隠しきれないロマンティズム。それがブラームスの本質だ!
プロフィールに「ブラームスが大好き」と書いておきながらなにも触れないのはルール違反だろう。というわけで今回はやや強引なブラームスについての考察を。
好きな曲はたくさんある。ラトル&ベルリン・フィルのテーマソングだった『ハンガリー舞曲第一番』は死ぬほど好きだし、『運命の歌』は合唱で歌って、ああこの人はこんなふうにいろんなことを仕掛けるんだと驚いた。『ヴァイオリン協奏曲』は子どものころから何度聴いたのかわからないし、『交響曲第二番』の第四楽章のフィナーレはいまだに少年のように心が弾んでしまう。
それでも今回はこの二曲を取り上げたい。『交響曲第三番ヘ長調』と『クラリネット五重奏曲ロ短調』だ。
「ブル3」の魅力は、躍動感あふれる第一楽章とむせび泣くような第三楽章に尽きる。
第一楽章の最初のテーマはまるで海岸に打ち寄せられた大きな波が砕けて、砂浜に静かに染み込んでいくみたい。息の長いメロディが聴く者の心をとらえて離さない。「ブラームスの『英雄交響曲』」と呼ばれることもあるが、僕はむしろシューマンの交響曲第三番『ライン』へのオマージュなんじゃないかと睨んでいる。
第三楽章のチェロのメロディは、なんというか、クラシックというよりも映画音楽に近い。シナトラやジェーン・バーキンがカバーしているのもうなづける。中間部の後で再現するホルンの音色のなんといじらしいことか。
たぶんブラームスは、筋金入りのロマンティストだったのだ。でなければこんなメロディ、格式高い交響曲の一節に入れるはずがない。
いや、そこにこそブラームスの本質が隠されているような気がする。
つまり、ほっとくと勝手にあふれ出てくる「ロマンティズム」を新古典派の形式の中にがんじがらめで縛ることによって、ワーグナーに対抗する「ベートーヴェンの真の後継者」としての威厳を保っていたのだ。
それは本意ではなかったかもしれない。本当はシューマンのように自らの狂おしい情熱に身を任せてしまいたかったのかも。でも、できなかった。シューマンの狂気を目の当たりにした一番弟子は、厳しく自制することでクララの信頼を勝ち取り、自らの芸風としたのだ。
亡くなる六年前に作曲された『クラリネット五重奏曲』も基本構成は変わらない。でも、もう少し自由度が高いような気がする。「死ぬ前に、どうしてもこれだけは歌っておきたい」という「白鳥の歌」的名曲だ。
知人の死が続き、すっかり創作意欲をなくしていたブラームスが、クラリネット奏者ミュールフェルトとの出会いから一気に書き上げたこの曲。「死を目前にした作曲者の諦観が表現されている」と言われるが、実はそんな生易しいもんじゃない。死を前にした彼のもどかしいまでの生への憧れ、生への執念をクラリネットの愁いを帯びた音色に乗り移させたと僕は感じている。
とにかくよく練られた曲だ。冒頭のメロディはこれぞまさにブラームス。まるでロマンティックの塊。でも楽章が進むにつれ、違うブラームスも顔を出す。冷静で理知的だが、どこかノスタルジーな内面が垣間見える。若い頃、二十曲近い弦楽四重奏曲を全部捨ててしまったという彼だからこそ到達できた彼岸の風景が目前に広がる。
ところで、ブラームスはなにも生涯クララに操を立てていたわけではない。
美貌の誉れ高いシューマンの三女、ユーリエ(写真が残っていました!)に恋心を抱いたが、彼女はイタリアの伯爵と結婚。失恋の思い出に『アルト・ラプソディ』を作ったのは有名な話。「ブル3」にも若いアルト歌手ヘルミーネ・シュピースへの恋愛感情が込められていると言われている。
彼には「赤いはりねずみ」というなじみのレストランがあって昼はそこで済ますのが習慣だったが、どうやらなじみの娼婦もいたらしい。ロマンティックな男は死ぬまで枯れなかったのだ。
「付記」
以前、作家の藤谷治さんが「ブラームスはどれも『第一番』が素晴らしい」と言っていた。交響曲しかり、ピアノ協奏曲しかり、チェロ・ソナタしかり。これはなかなか面白い指摘だと思う。そもそもブラームスには「三曲セット」が多い。ピアノ・ソナタ、ピアノ三重奏曲、ピアノ四重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲もそう。たぶん意図的なんだろう。
その昔、ある人から「交響曲のベスト指揮者を教えて」と聞かれたことがある。僕が選んだのは、「第一番はミュンシュ、第二番はクライバー、第三番は圧倒的にフルトヴェングラー、第四番はワルター」というもの。みなさん、いかがでしょうか。