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ベルリン・フィルのコンマスだった安永徹のいま。
一九八三年、安永徹がベルリン・フィルの第一コンサートマスターに就任した。当時、このニュースはどれくらいの衝撃だったのだろう。
「八村塁がNBAドラフト一巡目でワシントン・ウィザーズから指名を受けた」級か「南野拓実がプレミアリーグ・リヴァプールに電撃移籍」と同じくらいか。個人的には「村上春樹がついにノーベル文学賞を受賞!(まだだけど)」に匹敵するのではと睨んでいる。
いずれにしてもカラヤン・ベルリンフィルのコンマスに日本人が就任するなんて、クラシックの世界ではほぼ「ありえない」レベルだった。
僕は北九州市の隣町で生まれ育ったので、安永徹の父親である安永武一郎が、自身が音楽監督を務める九州交響楽団を率いて地元の小学校のアウトリーチに来ていたことを覚えている。あの声の大きい、いかにも九州のおやじっぽい人から生まれた人が世界的オケのコンマスになるのか。どこかくすぐったいような親近感と胸をすくような優越感を味わったものだ。
あれは九十年代に入ってからだっただろうか。一度だけ、彼がコンマスを務めるベルリン・フィルを聴いたことがある。
いまもそうだが、東京でベルリン・フィルのチケットをゲットするのは大変なことだった。
まず、チケット料金がべらぼうに高い。当時で3万円、いまは5万円というところか。なんとかお金を工面しても、あっという間に売り切れてしまう。あとは何か月かたってNHKが放送してくれるのを首を長くして待つしかなかった。
ところがこのとき、僕は会社をお昼過ぎに抜け出せることになった。もしかしたら当日券が出ているかもしれない。ダメ元覚悟でサントリーホールに向かった。
案の定、当日券売り場に列ができている。僕は五番目か六番目あたり。何枚出るかわからないが、とりあえず並んでみることにした。
一時間ほど並んだころだっただろうか。いきなりテレビの取材クルーから僕らは声をかけられた。
「福岡のテレビ放送局の者です。安永徹さんのドキュメンタリーを収録しているのですが、スタッフ用のチケットが一枚余っています。皆さん、よろしかったらどうですか?」
どうもこうもない。僕らは十人くらいでじゃんけんをした。僕は最初に負けた。するとこのプレゼンターは「残念。本当はあなたにあげたかったんですけどね」と言ってくれた。なんてことはないエピソードだけれど、なぜか僕は安永徹というとこの日のことをよく思い出す。
結局、僕は当日券を買うことができた。プログラムはオール・ブラームスで、ブレンデルをソリストに迎えた「ピアノ協奏曲第一番」と「交響曲第三番」。指揮は就任して間もないアバドだった。
なんと、ピアノ協奏曲の第一楽章の最後でトランペットのピッチがものすごく狂うというハプニングが起きた。アバドは眉間にしわを寄せ、ブレンデルは涼しい顔でA音を叩き、オケは全員がチューニングをし直した。そこから汚名挽回とばかりに全員が熱く燃え、アンコールの「ハンガリー舞曲」まで見事に疾走したというコンサートだった。
安永徹はカラヤン、アバド、ラトル時代を生き抜き、二〇〇九年、六十五歳の定年を迎える前に自らの地位を手放した。後任に選ばれた樫本大進の活躍はご存知のとおり。日本人として嬉しい限りだ。
ところが、帰国した安永徹のその後の活動はあまりマスコミに流れてこない。奥様でピアニストである市野あゆみとデュオ・リサイタルを行っているが、体調不良などでキャンセルされることも多い。一方、二〇〇六年から始めた洗足学園音楽大学での指導は現在でも継続されているようだ。
安永徹の復活を期待する人は、おそらく枚挙にいとまがないだろう。
彼は頬に大きな痣があった。そのために何年か引きこもりになったという話がある。帰国後も病気に悩まされ、思うような活動ができなかった。リサイタルのレビューでは驚くほど辛辣な表現も見受けられる。
僕はいまの彼を聴いたことがないので、なにも言う資格はない。ただ、もし彼が弾けないというのなら、是非これまでの経験を書いてほしいと思う。多くの困難に打ち勝ち、日本人の先鞭をつけ、まだこれからというときにさらなる大きな困難に立ち向かわなければならなかった彼の不屈の魂の歴史は、後世に大きな教訓と励ましを残すにちがいないのだから。
二〇〇九年の一月、僕は単身ベルリンに行き、ベルリン・フィルのコンサートを聴いた。
メータの指揮、マレイ・ペライアのピアノでベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第四番」。コンマスは彼ではなかった。もしそうだったら、退任直前のスペシャルなコンサートになっていただろう。
当時、ベルリン・フィルハーモニーの広大なホワイエに、団員の巨大な写真が飾られていた。その先頭で安永徹はあの優しい笑顔を見せていた。
彼の笑顔はベルリンの地で永遠に輝き続けた。日本でも同じことが起きることを願ってやまない。