「老人と海」感想
若かりし頃、優秀な漁師であったらしい老人は、その日、沖へと出かけていく。「一匹も釣れない日が、既に八十四日も続いていた。最初の四十日は少年と一緒だった。しかし、獲物のないままに四十日が過ぎると、少年に両親が告げた。あの老人はもう完全に『サラオ』なんだよ、と。サラオとは、すっかり運に見放されたということだ」。そういうわけで、彼はただ一人だった。
物語の大半を占めるのは、巨大な魚と老人との戦いである。海はそこで、躍動する生命の象徴だ。一方、「彼に関しては、何もかもが古かった」。あるのはただ知力だけで、魚が思い切り暴れてしまえば、きっとどうにもできないだろう。老人と海との対照的なあり方が美しい。
あるいはまた、陸地から離れた場所で繰り広げられる、魚を相手にした四日にわたる死闘の中。洋上の風のにおい、ヒリヒリとした日差し、縄を抑える背中の痛み、擦れた手のひらにしみる海水、そんなちょっとした感覚が、淡々とした文章によって克明に浮かび上がってくる。まさに傑作という他ないだろう。
老人にとり、海は卑近な存在だ。海亀を哀れみ、優しさから魚を殺し、電気クラゲを「娼婦め」という。だからこそ、本作の海は生きた姿をして我々の前に立ち現れる。だが、終盤に登場する観光客はどうだろう。女は、老人の釣った魚の骨を指差しこういった。「知らなかった。サメの尻尾があんなに立派で、綺麗な形だなんて」。無知だ! 全くの無知だ!
そして、そんな「生きた」海が最後に見せる、残酷な顔。彼がたびたび夢に見るライオン、すなわち若さがあれば、凱旋に至ることができたのだろうか? 「もはや老人の夢には、嵐も女も大事件も出てこない。大きな魚も、力比べも、死んだ妻も出てこない」。「老人は、少年を愛するのと同じくらい、ライオンを愛した」という。ここでいう「若さ」とは、きっと過去の自分ではないのだろう。どこか寂しい、達観した視線がそこにはある。
心に染み渡る、極めて上質な文学を読んだ。