ボロ家は「あるべきもの」がない
ボロ家の現実。
それを表現すると筆頭格は「あるはずのものがない」に尽きる。
私たちが買った家も、多分に漏れずあるはずのものがなかった。
そんなお話。
私たちの家は変わっていて地面から鉄骨で組んだステージ上に建っている。
だから、厳密に言えば土の上に建っているわけではなくコンクリート製のステージが地面ということになる。そのステージはステージでまた問題大ありの状態なのだが、それはさておく。
ステージの片付けをして積もった土やら苔を高圧洗浄機で吹き飛ばす。
そうしてから試験的に外壁を剥がしてみる。
「やはりね、想像以上だったけれど」
建物を支える土台はシロアリに食い尽くされて消滅しかかっているし、そこから上に伸びる柱も同様だ。
ここは長年放置された雨樋が壊れて、屋根からの雨や雪解け水が落ちるところ。その水が跳ね、常に濡れている場所。腐るとか、シロアリに食われていない方が異常だろう。長い年月かけて積もった床下の土は握れば水が滲み出てくるような状態だった。ここはコンクリート製のステージ上。水分が消えることはないのだ。
この家は、まずあるはずの土台や柱がない。
別の一角の外壁も剥がしてみる。
ここは南側。陽が当たってる分土台は消滅していない。
でも、やはりあるべきはずのものがない。ないものとは「基礎」
基礎とは木製の土台を支えるコンクリート製のもの。それがない。正確にはあるにはあるが風化して消滅しかかっているのだ。
ここまでくるとよく建っているとなる。
よく僕たちは家は絶妙なバランスで成り立っている。と表現することがある。別にやじろべえのようなものではないが、基礎や土台、柱や梁といった家の骨格を構成する材料がそれぞれ関係性を持ちながら建っている。
そんなイメージだ。僕たちのこの家はそのセオリーを完全に無視している「現状」で、それでも建っている。
お客さんが家を買うときに耐震性というものを質問してくることがある。新しい建物であれば一定の評価をすることができるけれど、古いものだとそうはいかない。建築基準法も技術も今とはまったく違うものだからだ。そんな時はそのまま伝え「現実に建っているというのが答え」という表現で説明することがある。
僕たちのこの家はまさにそれなのだ。
自分たちが買った家がボロだと知っていても、こんな現状を目の当たりにしたら失望あるいは絶望するかもしれない。でも極端な言い方をすれば、こういうことは珍しくもなんともない。僕たちも驚きや呆れといったものはあったけれど、「さてどうしよう」思案のしどころ・・・そう思ったくらいだ。
古い家(ボロ家)を買って直して暮らそう。
そう思って安い物件を探そうとする人は多い。
けれど、安ければその後にコストがかかるもの。高ければその後のコストは抑えられる。少し考えればわかりそうなものだが、結果はどちらも変わりはないのだ。
僕たちがこの話をお客さんに話す時の例え話が「いくら」と「すじこ」を引き合いに出す。すじこはいくらよりも安価で買うことができる。いくらもすじこも元は同じもの。ただ、加工されているかどうか。すじこをほぐし、粒の大きさを選別し、醤油や調味料で味付けをする。わかりやすく言えば、その手間隙がいくらとすじこの差なのだ。
本筋に戻すと、僕たちのこの家は基礎も、土台も柱もなんとかしなければならない。けれど、何とかならないわけはないのでやればいい。
思い描いたカタチをイメージしたら心躍るような気持ちになれたら十分。きっとそれが糧になるはずだ。
まとめる
◉ボロ家には「あるべきはずのものがない」ことが多い。
◉安いということは「コストの後払い」と考える。
◉大事なのは「直した先」をイメージして心躍るようなものを選ぶ。
といったところ。
基本計画はのんびり立てていくとして。