「逃走」するポストモダン
第一章 「逃走」を肯定する
近年、漫画やアニメ、小説といったコンテンツ、そしてある種の社会的情勢において、「逃げる」ということが非常に大きな主題となっていることは疑いない。その対象は、時に学校であり、会社であり、そして現実そのものであったりするだろう。
職場からの「逃走」に目を向けてみる。2010年代に始まったとされる退職代行サービスは、メディアに取り上げられるほど、広く知られることとなった(注1)。インターネット上には、「ブラック企業」を検索することのできるデータベースさえ存在している。また、グーグルで「新人 すぐやめる」と打ち込めば、およそ6860000件ものページがヒットするのだ(2022.7.29時点)。決して少ない数字ではない。これは「彼女 すぐ怒る」で検索した場合とほぼ同じ結果である(6730000件)(2022.7.29時点)。暴論ではあるものの、近年「すぐにやめる新人」と「すぐに怒る彼女」とが、同等の普遍的な悩みとして存在しているといえないこともないのである。職場からの「逃走」は、当事者である若者らによって、インターネット・SNSを介し肯定され、促進される。ここには、「ブラック企業」に勤め続け自殺へ至った痛ましい事件の数々や、終身雇用の崩壊が、大きな影響を与えていると思われる。だが、果たしてそれだけだろうか?
あるいは、「いじめ」「引きこもり」の問題においても、やはり「逃走」は注目されるべき要素であろう。いじめに際して「逃げる」こと、時に登校を拒否し「引きこもる」ことに、かつてはマイナスのイメージばかりが先行していた。しかし現在、「いじめについての報道が盛り上がると、著名人たちにメッセージを求めるメディアが続出します。その中でしばしば見受けられるメッセージが、『いじめから逃げろ』というものです」(注2)。立ち向かって苦しみ、自殺してしまうよりは、逃げて生きた方がずっと良い――と。「逃げ」を肯定し、促進する動きは、「職場」におけるものと同様、確かに見受けられるのである。
こうした現実における「逃走」の肯定は、同様に、様々なコンテンツにも観察できる。
小説投稿サイト「小説家になろう」を中心に拡大した、「異世界転生」「異世界転移」――いわゆる「なろう系」――などと呼ばれる小説ジャンルにおいて(注3)、主人公は多くがブラック企業に務める「社畜」であるか、あるいは「引きこもり」の「オタク」である。物語は、そうした現実に苦しむ主人公が「異世界」と呼ばれるゲーム的ファンタジー世界へ転移・転生、つまり「逃走」することから始まるのだ。多くの場合、「異世界」において主人公は、神など超越的な存在や、偶然によって、特段の努力なく、強大な能力、あるいは権力を与えられる。そして冒険の中に幾人もの美少女たちと出会いを果たし、「両手に花」どころではない、「ハーレム」と呼ばれる展開を迎える。物語は、主人公が「異世界」で成功することを結末とするのだ。
このような形態が示すのは、「行きて帰りし物語」「貴種流離譚」などとは全く異なる、「逃げたっきり物語」とでも呼ぶべき構造であり、そして「逃げる」ことへの肯定だ。逃げることで、主人公は幸せになる。異世界において、以前は決して手に入らなかった多くのモノを手に入れる。現実に帰ることはあり得ない。そこには以前と同じ、「引きこもり」の現実や、「社畜」としての毎日が待っているだけなのだから。
興味深い作品がある。2022年夏から放送を開始した、『異世界おじさん』というTVアニメだ(2022年7月29日本論執筆時点では第四話まで放映)(注4)。17年間、トラックにひかれて昏睡状態にあった叔父が突然目覚め、「異世界から帰ってきた」と口にする。その証拠に、彼は目の前で魔法を使ってみせるのだ。叔父は、昏睡している最中に、どういうわけか異世界での冒険を繰り広げていたのであった!
本作は、あらゆる意味で「お約束」が破られる物語ということができよう。叔父はあろうことか「逃げたっきり」になるはずの異世界から帰還した。そしてその体験談を聞く限り、本来あるべきハーレム展開を、ことごとく迎え損ねているのだ。醜い容姿と、そして異世界転生、あるいはより広く、オタクコンテンツの「お約束」を知らないがゆえに。その代表格が「ツンデレ」だ。自分に恋心を抱いた少女の「ツンデレ」を、叔父は単なる「罵倒」ととらえる。その模様を聞きながら、語り手はしきりに残念がるのだ。
本作は、悲劇ではなくコメディであり、その笑いはメタ的な「お約束」の不履行から発生している。逆にいえば、「お約束」が成立するほどに、「異世界転生」「異世界転移」モノの形式は、確立されているということだ。そしてその「お約束」の、もっとも重要であろう点は「逃げる」ことで「手に入れる」という形式にある。異世界への「逃走」によって、力を、恋人を、名声を、現実にはあり得なかった幸福を、手に入れる。そして「帰る」ということは、そのすべてを失うことを意味してしまう。「異世界転生」「異世界転移」は、ゆえに異世界への「逃走」を肯んずる。それは、現実を生き抜く力を得る「過程」ではなく、求められるべき「結果」なのだ。だからこそ、恋人を手に入れることのできなかった――そして、現実に「魔法」を持ち帰ってしまった(手に入れるべきものを手に入れられず、持ち帰るべきでないものを持ち帰ってしまった)叔父の物語は、それと説明されなくとも、暗黙の裡にコメディとして成立する。
そしてこの「異世界転生」「異世界転移」において特に注目すべき点は、一群のコンテンツの主たる生産者が、「小説家」と呼ばれるような特権階級でなく、アマチュアであるということだ。小説投稿サイトには、インターネットを利用するものであるならば、誰でも小説を掲載できる。つまり、何か特殊なイデオロギーを身に着けていたり、あるいは芸術的な意図を持って、これらの物語は作られていない。広く一般市民に共有された、きわめて原始的で切実な欲求――「逃走」への欲求――のもとに生み出されたというわけだ。
無論、こうした「逃走」の物語は、「異世界転生」「異世界転移」といった、巨大とはいえ一部の潮流にのみとどまるものでは、決してない。
例えば『エスタブライフ』という2022年春に放送されたTVアニメ作品は、AIが管理する、壁に囲まれた複数の「クラスタ」に分かれた東京を舞台に、自分のクラスタから逃げ出したい人々の手助けをする「逃がし屋」を主人公とした物語だ(注5)。本作品は各話ごと、様々なクラスタの多様性と、同時に閉鎖性を描きだし、「逃げる」ということ、そして逃げた先で新しい生活を始めるということを、基本的に肯定する。
また、2022年の夏から放送を開始した『よふかしのうた』というTVアニメ(本論執筆時点では第三話まで放映)も、やはり「逃走」に着目すべき作品であろう(注6)。登校拒否の少年が、憧れていた夜の街を散歩する中で、吸血鬼の少女と出会う物語だ。主人公は昼間学校で享受する日常を「つまらない」と表現し、夜の世界に生きる吸血鬼にあこがれる。そして、自らをも吸血鬼にしてほしい、と懇願するのだ。アニメーションの演出も、昼間のシーンではくすんだ色合いを中心とし、夜の場面では鮮やかな、毒々しい色彩を用いている。学校からの「逃走」は、ここではきわめて自然な流れで肯定され、主人公の葛藤や、障害に「立ち向かう」ことなどは、ほとんど描かれることがない。むしろ「逃走」の結果として、何を「得る」のかが重要視されているように思われる。
一つ一つの個別的な事象、あるいは作品において、単に「逃走」の要素が見出せる、あるいは肯定されている、という事実であれば、言及するには値しないと思うかもしれない。しかしながら、メディアや社会現象、そしてコンテンツの内部にまで幅広く共通の主題――「逃走」という主題――が見える以上、ここに何らかのつながりがあると考えるのは、そう不自然なことではあるまい。
そのつながりとは、何か。筆者はこれこそ、近代社会の終わりと、インターネットに象徴される新しい社会への移行――いわゆる「ポストモダン」への移行――によって発生した、「新しい理念」の反映であると考えている。
本論では、続く第二章で「ポストモダンへの移行はいかなるものであったか」を問い、第三章で「新しい理念とは何か」を明らかにしていくつもりである。
第二章 近代からポストモダンへ
批評家東浩紀は、その著作『動物化するポストモダン』において、近代の世界像である「ツリー・モデル」と比較し、ポストモダンの世界像として「データベース・モデル」を提示している(注7)。ポストモダンがどのような構造をしているかについては諸説あり、そしてその全てが正しく、同時に間違っているといえるだろう。インターネットという極めて複雑な構造体が世界中を覆った以上、その全体像を単一の理論でかたずけるのは乱暴である。ある側面から見れば、東浩紀の指摘する通り「データベース」的といえるだろうし、あるいは別の側面から見れば、相互干渉型の「ネットワーク・モデル」ともいえる。どういうことか。
情報の流通に目を向けるなら、近代は、ある種の権力者、あるいは権威(政府、出版社、新聞社など)から一方的に発信される情報が、都市から地方へと伝達され、一般市民が受容する、という構造を取る。対してポストモダンの構造においては、誰もが情報の発信者であると同時に受信者であるといえるだろう。我々はSNSを利用するとき、他者の発信した情報を受容し、影響を受け、同時に無数の他者に対して情報を発信してもいる。無数の主体がある種の権力・権威の上下関係にあるのではなく、同一平面上で相互に影響を与え合う、というのが、「ネットワーク・モデル」の基本となろう。無論、「ネットワーク・モデル」においても「インフルエンサー」と呼ばれる者はあり、情報発信能力に応じた権力・権威は、近代とやや異なる形で存在している。しかし本論の主題からはずれるため、ここで踏み込むことはしない。
あるいは、別の側面として、文学、あるいはやや広く「コンテンツ」のあり方に触れようと思う。
近代において、文学作品の深層には「人間とは何か」といった主題(大きな物語)があり、それを明らかにすることが使命とされた。個々の作品(表層)は、ある権力者に似た巨大な主題(深層)により、決定、あるいは支配されていたのである。先に述べた「ツリー・モデル」を文学に照らし合わせるならば、以上のような理解ができる。
これがポストモダンにおいてどう変化したか。例えば、アニメ、漫画、ゲーム、小説といったコンテンツにおいて、「百合」と呼ばれるジャンルがある。これは広義に、女性同士の関係性を描いた作品を指す言葉とされる。2022年の夏に放送を開始した『リコリス・リコイル』というTVアニメ(本論執筆時点では第四話まで放映)(注8)や、桜庭一樹による小説『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』(注9)などが挙げられるだろう。こうした作品は、基本的に個々の作品としてではなく、「百合」として、描かれる女性同士の関係性の美しさ、「尊さ」を消費されることになる。近代的な文脈において重視される、物語が描く主題(大きな物語)は、ほとんど顧みられることがない。登場する女性たちの関係性を表象する、無数の表現のデータベース――「手をつなぐ」など――から、任意のものが抽出され、組み合わさり、「百合」作品は生成、あるいは解釈される。そして「百合」を意味する表現のデータベースは読者の間で共有され、その表現を作中に発見するたびに、読者たちはその関係性の美しさ、「尊さ」を感じ、喜ぶのである。だからこそ、「百合オタク」たちは、たとえ定義の上では等しく「女性同士の関係性」を描いた作品であったとしても、「百合」と「レズビアン」を同一視しない。「百合」作品と「レズビアン」作品では、属するデータベースが――関係性を表象する表現の形態が――微妙に異なってくるからだ。「夕暮れの河川敷で、手をつなぎながら帰る女子高生二人組」は、立派に「百合」として成立するが、一方で「レズビアン」と見るにはやや不十分であるといえる。こうして、作品は、個別的にその主題を読解されるわけではなく、「百合」というジャンルに属する作品として消費され、「百合」という文脈で、いかに「百合」のデータベースを引用しているかで測られる。
主題(大きな物語)が存在しないという、以上のような「データベース」を主軸とするスタイルは、コンテンツの消費に限らず様々な分野に観察される。そもそもポストモダンの重要な要素たる「インターネット」そのものが、まさにデータベースそのものであろう。近年の傾向において、小説であれ、ウェブの検索エンジンであれ、大切なのは、背景に存在するデータベースからいかに要素を抽出するか――このような状況を見るのであれば、東浩紀の指摘通り、確かに現代は「データベース」的だといえる。
しかし最も注目すべきは、現代をどのような理論で理解するかということでなく、何よりもまず第一に、近代世界の「ツリー・モデル」が崩壊へ向かいつつあるという事実である。そしてさらにいうのであれば、崩壊はいまだ完了していない。つまり過渡期にあるということだ。
この点で、非常に興味深い事例がある。2022年7月に、大阪・関西万博の公式キャラクターの愛称が「ミャクミャク」であると発表された。奇抜で謎めいたデザインゆえに以前から注目されていたものの、愛称が決定されてからの騒動には、それ以上のものがある。「怪異の名前っぽい」と「様」をつけて呼ばれるようになったばかりか(注10)、Twitterユーザーを中心に二次創作的なイラスト、あるいは物語が量産されるに至ったのだ(注11)
この現象を分析すると、先に述べた三つの構造――近代的な「ツリー・モデル」と、ポストモダンの「ネットワーク・モデル」「データベース・モデル」――のすべてを観察することができるのである。
まず「ミャクミャク」が注目を集める原因には、その奇抜で謎めいたデザイン以上に、これが「大阪・関西万博」のキャラクターである、という前提が重要となる。公的な、権威的な発信者による情報であるにも関わらず、かくのごとく、ある種冒険的な見た目をしている――この意外性が、何よりも重要なのである。もしも一介のイラストレーターによってpixivに投稿された意匠であったら、これほど話題にはならなかったろう。おそらくは多くの人々の実感と一致し、いまだ近代的な「ツリー・モデル」、つまり権力・権威を持った情報発信者(政府、出版社、新聞社など)は、ある程度、維持されている。
続いて、情報受信者であるTwitterユーザーが、二次創作的に無数の「ミャクミャク様」コンテンツを生産していった現象を見る。ここには明らかに、ポストモダン的な「ネットワーク・モデル」の特徴が現れている。人々が情報受信者であると同時に発信者であり、相互に影響を及ぼしあう。だからこそ、ある人はコンテンツを生産し、別の人はそれを消費し、そして流行的な生産の波に、自らも参画しようと試みる。このような「生産→消費→生産」といった連鎖反応は、相互干渉型の「ネットワーク・モデル」だからこそ成立しうる。情報が一方的に流通する近代の「ツリー・モデル」では、コンテンツ消費者による生産行動への参画が、なかなか実現しないからだ。
そして、このような無数のコンテンツの集積として、「ミャクミャク」は人々にイメージされるようになる。公式の設定・図柄だけでなく、二次創作的に生産された設定・イラスト、及びそういった二次創作的生産行為そのもの、これらすべてが等価とみなされ、全体がある種の「社会現象」として人々の記憶に焼き付くのである。一つ一つのコンテンツは、各々が主題(大きな物語)を持つわけではない。背後にある「ミャクミャク」という無数のコンテンツ(情報)の集合体、つまりはデータベースにおける位置づけによって、その価値を決定される。まさに、東浩紀の「データベース・モデル」であろう。
以上の通り、現代の社会現象には近代の構造、そしてポストモダンの構造が、共存していることを観察できる。これこそが、詰まるところ現代社会が、近代的「ツリー・モデル」から、ポストモダン的「データベース・モデル」あるいは「ネットワーク・モデル」への、過渡期にある証左なのだ。
そして筆者は、この「過渡期」に見られる大きな主題――ポストモダンにおける「新しい理念」の反映――として、「逃走」そしてその「肯定」を前章で示した。「新しい理念」とは何か。次章で触れていきたいと思う。
第三章 新しい理念
「ツリー・モデル」にあった近代社会において、法律や道徳を含む「理念」とは、上から与えられるものに他ならなかった。政府により発布される法令や、出版社や新聞社を起点に流通する様々な書籍、新聞が、人々に「理念」を半ば強制的に受容させていたのである。無論、「人を殺してはならない」「人のモノを盗んではいけない」などといった、高い普遍性を備えるものはやや事情が異なってくる。これらはある種、個人同士が相互に安全を保障する社会契約の発展であり、だからこそ人々の多くは、上から与えられていなくとも――法に記されていなくとも――「普遍的なものである」と考えるだろう。もちろん筆者も、その一人だ。「私はあなたを殺さない代わりに、あなたも私を殺さないでね」。この根源は「自分がされて嫌なことを他人にしない」ことであり、上からの押しつけでも何でもないように思われる。しかしながら、こうした安全保障型の「理念」以外に、「嫌なことから逃げてはならない」といった、個人の目線では意義を読み取りにくい道徳も確かにあるのだ。
「嫌なことから逃げてはならない」のは、一般に「努力することが大切だから」であるという。努力することによって、かけがえのないものが得られるのだ、人生が豊かになるのだ、と人々は固く信じている。あるいは、信じて「いた」。いうなればジャンプ少年漫画的なこの「理念」は、しかし現実に即していない。努力が報われないことは多々あるし、嫌なことに立ち向かった挙句精神を病んでしまう場合も当然あり得る。ブラック企業などがまさにそれだ。個人のレベルで、この理念は決して利益ばかりをもたらさない。むしろ「嫌なことから逃げてよい」とした方が、はるかに個人の素直な欲求に即しているといえるだろう。では、誰にとって有益であったか。いうまでもなく、「全体」である。
近代の「ツリー・モデル」において、ほとんど唯一の情報発信者として頂点に立つのは、政府、出版社、新聞社といった、情報拡散能力を半ば独占する集団、あるいは権力者である。彼らは、社会全体を俯瞰し、啓蒙する立場にある。もしも人々が「嫌なこと」からすぐに逃げ、立ち向かうことをやめてしまえば、一体どうなってしまうだろう。勤労、勤勉、そういった「嫌なこと」は、個人の欲求とは相反し、社会全体には必要である。ゆえに、彼らは「嫌なことから逃げてはならない」という理念を作り上げる必要があった。この「上からの」理念は、近代の「ツリー・モデル」における必然として、一方的に伝達・維持され、一般市民に受容させることとなる。
しかしながら、現代においてこの「ツリー・モデル」は急速に崩壊しつつある。そして相互干渉型の「ネットワーク・モデル」の中で、あらゆる人が情報発信者としての能力を持つ。つまり、かつて権力者や権力集団に独占された、「理念」を発信する役割が、市民一人一人に委譲されつつあるということだ。ここで、筆者がたびたび口にしてきた「新しい理念」が誕生する。例えば、ある個人から発信された「嫌なことから逃げてもいいよね」という「逃走」を肯定する何気ない一言は、共感を得て拡散され、あるいは共感者により語りなおされ、共有され、一般論(理念)へと昇華される。市民一人一人のインターネット上での意見表明が、相互に干渉しあい、拡散され、集積していく。全体の利益のためではなく、誰もが個人として共感する、個人の欲求に即した「新しい理念」が、合議的に、無数の意見の共鳴・集積(データベース)として、自然に形成されていく。これは近代における「大きな物語(主題)」としての理念ではなく、ポストモダン的な「データベース」型理念である。この「理念」の一つこそが、第一章で述べた「逃走」と、その「肯定」に他ならない。
誰もが個人として共感する、個人の欲求に即した「理念」――と筆者は記した。それは、「自己犠牲」や「献身」、あるいは「我慢」といったストイックなものではあり得ない。旧来の理念に照らしてみれば、むしろきわめて堕落的であるだろう。すなわち自分自身の快楽であり、欲求の満足だ。自分が常識の範囲内で不自由なく暮らすということ――それこそが最も普遍的に個人として共感できる、最重要事項であろう。食事を摂る自由であり、自慰をする自由であり、何より「嫌なことから逃げる」自由。確かに今までの「理念」においても、個人の常識的な欲求は、社会全体の利益を損なわない限り優先されてきたはずだ。それは先に「安全保障」と形容した、「自分がされて嫌なことを他人にしない」原理による。「自分が妨害されて嫌な欲求は、他人に対しても妨害しない」。例えば、「健康で文化的な最低限度の生活」の保障がそれである。しかしこの原理と、社会全体の利益がぶつかり、後者が優先された場面は確かにあるのだ。これが、嫌なことからの「逃走」という欲求である。近年みられる「逃走」への肯定は、こうした近代的理念における個人の欲求への抑圧に対する、反動といえそうだ。
現代、相互干渉型ネットワーク構造によって、無数の個人の欲求、その共感・共有・集積(データベース)としての「新しい理念」が構築されつつある。この中で人々は、普遍的かつ素朴な欲求として、嫌なことからの「逃走」を語る。「逃走」は肯定的にとらえられ、「異世界転生」「異世界転移」や『エスタブライフ』『よふかしのうた』といったコンテンツに反映されていくのである。ある特定の啓蒙家による思想や、まとまった形で明文化された言説でなく、中心を持たない、不特定多数による何気ない意見の集合(データベース)であるがゆえに、この「理念」はなかなか認識されづらい。しかしその実在は、今までの議論の中で確かに証明されたと思う。
もちろん、このような形で形成される「新しい理念」は、決して「逃走」だけではあり得ないだろう。全体の利益のために否定されてきた、個人として抱く普遍的な欲求は、他にもあっておかしくない。しかし現段階において、筆者の眼には「逃走」に匹敵する大きな潮流が見えていない。更なる分析の展開は、また別の機会に持ち越そうと考えている。
参考文献
注1……[就活ON! DATA]「退職代行知っている」51%.読売新聞.2019.10.01,東京朝刊,ヨミダス歴史館,https://database.yomiuri.co.jp/rekishikan/ ,(参照2022-07-27).
注2……「いじめから逃げろ!」が独り歩きすると、危険もある | ストップいじめ!ナビ.http://stopijime.jp/data/data003.html,(参照2022-07-27)
注3……石井ぜんじ.『ライトノベルの新潮流』.スタンダーズ株式会社,2022,351p.
注4……河合滋樹, 2022, 『異世界おじさん』(アニメ), 異世界おじさん製作委員会.
注5……橋本裕之, 2022, 『エスタブライフ』(アニメ),エスタブライフ製作委員会.
注6……板村智幸, 2022, 『よふかしのうた』(アニメ),「よふかしのうた」製作委員会.
注7……東浩紀.『動物化するポストモダン』.講談社,2001,200p.
注8……足立慎吾,2022『リコリス・リコイル』(アニメ),アニプレックス・ABCアニメーション・BS11.
注9……桜庭一樹.『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』.富士見書房,2004,206p.
注10…ミャクミャク様はいつミャクミャク様になったのか(鳥海不二夫) - 個人 - Yahoo!ニュース.https://news.yahoo.co.jp/byline/toriumifujio/20220721-00306480,(参照2022-07-28)
注11…大阪万博「ミャクミャク」大人気の理由は?東京五輪「ミライトワ」との明暗(週刊SPA!) - Yahoo!ニュース.https://news.yahoo.co.jp/articles/bb4081464533b21e21e3a65265da1d78a802177a?page=2,(参照2022-07-28)