マタイの福音書21章1~17節「王なる祭司イエスを迎える」 守谷キリスト教会礼拝説教要約
イエスには様々なタイトルがつけらています。
救い主、良い羊飼い、罪人の友、神の子などです。
マタイは、福音書の最後の1/4の文量をイエスの最後の1週間を描くことに割き、
イエスの「王」、そして「祭司」という側面に光を当てます。
それは「先の者が後になり、
後の者が先になる」という大逆転の神の国の、
王であり祭司です。
イエスがエルサレムに到着した時、
群衆はそれまでで一番大きな一団となって、彼をイスラエルの王として賛美し、
熱狂的に迎えました。
「先の者」として立っていた宗教家が警戒し、
「先の者」になりたがっていた群衆たちが期待していたのは、
軍事的な力を持った王でした。
しかしイエスはそうではなく、
旧約の預言の成就としてロバに乗って、
「平和の王」として入城したのです。
そしてこの王は詩篇の預言の通り、
それまで「後の者」として扱われてきた
子どもたちによる賛美を喜んで受け取られたのです。
一方でイエスは、
王としての権威も確かに振います。
それが12節からの宮きよめと呼ばれる場面です。
神殿はユダヤ人の生活と心の中心地です。
しかし礼拝に乗じて利益も得るための制度が
長い時間と人手をかけて当たり前になっていたのでした。
両替人は人々が献金をするために、
動物を売る人たちは、人々が傷のないいけにえを
捧げるために必要とされいましたが、
イエスは彼らを追い出しました。
それまで絶え間なく行われていた神殿での礼拝を、
イエスは一時的に止めさせ、神殿としての機能を失わせたのです。
そして代わりに、
イエス自身が祭司としての役割を担われ、
神殿に来た人々にあわれみを示されました(21:14)。
宗教家たちには、
イエスがなされたことの本当の意味がわかりませんでした。
イエスはその日、彼らを「後に残して」去っていかれたのです。
受難週を歩む私たちは、
イエスを自分の王として迎えましょう。
幼子の賛美のようなまっすぐな期待をもっているでしょうか。
この方が私の生活に、人間関係に、和解と回復を与えてくださる方です。
また生ぬるく形ばかりになってしまっている行いはないでしょうか。
王であるイエスは、私たちの奥深くを探り、
私たちに変革を迫ることがあります。
そして弱さをもった私を、
大祭司としてのイエスはとりなし、恵みの座に引き寄せてくださいます。
この方を自分の心の王座にお迎えしましょう。