罪人の列にも並ばれた方だからです。
しかしそれで終わりません。
私たちを癒すために、
私たちと同じところにきてくださったイエスご自身のからだが、
神によって打たれ、十字架によって裂かれたのです。
ですから、讃美歌「救い主イエスと」で歌っている、
「目の前の岩は裂けて水湧く」とは、
"試練が自動的に砕かれて、万事うまくいく"
という意味ではありません。
私たちが貧しさの中にある時、イエスは私たちと同じところに来てくださいます。
私たちがイエスに目を上げるなら、
困難な中でも共にいてくださるキリストこそが揺るがない岩であることを知ります。
そして目の前の岩であるキリストの肉が、十字架によって裂かれ、
そこから湧き出るいのちの水によって私たちは癒されたのです。
イエスは洗礼を受けられたあと、
神の子として確信をもってイエスは踏み出し、
十字架への道を歩んでくださいました。
神を知ることにおいて、成長しますように。神を知るとは、受肉されたイエスについて知ることです。この方のうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。
【本日の説教を振り返るために】
1.苦しみ、悩みの中にある時、イエス・キリストに対する親しみを見出せていますか?
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