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マルコの福音書2章1~12節「神にとっても、赦すことはむずかしい?」  2023年11月19日守谷キリスト教会

マルコ福音書2章では、
イエスが公に活動を開始し、神の国の教えを広める様子が描かれています。

イエスがカペナウムの家で教えていた際、
その場所は混雑し、様々な人々がイエスの言葉に耳を傾けていました。

教えを聞く者たちの反応は多様だったことでしょう。
熱心に耳を傾ける者から、奇跡を待つ者、
さらにはイエス様の言葉に疑問を持つ者までいました。

このシーンは、
私たちが教会に集まる際の様子にも似ているのではないでしょうか。

教会に集う私たち一人一人も、異なる背景や心境を持ちながら、
共にイエス様の言葉を聞いています。

やがて、「中風」という病を患った人が
友人たちによってイエス様の前に運ばれてきました。

聖書では、病気が罪の象徴として描かれることがあります。

私たちは普段、自分のことは自分で決断できるし、
自由だと思っているかもしれません。

しかし本当はこうできたら良いと思いつつも、
手を伸ばすことの出来ないことがあるのではないでしょうか。

私たちは、自分では自由であると思っていても、
本当は罪によって縛られてしまっています。

そして多くの場合、
私たちはそのことに気がつくこともできません。


このようにしてご自分の許に連れて来られた人に、
イエスは罪の赦しを宣言されました。
この宣言は手軽になされたのでも安っぽい言葉でもありません。
イエスはこの宣言をされるために、ご自分の命を捨てられたのです。

また、この宣言を伝えることも容易ではありません。

私たち一人一人が、それぞれ複雑な個性を持っています。

赦しを受け入れることが神様の願いであるにも関わらず、
誰もが単純な人生を歩んでいるわけではありません。

自分からは教会に行くことも、聖書を開くこともなかったかもしれません。

そんな手間がかかる、そして頑固な私たちのために、

神様は私たちを自分の元へ導くため、あなたが教会に行くきっかけとなった、
あなたにとってのその特別な人を用意されたのです。

そして私たちもまた、
誰かにとってのあの人として、用いられます

。一筋縄では行かないあの人が神に出会うきっかけとして、
神は私たちを用いてくださいます。

私たちには、これまでどのような助けや、
きっかけが与えられてきたでしょうか?

それに気がつかせてくださる聖霊の働きかけを、心を開いて受け取りましょう。


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