ヨハネの福音書5章1〜9, 14節「見なさい。あなたは良くなった。」
「良くなりたいか。」
藁をもすがるような思いで座るベテスダの池のそばに座る男に、
イエスはそう尋ねました。
私たちは「今よりも良くなりたい」という思いをもってどこかへ行き、
あるいはキャリアを積み上げ、人間関係で葛藤し、
あるいは物資的なものを求めます。
そんな私たちのところにイエスは来られ、
傍に立って「良くなりたいか」と尋ねられるのです。
38年もの間病気にかかっていたこの人は、
イエスの質問に対しておそらくイエスをちょっと見ただけで、
また池を一心に見つめながら答えたことでしょう。
「それは、良くなりたいに決まっている。
そのためには一番に飛び込まなければならない。
だが、チャンスが回ってこない。そのために必要なものが欠けている。」
イエス様がこの質問を投げかけたとき、
その男は何を考え、何を見ていたのでしょうか。
おそらく、彼は池から目を離さず、
イエス様を横目で見ながら答えたのではないでしょうか。
なぜなら、その池こそが彼にとっての唯一の希望だったからです。
聖書は、そんな私たちの内側を神がどのようにご覧になっているのかを語ります。
私たちはイエスを知っていながらも、
自分の心を満たすのは目の前の何かであるように、
イエスに目線を向けようとしません。
私たちが取り組んでいる課題や求めはどれも必要なものかもしれません。
しかしその解決こそが自分を究極的に満たすのだとするなら、
そこから偶像礼拝が始まっていくのです。
未来や過去、あるいは物や人に対する迷信に縛られていることはありませんか?
「あの大学に入れたら、あの人と付き合えたら、あの仕事ができたら」と、
条件付きでしか自分の価値を見い出せなくなることが、
偶像礼拝のもたらす深刻な結果です。
イエスは求めを遥かに超えて私たちを癒し、
必要を満たしてくださる方です。
「見なさい。あなたは良くなった。」
私たちは、何を見ているでしょうか。
未来に向けてまだ何かが欠けている自分でしょうか。
それとも、すでに新しくされた自分でしょうか。
感謝と共に、この1週間を始めましょう。
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