エペソ人への手紙1章1~12節「教会は天国の看板をデザインする」 2024/04/21 説教要約
以前住んでいた家の近所に、
とても美味しいラーメン屋さんがありました。
しかしそこに掲げられている看板は、地味なものでした。
現代は「映え」が大切とされます。
写真映えするもの=おいしい、見かけの良い人=正しい
という公式が成立しつつある社会です。
看板は、その店の商品の前味を伝えるものです。
教会がキリストにおいて一つであることは、
時が満ちて神が計画を実行されることの予告です。
教会の存在そのものが、
やがてキリストが来られる日にキリストにあって
一切のものが一つに集められるという、
みこころの奥義についてのメッセージなのです。
だから、教会が一つとなって集まる姿は、
やがて完成する神の国の前味を伝える魅力的な看板となります。
一つとなりたいという思いは、
人間の本質に組み込まれたもので聖書にも随所で見られます。
一方で、一体性には全体主義や同調圧力、
他者の排除につながる面もあります。
バベルの塔は、その側面を暗示しています。
人間たちは一つとなって、天に届くほどの塔を建てようとしました。
神は言われました。
「彼らがしようと企てることで、不可能なことは一つもない(創11:6)。」
そうして、神はその人間たちをバラバラに、地の全面に散らされたのです。
私たちを一つにするのは、人間の力によるバベルの塔ではないのです。
神の国が完成する時の「一つにされる」ことが、
具体的にどのようなことであるのかは、詳細にはわかりません。
私たちの目の涙が拭われるように、私たちがこれまでに経験し、
これからも背負っていくことについて、
それらが伏線だったのだと納得が与えられることではあるでしょう。
またイエスが山上の説教で描いたような
大逆転の喜びが与えられることでもあるでしょう。
この看板を掲げる教会の例として、
使徒の働き11章に出てくるアンティオキアの教会があげられます。
ここに教会を建てたのは
エルサレムでの大きな迫害によって散らされたユダヤ人たちでした。
彼らはキリストの苦しみを身に負うようにして、
その土地にやってきたのです。
彼らはユダヤ人以外には福音を語りませんでしたが、
不思議なことにそこに集められたのは異邦人たちでした。
やがて、
エルサレムでの大迫害を先導した一人であるパウロもそこに加えられたのです。
パウロを受け入れる時には大きな葛藤があったに違いありません。
しかし、教会に集まり共にパンを裂く時、
説明し切ることはできないけれども、
目の涙が拭われるという納得感が与えられたのではないでしょうか。
キリストにおいて一つである教会には、
赦しと和解があります。
ビジョンや共通の文化はそれ自体良いものですが、
キリストを見ないでいるならばそれらもまたバベルの塔になります。
一つとされた教会の祝福は内側で留まらず、外へと溢れ出ていきます。
この恵みを携えて、今週も1週間歩み出していきましょう。