資本主義における経済主体がもたらす価値の二元性とそこから構築されるモデルについて
執筆のきっかけ
どうもたかはしさとしです。note執筆はずいぶん久しぶりとなりますが、これから思ったことを書いていきたいのでよろしくお願いします。
最近ぼくが所属する澤サロンのイベントでご一緒した山崎奨さんのnote記事「本質価値と財務価値の不適切な関係を、「時間」というフィルターを通して考察する。」とその元ネタである中村 研太さんのFacebook記事を読んで、感じるところがありましたので投稿します。
古典的価値二元論
私は経済畑出身ではなくて、哲学や思想が好きで人文系の学問に触れることが多いのですが、そちらの価値観からすると、中村さんの記事を読んでまず思い浮かんだ分類がマルクスの価値の二分類です。
もちろんこれは企業がもたらす価値、という視点ではなく、商品がもつ価値という観点でマルクスが論じているものなので、すぐに援用できるかまで含めてよく考えないといけません。考えるモデルとしての参考程度にはなると思いますので、一応ここで書いておきます。
マルクスはものとしての価値には使用価値(厳密にいうとマルクス自体は本来の普遍的価値と言っております)と交換価値があると考えました。
使用価値
使用価値とはものそのものを使用して得ることができる価値です。水は、人間が生命維持のために飲むという使用価値や、洗濯物をする際に使うという使用価値、植物を成育するために与えるという使用価値、工場で商品を生み出す際に利用するという使用価値、など様々な使用価値があります。水の使用価値とは、それら水を用途として使うことのできる使用価値の総体をさすことばでもあります。
この使用価値は元来、貨幣量で表すことのできないものです。いわば使用価値とは、ものそれ自体を利用して人間が得ることのできる価値のことです。
交換価値
使用価値に対して、マルクスは商品には交換価値という価値もある、と指摘しております。こちらが現代、生活上普通に使う価値ということばです。
ものが交換価値を持つとき、そのものは商品として成り立つ、とマルクスは指摘します。
交換価値とは、あるものと別のものとをある一定の比率で交換できる際に生じる価値です。たとえば卵1個に対して、みかん3個が交換できる、というときに卵1個の使用価値はみかん3個である、と言うことができます。人が二人いて、このように交換できる状況があると、そこには市場が成立していることになります。
貨幣経済が発展した社会では、交換価値は通常貨幣量で表すことができます。卵1個が60円だとすれば、みかん3個もまた60円であると考えることができるのです。
交換価値とは、貨幣量で表すことができる価値のことですから、商品やサービスを市場に流通したときに、購入者(消費者)が対価として払う金額そのものです。交換価値とは、使用価値のうち、特に代替可能な商品やサービスの機能についての価値である、ということができると思います。
ここで使用価値と交換価値という分類を見てきましたが、ここから本題に入っていきます。
本質価値と財務価値
中村さんは価値には本質価値と財務価値という二つの価値がある、と言っておられます。この本質価値と財務価値について雑感をここに載せます。
本質価値
本質価値について、中村さんはこう述べておられます。
中村さんが定義されている本質価値は、マルクスのいう、ものが持つ普遍的な価値(≒使用価値)と近い部分があると思います。経済主体の本質価値は、経済主体が生み出す商品やサービスの使用価値と対応する、とひとまずいえるんじゃないかな、と思います。
中村さんは本質価値に未来という時間軸のことも含めて定義されておられるし、また経済主体側の持つ本質価値と商品の持つ使用価値という点で、同一のものではもちろんありません。
ぼくが感じるには、本質価値が経済活動のもたらすベネフィットの源泉であり、同時にベネフィットの総体でもあるということです。
ことばを変えていうなら、本質価値とは、人が受ける(よいと感じられる)経済主体自体のもつ影響力のすべてをさす、ということでしょう。
財務価値
中村さんのおっしゃる財務価値は、経済価値とも言い換えられる、いわば財務的に評価できる価値をさす、と言えるでしょう。
等式的に表すと、おそらく次のようにいえるのかな、と読み取れます。
本質価値ー財務価値≒ESG
財務価値とは経済価値と言い換えられるとおり、特に貨幣的に評価できる価値をさしているのかな、と感じています。
もっというなら財務価値とは財務諸表に載るような資産や費用が念頭におかれていて、貨幣的に計測可能な価値のことでしょう。
本質価値モデルと論点について
こうしたことをイメージしつつ、5の企業活動がもたらす本質価値の考察は非常に良い考察だと感じます。もちろん実証的に検分する必要性はありますが、原案としてはかなり適切かつ鋭い指摘のように感じます。
i) 本質的な構造は上記の通りステークホルダーごとに【企業がもたらす本質価値】と【企業にもたらす未来財務価値】がことなるが、それぞれの本質価値の計測は困難である
⇒ぼくが考えるには、本質価値の完全な計測はできません。本質価値とは哲学者マイケル・ポランニーのいう暗黙知そのもので、明確に”これ”といった言語化や数値化が困難なもので、未来の価値も含んでいるのでこれは当たり前です。
しかし、だからこそ本質価値を取り上げて考える意味があるように思います。どういうことかというと、本質価値のような簡単に計測化できない部分でどのような影響を与えているかを知るのは確かに難しいわけです。しかし、どのステークホルダーに対しても、ヒアリングやアンケートなどでそうしたものを間接的に知ることはできます。そうした資料に加えて自分たちのもつ実感を用いて、たえず自社が持つ財務価値以外の部分をとらえなおして、考えるようにできれば、それだけでも考えない企業に比べてかなり大きな差を生むことが将来的にはできると感じます。本質価値は企業の本質的な価値であり、計測できなくてもそれがあることを実感して、目を向ける必要があるのだと感じます。そのうえで5の各ステークホルダーに対する本質価値の考察のようなモデルは非常に役立つと思います。
ii) 本質価値を毀損している状態でも、フィードバック係数の状況により、財務価値への毀損が顕在化しないシチュエーションは多い。
⇒これはおっしゃる通りだと思います。この問題を現出化するには、システム思考などの考え方を取り入れて、フィードバック係数がどこにどのような影響を与えているかを示したシステム図などを常に手元に置きつつ、なぜ財務価値の毀損が顕在化しないかを考える必要があるように感じます。
iii) 上記モデルのように、企業とその本質価値の値とフィードバックパラメータを定義することにより、数理的モデル化もできる??
⇒今の構想段階では、どこの値とフィードバックパラメータをどのように定義して使うかが明確ではない部分もあり、難しい部分もあるでしょうが、相関的にどこがどう影響を与えているかをを常に意識してモデルの洗練化に努めれば、一種の数理的モデル化も可能じゃないかな、と勝手に思っております。
最後に
以上、あまり普段文章化しない話題や論点ですが、自分なりに考えてみました。非常に拙い考察ですが、ぼく自身もこうした問題を考えることで、改めて自分の経済的活動に関して大事にすべきところを捉え返すことができました。その点で、この機会を与えていただいた中村さんと山崎さんに感謝いたします。