アリス=紗良・オットの未来。
いくら芸術至上主義とはいえ、クラシックもエンターテインメントである以上、容姿端麗なアーティストがもてはやされるのはもはや必然。かくして世の中には美人で異常に指が回るピアニストがひしめき合うことになる。
ユジャ・ワンはその代表選手のひとり。スパンコールがはめ込まれたピンクのミニドレスを着て身体をくねらせる様は、一夜にして世界中の男性ファンを虜にした。
グルジア出身のカティア・ブニアティシヴィリも妖艶さでは引けを取らない。数年前にサントリーホールでのリサイタルを聴きに行ったことがあるが、身体にぴったりフィットしたロングドレスをしゃなりしゃなりと着て歩く姿は、まるでクラシック界のマリリン・モンローのようだった。
そんなセクシーなお姉さまたちの中に紛れて、ひとり黒髪の初々しいハーフ美女がいる。アリス=紗良・オット。なにを隠そう、僕は彼女のけっこうなファンなのだ。
アリス=紗良・オットはミュンヘン生まれの三十二歳。父親がドイツ人で母親が日本人。ちなみに妹のモナ=飛鳥・オットもピアニストだが、人気・実力ともに姉のほうがだいぶ分がある。
彼女は典型的な憑依型のピアニストだ。コンサートでは必ず裸足。なんだか照れたような笑顔を見せながら袖から出てくるのだが、演奏が始まるや否や瞬時にして豹変。全身全霊で音楽に没頭してしまう。目を瞑って身体を前後に揺らせるなんて当たり前。ほとんど取りつかれたように身体を回し、あらゆる音に自らの魂のすべてを捧げる。
以前テレビで見たタケミツホールでのリサイタルでは、すべての曲を弾き終えるとしばし感極まって涙を流していた。まあその姿が可憐でいじらしくて、ファンにはたまらないのだけれど。
その華奢な身体から醸し出されるのは、実は骨格が際立った骨太な音楽だ。モーツァルトもシューベルトも正統派の解釈だし、ショパンやグリーグだってそれほど揺れは多くない。このあたりはドイツ人らしいというべきか。最近のアルバム「ナイトフォール」で取り上げたドビュッシーやサティ、ラヴェルではさすがにロマンティックでエモーショナルな息吹を感じた。彼女の新境地なのではあるまいか。
六年ほど前にフランチェスコ・トリスターノというイケメンピアニストと「スキャンダル」というアルバムを発表したことがある。そのリサイタルの映像ではくだんのイケメンにいいようにあしらわれてる気がしてやきもきしたものだが、あれはやっぱり恋人だったのだろうか。
なにかのテレビインタビューで「自分がドイツ人なのか日本人なのかわからず、アイデンティティが揺らいで苦しいの」みたいなことを言っていた。そのもろさ、危うさみたいなものが彼女のたたずまいに如実に出ている気がして、ちょっと心配になったりする。
いまからちょうど二年前、彼女は自分が「多発性硬化症」に罹っていることを公表した。脳の神経が冒されて手足の痺れや視力低下を起こす難病だ。最近見たミュンヘン・フィルとのコンサート(昨年の六月、無観客で収録されていた)ではいつもどおりのスタイルでモーツァルトを弾いていたから、まだ病状はそんなに顕著でないのかもしれない。
一日も早い恢復を願ってやまない。そうでなければ哀しすぎて、彼女のあの可憐な姿をこれ以上見ていられない。
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