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「日曜日のよるご飯」の位置付け
「日曜日のよるご飯」
と聞いてどんなイメージを持つだろうか。
今日、よるご飯を作りながら、昔よりも「日曜日のよるご飯」に対してネガティブなイメージが無くなっている事に気がついた。
年齢、家族構成、仕事などの自分が置かれている状況によって「日曜日のよるご飯」に対して抱くイメージがだいぶ違ってくるのだと思う。
10代の「日曜日のよるご飯」
10代でまだ実家に住んでいた頃。
この頃はとにかく「日曜日のよるご飯」は、”退屈でつまらなくて憂鬱なもの”だった。
週末はひたすらいつもの友達と遊んでいた。
何をしていたのかと言われてもあんまり思い出せないけれど、大して意味もないけど楽しいことをしていたのだと思う。
両親が門限に厳しい部分があって、高校生でも17:30には帰らないと鍵をかけられて締め出された。
「日曜日のよるご飯」は、週末遊び終わって退屈な日常に戻る合図だったし、学校が明日から始まるという憂鬱な時間だった。
20代の「日曜日のよるご飯」
20代はひたすら仕事をしていた記憶しかない。
21歳で専門学校を卒業し、映像制作会社に入社。
ブラックなんて言葉がまだ流行する前だったけど、長時間労働が当たり前で土日は愚か朝も夜もない生活をしていた。
つまり「日曜日のよるご飯」は、”記憶になくてどうでも良いもの”になっていた。
何を食べた、とか、
どこで食べた、とか、
誰と食べた、とか、
ほとんど覚えていないし、食事自体がガソリン給油みたいなもので、その時間そのものに意味なんて見出していなかった。
たまに友人や恋人と食事をすると、ぼくだけさっさと食べ終わってしまって
「食事って誰かと会話を楽しんだりする時間でもあるんだよ」
と怒られた事もある。
今考えてみると、とても勿体無い時間の過ごし方をしたなと思う。
でも当時の自分には、そういう時間に大切なものが潜んでいると考える事はできなかった。
30代(現在)の「日曜日のよるご飯」
今は結婚もして、子供も出来た。
そして、事情あって2020年は半年ほど仕事を休んで家事と育児をしていた。
今「日曜日のよるご飯」に関して持つイメージは、”ちょっと切ない、家族の楽しい大切な時間”になった。
この”ちょっと切ない”というのがミソで、ただの”家族の楽しい大切な時間”ではないのだ。
ハッピーな空気に満ち溢れて笑顔がこぼれてる、という様な陽気な印象ではない。
明日仕事に行く妻や保育園に行く娘の顔には、10代の頃の”退屈でつまらなくて憂鬱なもの”がちょっとだけ顔を覗かせている。
だからこそとてもかけがえのない時間になるのだろう。
これは今自分が仕事に行かない立場である、という特殊な条件があるから発動している感覚なのかもしれない。
妻や娘の憂鬱さを受け止めていて、せめて楽しい時間で送り出してやろうとしている。
これが切なさだ。
もう少しでぼくの仕事も再開する。
そうなったらまた「日曜日のよるご飯」の意義は変わってくるのだろうか。
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