号泣のレッスンpart4 触覚を極める 世界で一番やさしいスタニスラフスキー・システム28
大切な人の死
「号泣とか、むせび泣きながら…というト書きほど俳優にプレッシャーを与えるものはないと思います」
「ええ…」
「泣ければ良い俳優だとは言いませんが、泣く場面への苦手意識が無くなれば俳優としての自信も全体的に底上げされるかと思います」
「確かにそうですね…」
「泣かなければならない時、きっとあなたも大切な人の死をイメージして演じることが多いかと思いますがどうですか?」
「イメージの中で何回も死んでもらっている人がいます…でも、いくら思い浮かべてもピンと来ない時もあったりして、やはり泣くのは苦手だと思ってしまいます」
「同じ人を思い浮かべてもそうなるのはなぜでしょう?」
「うーん、イメージに臨場感が伴ってないというか…」
「そうですね、そんな時には五感の訓練でやってきたように、見るだけではなく、触れたり、匂いを嗅いでみたり、 声を聞いてみるのが良いと思います」
「はい、合格発表の時も体感する温度とか重要でしたのでスゴク良く分かります。やはり色々な五感を試しておくと良いのですね」
「五感のいずれかへの刺激が呼び水となり全体の臨場感が伴えば、その人の存在の大切さや大きさを実感できるかと思います」
「その存在感を感じられないまま、その人の死をいくら想像しても悲しみなど沸き起こってこないということですね」
「そして、やはり行動です」
「もし、大切な人を失ってしまったらするであろう行動は何かということですね…」
「その通りです。意識していようといまいと、内的であろうと外的であろうと、それらの行動を正確に実行することが鍵になります」
身体に大切な人を思い出させる
「今お話ししたことを実際に試してみましょう。先ずはあなたの大切な人を身体に思い出させてみましょう。あなたの大切にしたい人を誰でも構わないので一人決めてください」
私は父を思い浮かべた
「その人が今あなたの目の前にいると想像してみましょう…まだ実感が伴わなくても構わないです…徐々に色々と見えてくるかもしれません…」
確かに…ぼんやりとしか浮かんでこない父の顔…
「その人は今、どこに居て、何をしているのでしょう…」
父はソファーに座っていた…
その父を後ろから見る…
テレビがついている…
でも、見てはいない…
寝ているみたいだ…
ちょうど良い…
私は前に回った…
静かな父を見るのが好きだった…
「では、その人がそこにいるていで触ってみてみましょう…どんな感触がするでしょうか…顔にも触れてみましょう…」
こわごわ、ほほに触れた…
あまり何も思い出せない…
手にグラスを握ったままだ…
今にも滑り落ちそうなグラス…
そっとそれを奪う…
「肩や腕や手に触れてみましょう…あなたがその人を思い出せる最も重要なポイントがあるかもしれません…その人を肌で思い出してみましょう…」
グラスが奪われたのをまだ知らない手…
その形をまだ保っている…
虚空を彷徨う指先に触れる
E.Tのポスターみたい…
手を握ってみる…
分厚くて、大きいという感覚が蘇る…
すると、この手に連れられて…
色々な所へ行った二人を思い出してしまった…
毎日、一緒に覗き込んだ亀の池や…
空の犬小屋…
あの時は世界中のどんな場所よりも安心できた…
気楽によじ登れた父のひざ、父の肩…
「その大切な人の存在がリアルに感じられるでしょうか…リアルに感じられたのであれば一度現実に戻ってきましょう…」
「あなたにとってその方がどれほど大切な人だったのか身体で思いだせたでしょうか?」
「…はい」
言うべきことがあったのに、言えてない…
聞きたいことがあったのに、聞けてない…
してあげたいことがあったのに、してあげられない…
感謝しなければならないのに…何ひとつ伝えていない…
父が自分にとってどんな存在であったかということを
ありありと感じていた
行方不明の大切な人との再会
「では最後にちょっと過酷な訓練してみたいと思います。今思い出したその人に伝えて下さい。今から演技の訓練のために協力してください。私はこの訓練であなたの大切さを痛烈に感じたいのです。と…」
「はい…」
「では、私の誘導に従って可能な限り身体も動かしてみましょう。その大切な人が最近、行方不明になっています…」
「…」
「今、帰ってくるか…
今日、帰ってくるか…
と思いながら数日過ごしていたかもしれません…
電話がなる音…
玄関の鍵の開く音…
あるいは救急車のサイレンの音…
そうしたもの音に敏感に期待してしまう日々を過ごしてきました」
電話のベルには期待と不安が高鳴った。
ドアが開けられる音につられて玄関へ迎えに行った。
その度に期待も不安も裏切られ…
再び一人で過ごす時間の長さを全身で感じた。
「電話がかかってきました…
警察からです…署まで来ていただきたいと…
あなたは警察署に到着し、通路を案内されています…
あなたは案内されるがままその警官の後ろを歩いています…」
私は不安を抱えたままスタジオを歩いている。
「なぜか、その人はあなたに何も伝えてくれません…
その背中は何も語りません…
あるいはあなたが何も察知しないようにしているのかもしれません…
廊下はやたらと長く、だんだん暗くなっていきます…
肌寒さも感じるようになってきています…」
「あなたの身体はすでに…
嫌な予感を感じているかもしれません…」
嫌な予感が私の皮膚や内臓に染みわたっている…
「ふと立ち止まったドアの上を見上げると…
霊安室と書いてあるのが読めます…」
私は頭が真っ白になり…
からだが凍りついた…
「ドアが嫌な音を立てて開けられます…
あなたはその部屋に一歩入ろうと思えば入れるのですが…
その一歩に抵抗を感じてしまいます…
そんな感覚を身体に感じてみましょう…」
今から目の当たりにしなければならない事実を皮膚が拒絶している…
私は乱れそうな呼吸を必死でコントロールしている…
「あなたは勇気は振り絞ってその重く冷たい空気の中に…
一歩進んでみます…
あなたの前にはよく見慣れた背丈の人物が…
顔に布をかけられて横たわっているのが見えます…」
「泣かないように…
気を失わないように…
自分の扱い方に最大限の慎重さが必要です…」
一瞬でも気を抜くと、くずおれてしまいかねない…
でも、力を入れすぎると…
内側から私が壊れてしまいそう…
「その白い布をとりあげてみましょう…
そこにあなたのよく知る大切な人が…
非常に安らかな顔で寝ているのに…
気がついてみましょう…」
私はこわごわ布をとった
さっきと同じあまりにも安らかな顔…
つい、微笑みかけたくなったその瞬間…
涙がとめどなくこぼれていく…
「その人の顔に大きな傷があるのに…
気がついてみましょう…」
私はその傷の痛みを想像し、つい顔をしかめた…
ところが、襲ってきたのは怒涛のような父の孤独と寂しさだった…
「思い出してみてください…
その人の人生の希望や夢を…
その人に伝えられない想いがあること…
その人があなたに伝えたかったこと…
もう二度と喜びを共有し合えないことを…
身体に感じてみましょう…」
お父さん!と声に出すと嗚咽になってしまいそうだった…
泣き叫べ!と言われればいつでもそれができた…
日々感謝してさらに大切に
こうして訓練を終えた。
臨場感あふれる想像
そこから生まれた身体感覚
それに抗う行動
それらが有機的につながれば
泣くことはいつでも可能だと感じられた。
少なくとも今は…
「あなたの大切な人に感謝していますと伝えて下さい。そして、安全のために、あなたの身体に教えてください。これは演技ですと…そしてそれは終わりましたと宣言してください…」
私はその通り自分に言い聞かせた。
「残念ながら私たちは失って初めて大切な存在の価値を知ります。もし、あなたが想像した大切な人が今の設定とは違ってご存命であるならば幸運です。日々、伝えあい、感謝しあえる機会をますます大切にしていただければと思います」
「はい…」
「ただ、泣きたい俳優がそこにいるのと、本当に大切な人との別れを経験している人物との違いが具体的になったのではないでしょうか…」
私は泣きすぎて頭痛がするほどだったが
世界がクリアーになった気がしていた。
当たり前になってしまっている世界を
1つ1つ、一度失って見ようと思った。
もちろん、想像の中でだけど…。
そうすれば、当たり前を無くすことができるかも…
その時、どれほど私の人生は豊かで美しくなるだろう…