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短編小説 「足と仮面」 高校生のための小説甲子園落選作

 写真機の入った愛用の鞄が、妙に重たく感じられた。被写体にふさわしい風景が、どこにも見当たらないせいだった。
 暗い空がビルの明かりに照らされて、霞んだような色をしている。月は遠く、建設中のデパートの影に隠れながら、こちらをじっと見下ろしていた。
 繁華街は騒がしく、抱き合った男女だとか酔っ払った集団だとかが、地面へ深くめり込んでいる。両脇に長く連なった、楽器屋、質屋、あるいは雑多な飲食店。それらを横目に、逆さになって、肩から上を誰も彼もが、地中に隠してしまっていた。大人十人がやっと横に歩けるほどの、一寸した道路のあちこちで、高く上げられた両脚が、風にゆらゆら揺れている。
 ――まるで林だ。
 と僕は思った。
 ――まるでキノコだ。
 と僕は思った。そして更に見つめていると、今度は大根に見えてくる……。
 どこからか漂ってくる餃子の匂い。それから、ラーメン。豚を描いた看板がいやに目立った。豚、豚、豚……。全く、僕はアレが嫌いだ。
 豆電球で装飾された派手な店の外にある、空調設備の室外機から、微かな煙草の臭いが流れ出ている。煙が鋭く目にしみた。舗装されたアスファルトの道路には、踏み潰されて張りついた何かの広告の切れ端や、逆さのズボンから落ちたのだろうハンカチが、ぽつり、ぽつり、と寂しげに寝ている。
 僕は立ち並ぶ足の間を、縫うようにどこへか進んでいった。雑多な宣伝文句や話し声、ヒステリックな笑いに怒鳴り声……。心なしかくぐもった音。それらは地面に埋もれてしまった頭部から、発せられているらしい。風景は、静寂を全く知らないように思われた。
 やがて道は、別の道との合流を果たし、より幅広い通りへと、緩やかな変貌を遂げていく。歩道が二本に分裂し、中央を貫く車道が生まれた。信号が生え、チカチカ騒がしく明滅している。行き交う自動車の内部には、窮屈そうに天井をつく、二本の足が見えていた。立ち並ぶ彼等は、毒々しい街を賛美している。たくましい足、青白い足、むくんだ足、歪んだ足、痩せこけた足……。平凡だったり醜悪だったりする中に、時折輝く純白のものが、ひっそりこっそり紛れている。赤いスカートを履いているのや、ミルク色のズボンを履いているもの。僕は真っ黒い空の下、月明かりに映える綺麗な足を見つける度に、そこへ近寄り、じっくり眺めてみるのが好きだった。
 ――掲げられた靴を外して、軽く地面に放り投げる。ゆるやかに、呼吸するように揺れ動く二本の棒。時々指先をひょいと曲げたり、くすぐったそうに小刻みに動かす。みずみずしく、嫌らしいところのない、爽やかな美。まとわりつく夜を受け流し、確固としてある存在感。光沢のある爪、なめらかな曲線、控えめで、かつ精力的なくるぶしは、一切の影を生み出さない。しっとりとした質感のある親指に、細く繊細な四本が、静かにそっと添えられている。
 ――僕は筋肉のつきかた、関節の皺の一つ一つに、僅かでも規則性を発見しようと努力する。……そしてある瞬間がやって来ると、つるりとした純白の肌に、僕の表情がくっきり反射してしまうのだ。
 髭が濃く、指紋で曇った眼鏡をかける、小太りの男がボウッと浮かぶ。ぎょろりと飛び出した大きい眼球。申し訳程度にひっついた、紫色の小さい唇。潰れたニキビが影を落とし、歪んだ輪郭が網膜に焼き付く。垢の染みついたシャツの襟に、脂ぎった額のぬめり。そいつが視界に入った瞬間、現実に引き戻されるような感覚が生まれる。僕は深く溜息をつき、ゆっくり瞬きするのが常だった。
 ――そうだ!
 と僕は思わず呟いた。
 ――足を写すのはどうだろう?
 鞄の中の撮影機材を意識する。彼等はこれに、果たして値するものだろうか?
「撮らない写真家に意味はないよ」
 空想の中の友人は、以前僕にそう言った。
「大抵のものに意味なんてないさ」
 空想の中の友人に、以前僕はそう言った。自分が無意味であることくらい、自分が一番よく知っている。……勿論その会話にだって、何の意味もありはしない。
 僕は鞄から写真機を取り出し、そっとファインダーを覗き込む。ずっしりとした重み。腕の疲労。落っことすことへの絶え間ない不安。道路に転がる紙くずだとか、黒く錆び付いた硬貨だとか、電柱にへばりついたガムだとか、そういった細部の特徴が、枠の内側で不思議と潤いを持っている。そして、足。足、足、足……。艶めかしく、どこか生気を持たない足の群れは、こちらに笑いかけているようだ。
 ――違う。
 と僕はかぶりを振った。何かが違う。彼等も所詮、「大抵のもの」に過ぎないのだろう。僕が本当に求めているのは、こんなありきたりな――表面的な光景ではない。
 カメラをしまった。そして再び、歩き始めた。
 結局、何の成果もないまま、延々徘徊を続けるのである。

   ※

「君は全く、醜いな」
 誰に言われたのかは覚えていない。夢か、あるいは妄想なのかも知れなかった。ただ、言葉だけが記憶に残る。例えるならば、排水孔にしがみついて、数日、数週、下手をすれば一ヶ月近くそのままでいる、湿って黒ずんだ枯れ葉の塊。――ふとある時気がついてみると、跡形もなく消えている、幻影のような黒い塊……。
 そのせいだろう。僕は仮面というものに、例えようもなく魅了されてしまうのだ。自らの、醜い姿をすっぽり覆って、隠してくれる平たい道具。今だって、以前雑貨屋で見つけた仮面が、鞄のそこに鎮座している。
 ――ぬめりを伴う日差しの中で、夏の太陽に照らされた大通り。転がった空き缶、不透明で膨らんだビニール袋、電信柱に繋がれた小型犬……。ざわめく人波に押されつつ、ふと一軒の店に目を留める。何のことはない。平凡な個人経営の商店である。それが、軒先にぶら下がった一枚の仮面との邂逅だった。プラスティック製の陳腐な品。軽く力を入れたなら、容易にヒビが入ってしまう。買った後でよく見てみると、子供の玩具のようである。
 とは言え、実際につけるのは、何となしに躊躇われた。つまるところ、持ち歩くだけのお守りである。
 だから僕が、足の間を歩き続けて、その人影を目にした時。まず覚えたのは共感と、そして尊敬の念だったのだ。交差点を渡った先、往来の端の小さなスペース、そこに彼は立っている。体つきから、男のように思われた。
 よれよれのシャツ、くたびれたスニーカー、文字盤がへこんだ腕時計。人影が持った楽器には、万国旗のシールが貼り付けられて、騒々しい様子でたたずんでいた。シールとシールの間に覗いた、鈍い光から察するに、鉄で出来ているようである。……しかし一体、あの楽器は何という名前だろう?
 両腕の中にすっぽり収まる大きさで、何重にもとぐろを巻いた蛇のような形をしている。所々につなぎ目があり、レバーやスイッチが二十も三十も飛び出していた。あちこちに手垢がべったりついて、反面目立たない箇所ならば、新品同様の輝きがある。
 ――そして、仮面! 顔面にぴったり張りついた、一枚の仮面。剥がされないよう、紐を三つも四つもくくりつけ、表面は文字通り真っ白だった。のぞき穴すら見当たらない。表情というものがまるでなかった。よく磨かれて、汚れ一つ見られない。
 僕は初め、信号機の視線に萎縮しつつ、数十メートル先に彼の姿を発見してから、暫くじっと眺めた後に、もう少し近寄ってみようかと考えた。これから路上で、楽器を演奏するのだと思われた。

   ※

 楽器と言えば、以前に僕は、ピアノを嗜んでいたことがある。遠い昔、幼少の頃の話だけれど。母親に連れられ、近所のピアノ教室にいくらか通った。綺麗な、若い、女の教師が待っている。ドレミを習い、簡単な曲を練習しながら、微かな香水の匂いにうっとりしていた。僕は教師に褒められようと、脳裏に見事な演奏をする自分自身を思い描く。素早く、大きく、緩急をつけて奏でられる偉大な楽曲。小さな音楽室に椅子が一つ、教師が座ってこちらを見ている……。
 ――そしてある日のことである。妄想と現実、理想と現実、虚構と現実との、あまりの落差に気がついたのだ。太い指が鍵盤を叩くと、同時に二、三個、余計な音が鳴り響き、教師は何か、諦めを含んだ表情で、拙い演奏を聴いている。それをようやく、自覚したのだ。
 ――分厚い扉。耳をつけるとくぐもった声がうっすら聞こえる。「あの子の祖父はピアニストなんです!」「残念ですが、まずは痩せていただかないと……」大いなる断絶。大いなる絶望。「アンタはダメよ」「豚でももう少しマシでしょう……」――豚。僕はそれきり、教室を辞めた……。
「ピアノは好きかな?」
「……はい。好きです」
「弾いたことは?」
「ありません」
「曲を聴いたことはあるのかな?」
 いいえ、ないです、と応えたときの、教師の可笑しそうな唇を、今でも鮮明に思い出す。控えめな化粧、後ろで束ねた髪の色、健康的な爪の艶に、細い指先……そして何より、鍵盤を叩くときに現れる、信じられないほど快活で力強いその動作。
「大丈夫。きっと上手に出来るわよ」
 実際に努力するよりも、成功を想像する方がずっと楽だ。何より確実なのである。

   ※

 楽器の男の、ほんの数メートル前までやって来る。相手はこちらに気がつくそぶりすら見せないで、地面をじっと見下ろしていた。足下にあるのは、ひしゃげた空き缶。無残に削れたトマトの絵柄が、亡霊じみた印象を与える。投げ入れられる銭を期待し、にも関わらず内部は全くの空だった。それから、少し離れた辺り。足が不自然に密集しながら、カクカク左右に揺れている。数十の青白い棒達が、壁のように密着している。
「それ、なんていう楽器なの……?」
「知らないな」
 と男は応えた。
「知らないってことはないだろう」
「知らないってことがあるんだよ」
 相手は僕をじろりと睨み――あくまでそんな気がしただけだ――、レバーの一つに指をかける。
「僕の友人が、珍しい楽器を集めてるんだ。人間の声そっくりの音が出るサックスだとか、誰も興味を持たないギター、あるいは……」
 男は何も応えなかった。続けて二つ目のレバーを僅かに回し、幾つかのボタンを押し込むと、厳粛な様子で小さな音が響き始める。
「……そうさ。嘘だよ。友人なんていやしない」
 ――豚。
 男にそう言われたような錯覚を覚えた。まさかね、と自嘲する。たまにいるんだ、やたらと夜目が効く、フクロウみたいな連中が。しかしアイツは、仮面を被っているじゃないか。のぞき穴だってついていない。
 男の緩やかな動作に合わせて、静かに演奏が始まった。僕はそっと肩をすくめ、楽器の音色に耳を澄ます。
 ――それは、孤独の音楽だった。

   ※

 彼がレバーから手を離すと、カタカタ無数の足達が、前後に左右に、激しく動き始めていた。それは拍手のようである。往来の足の揺らめきとは、まるで比べものにならなかった。それほどの活発、それほどの熱狂。
 音楽の余韻が、鼓膜から消え去ってしまわない内、僕は男に背を向ける。足早に数歩を踏み出して、それからふと思い立ち、鞄から例の写真機を取り出した。
 ――これならば、撮影しても良いかも知れない。
 ファインダーを覗くと悪くない。シャッターを切る。心地良い響き。周囲の空気を洗い流して、先程までに充満していた、孤独に対する耐えがたい苦痛、耐えがたい辛苦の一切を、忘却の彼方へ追いやった。
 ――奇妙な楽器を持った白紙の面の男の姿。足の拍手。エロティックな夜の街並み。そして足下の、ひしゃげた缶……。
 その時僕は、その空き缶が、いまだ空であることに気がついた。無言で喝采している足達には、当然ながら腕がない。であれば、彼等が硬貨を投げ入れることなど、あり得るはずがなかったのだ。
 僕は、ポケットから財布を取り出した。開けると、紙幣が数える程度、それから五百円玉が二枚ある。僕は暫くの躊躇の後に、五百円玉を二枚掴んで取り出した。……それから更に思い直して、手の中の一枚を財布に戻し、残った重みを缶に向けて放り投げる。
 カラン、と乾いた音と共に、それは底へとぶつかった。
 男は空き缶に目もくれず、周囲の喝采に頭を下げた。すり寄ってきた数本の親指を口に含み、軽く舐め回してうっすら微笑む。それから、僕に顔を向け、次いで空き缶に顔を向け、微かに嘲笑のような雰囲気を、周囲へどんより漂わせながら、僕を追い払うように手を振った。
「馬鹿馬鹿しいよ、君」
 彼は、無数の客と共に演奏している。地上の孤独や物質よりも、地下の無能な聴衆が、圧倒的に勝っている!
 その発見は、僕を鋭く刺激した。
 男に背を向け足を進める。
 そうしようか……そうだ、そうしよう。
 一度決心してしまえば、後はごく単純だった。
 ひょっとこの面を取り出して、自分の顔に力一杯押しつける。外れないよう、決して素顔が見えないように。耐えがたい圧迫感。耐えがたい閉塞感。鼻は潰れ、耳は歪み、目はのぞき穴に合わせて縮こまる。これを実際身につけたのは、本当に初めてのことだった。
 仮面は酷く窮屈で、けれど同時に心地良い。のぞき穴から垣間見える風景は、急に遠ざかっていくようだ。ぐんぐん、どこか遠くへ立ち去り、不思議な程に強烈な、非現実感だけが心に残る。今ならば、僕にも何かが出来るかも知れない……。
 ――思い切って、このまま地面へ飛び込むのはどうだろう。往来を行く人々のように。彼等の仲間入りを果たすのだ。
 僕は、今だ目にしたことのない地下の世界を空想した。広く、誰もが賑やかな仮面を被り、互いのそれを品定めする。頭部だけが連なった空間。幸福な世界。素晴らしき世界。そこならば、自らが確かに存在することを、きっと実感できるだろう。……そうだ! そこはまさに、第二の現実に他ならない!

   ※

 僕は地面に跪く。それから両手の指で以て、アスファルトを引っ掻いた。嫌らしい音がして、爪が数枚割れてしまう。血が流れ、地面の一部が色を濃くする。それでもまだ穴はできない。頭部を地中に差し入れるための、穴はそう簡単に生まれない。
 ――指が削れ、腕が削れ、いつしか身体全部が削れてしまい、大根おろしのような「かす」だけが、惨めに残されることになったとしても……。
 ――地下の世界にたどり着き、僕の全てが報われるとしたら。
 そう考えるだけで良かった。それだけで、活力がみなぎってくるようだった。たった数十センチの穴で良い、それだけできれば、何もかもがうまくいく……。
 朝へと向かいつつある街並みは、まだ夜の顔を濃く抱いている。いつの間にか、周囲を足が囲っていた。ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら……。僕を応援しているらしい。背景の、豚を描いた看板が邪魔だった。
 僕はそうして、大根おろしになったのである。

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亜済公
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