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福生のマンションで暮らした、素晴らしき日々。


九州の誰もいない実家に三日ほど帰ってきた。

両親のお墓参りをし、小倉の映画館で映画「すばらしき世界」を見た以外はずっと家にいて、あたりを片づけるわけでもなく、ただ何となくぼおっとしていた。

途中、思いついて押し入れからアルバムを取り出した。自分の高校時代とかのものを探したのだがそれは発見できず、代わりに母親や父親のものがいくつか出てきた。

母親のアルバムをぱらぱらとめくる。旅行に行ったときのものが年代順にきれいに整理されていた。そういえば母親は写真を整理するのが好きな人だった。

ページをめくる手が止まる。短パンをはいてキッチンでコーヒーを入れている自分の姿が写っていた。社会人になって初めて暮らした福生のマンション。そういえば当時、母親が訪ねてきたような気がする。部屋の写真もあった。古いベッドと小さなテレビ、ガラス盤の卓上テーブルと出窓に置いたミニコンポ、ファンシーケースとみすぼらしいカーテン。

たったそれだけの六畳一間に二年間住んでいた。そこから五反田にあった美術系の出版社まで、毎日二時間近くかけて通っていたのだ。

ブルー

あのころ、どうしてそんな遠くの福生なんかに住んでいたのかというと、家賃が圧倒的に安かったからだ。

小さな専門出版社の給料はたかが知れていた。ボーナスは出るには出たが、手渡しの封筒をのぞいてみないといくら入っているのかわからない。だから家賃は極力抑えたかった。

もうひとつ、福生を選んだのには理由がある。ここは村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』の舞台であり、大瀧詠一や山田詠美がいまもそこで暮らし、ハウスと呼ばれる米軍キャンプの将校たちの住居がまだ残されていたからだ。

春まだ早いある日、青梅線に乗って初めて福生駅に降り立った。駅前のロータリーにあるマックにアメリカ人がいるだけでなるほどと感心してしまう。最初に目についた不動産屋に入ると、すぐに新築物件を紹介された。まだ建設中で中は見られないけど、三階の角部屋で家賃三万五千円。おすすめですよ、と。

現地まで歩いてみた。国道十六号線を挟んで米軍キャンプには五分ほど。すぐ近くにコインランドリーもある。何よりコンクリート製の新築マンションというのに目がくらんだ。即決して頭金を払った。こういうときの決断は早いのだ。

会社の唯一の同僚男子であるMは八王子、後輩女子のKさんは武蔵小金井。だから僕らは会社を出ると中央線に乗り込み、いつも吉祥寺あたりで途中下車して新しい出版社づくりのための謀略を練っていた。

僕の部屋で何度か編集会議を行ったこともある。そのころはまだクラシックではなくジャズを聴いていて、ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」やザ・デイヴ・ブルーベック・カルテットの「タイム・アウト」なんかをかけながら作業していた。

ソニークラーク

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休みの日に十六号線沿いの古着屋をのぞいたり、年に一度、米軍のキャンプの中に入れるオープンデーに参加したりする以外は、特に福生に住んでるメリットは感じられなかった。深夜のコンビニで一度、山田詠美とすれ違った以外は有名人にも会えずじまい。だけどなんだろう。この二年間は僕の人生の中で際立って美しかったように思える。

お金はなかったけど、夢だけは誰にも負けずに見続けた。そんな時代だったのだ。

土曜日の朝。遅くまで寝ているとときどき、新聞の集金で起こされた。給料日前の休日に突然の出費は痛い。だから当然、居留守を使った。ある日、またピンポンが鳴った。僕は息をひそめた。何度か押されても決して出ない。そのうち敵はあきらめてすごすごと帰っていった。

後日、当時ブルーグラスのバンドを組んでいた先輩から「このあいだ、ゴルフの帰りに寄ってみたんだよ。いなかったよね」と言われて肝を冷やした。悪いことをした。そのマンドリン弾きの先輩は数年後、心臓発作で急逝した。いまでもあのときのことを思い出す。せめてのぞき穴を見て確認すればよかったと。
 
風邪をひくと、近所の中華料理店でスタミナ定食を食べ、オレンジジュースをいっぱい飲んでベッドに潜り込んだ。ここで死んでも誰にも気づかれないだろうなと思いながら。

あれがきっと僕の原点だったのだろう。そんなことを母親の写真は思い出させてくれた。

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