大したことないからこそ「在りたい自分」を考えることに意味はあるんだよなぁと思った話

〜高校生だった自分を思い返して〜

テレビの向こう側にいる人を羨ましくは思わなかった。
華々しく活躍する誰かのことも、別に妬ましくはなかった。

今も、そう。
けど、当時の感覚とは全然違っている。

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あの頃、「あっち側」にいる人達は、選ばれた人だと感じていた。
もちろん「あっち」にもシンドいことが嫌ってほどあるのは分かってたけど
「選ばれているから」努力する価値がある/ガンバルことができるんだと思っていた。

だから
はじめから「羨ましい」なんて感情は湧かなかった。
「あっちの人」は「最初から違う」生き物だった。

ぼくらは「こっち側」。分相応に生きねば、と。
「望む」なんて「こっち側」にとっては、あまりに大それたことだ、と。
そう思って高校、大学と眼前のものより多くは望まないでいた。

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それが"普通"だと思っていたのに。
「こっち側」だと思ってた奴が、いつの間にかスポットライトを浴びている
一緒にバカやってたあいつが、遠いとこに行ってしまった感じがする

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そんな友人を見ていて、ようやく理解した。

「あっち側」の人達は、「選ばれた」んじゃなくて「選んだ」んだ。
険しい道を往くことを、あえて選択した。

そこを往くには、
「凡庸な自分」に向き合わなきゃいけない。
馬鹿にする多くの人の目と戦わなきゃいけない。
「どうせ失敗する」っていう諦めを無視しなきゃいけない。

だから、今いるところが居たい場所なら、ソレも良い。

居たい場所を守るのだって、それはそれで大変だ。

大事なものは、変わっていってしまう。
唯一無二だったあの記憶は、多くのものの1つになってしまう。
「変わらない」でいると、居かった場所は、
いずれ居たい場所ではなくなってしまう。

凡庸に見える「その場」だって、自分が勝ち取った居場所なんだ。


大事なのは「望んだこと」を認めることだ。
「選んだこと」を誇ることだ。

そうすれば、ステージとアリーナとの間には、
想像しているほどの隔たりは、ない。


あの段差は、「超えられない壁」じゃない。
「どこを望んだか」の差だ。

「すごい人達」は、確かに凄いけど、
超えられない壁として受け止める必要はない。
かといって、そこに行けない自分を卑下する必要もない。

大したことない自分は、今もたいして変わらないけれど、
それでもできることはある。ある程度は増えてもいく。
安心して諦観を手放して、自分の往く道を楽しめばいい。

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