ルカの福音書19章1〜10節「失われたあなたを探しに来たイエス」 2023.3.26 守谷キリスト教会礼拝説教
人はどこから来て、どこへいくのか。
聖書は人間を「神によって造られた最高傑作」。
しかし罪によって「神の目から失われた存在」。
キリストの十字架によって
「神の似姿を再び100%反映させる存在」として描きます。
イエスはザアカイの家で
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです(ルカ19:10)」
と言われました。
もちろん、神が私たちをうっかりどこかに置き忘れたのではありません。
自由意志を与えられている私たちが自ら、
神の前から隠れてしまったのです。
かつて、
アダムとエバに「あなたはどこにいるのか(創世記3:9)」と呼びかけた神は、
1匹の羊を探し歩く羊飼いのようにして(ルカ15:4)、
そんな私たちを探してくださっています。
エリコという街は、
かつてヨシュアに率いられたイスラエルの民が、
祖先アブラハムに約束された地として勝ち取った最初の街でした。
その栄光の記憶は
ザアカイが生きていた当時にも伝えられていたことでしょう。
しかし同時に、
そのエリコに取税人が住んでいるという事実は、
自分たちがローマ帝国によって支配され、
未だ神から失われた存在となっているのだと想起させることでした。
エリコを拠点としている取税人のかしらザアカイは、
そのような複雑さや喪失感を象徴する代表的な人だったのかもしれません。
私たちは社会の中にあっては何かしらの立場を得ているかもしれません。
しかし同時に、
「こんなはずではなかった」という空虚さも
併せ持っているのではないでしょうか。
引き下がれず、方向転換もどうしたらいいかわからず、
「これが本当の自分だから」と周りを騙し、
自分自身をも騙して諦めてしまうのです。
しかしイエスは私たちを諦めません。
そして本当は、
私たちも諦めていないのです。
ザアカイが木に登ったようにして私たちもイエスを求めて教会に来ます。
イエスはそんな私たち一人一人に目を留めて、
「今日はあなたのところに行くことにしている」と語りかけてくださいます。
なぜなら、
イエスは私たちの空虚さや罪、痛みを全て十字架によって背負うために、
エルサレムへ向かっておられたからです。
救いとは、
失われていた私たちが再び神の眼差しの中に置かれることです。
それは十字架によって表された愛と義の眼差しです。
だからこそ私たちは喜びと大胆さを持って応答させていただけるのです。
「人にはできないことが、神にはできるのです(ルカ18:27)」という
イエスのことばが、
今週も私たち一人一人の上に実現しますように。