山本コウタローさんのこと。
山本コウタローさんが亡くなった。
僕が男性誌に所属していたころ、コウタローさんの連載を担当したことがある。
二週間に一度、ロケバスに乗り込んでコウタローさんが気になる場所に取材に行った。最初は東京都のごみ捨て場として名高い「夢の島」。東海原発の近くに行ったこともあるし、アダルトビデオの撮影現場にも潜入した。原稿はすべて彼が書いた。きちんとした起承転結、それでいてどこかユーモアのある文体だった。
あるとき、コウタローさんが「修善寺の近くに有機農園持っているんだけど、行く?」と言ってきた。僕は二つ返事でオーケーし、せっかくだからと修善寺の旅館で一泊することにした。
ヒグラシが鳴いていたから、たぶん夏の終わりだったと思う。
いっしょに温泉に入り、少しだけお酒を飲んで、ふたり枕を並べて寝た。
どんな話をしたかはもう忘れてしまった。ただ、担当の編集者というより、普通の友人のように接してくれたことがすごくうれしかった。
「ヒロシマピースコンサート」の話を聞くために南こうせつさんに会ったり、四谷の「お箸で切れる」極上のステーキ屋さんでご馳走になったり。そうそう、同居人の映画評論家の彼女に取材したこともある。
場所は昔の全日空ホテル。僕は気を遣って、都内でも格式高いそのホテルを予約した。ところがサントリーホールの隣にあるホテルのティールームに彼女はずいぶん遅刻をして現れた。
「だから私、ここ、嫌だって言ったのよ。不便じゃない!」
開口一番、そうまくしたてる彼女の隣で、コウタローさんは「やれやれ」といった表情で黙って座っていた。
そのときのどこか悲しそうな横顔が、なぜかいまだに忘れられない。
連載は一年ほどで終了したが、それ以降、ときおり思い出したように連絡を取り合った。
僕の生まれた町で講演会をやってもらったときのこと。最初に「走れコウタロー」を歌い、拍手喝采を浴びたところで環境問題や「渡る世間は鬼ばかり」の裏話を語り、最後に「岬めぐり」で締めるという鉄板の内容。受けないはずがない。「ヒット曲が2曲もあるっていうのは、強いよ」。たしかにそのとおりだった。
書籍部にいたときは、吉田拓郎さんの本を書いてほしいとお願いした。「拓郎がオーケーしないよ」と断られ、代わりにライブに誘われた。四谷のライブハウス。バンドスタイルで、彼はオリジナル曲をいくつも歌っていた。「たとえお客が一人でも、心込めて歌うのさ」。そんな歌詞だった。
とても穏やかで、自然体で、幸せそうだった。
一か月ほど前、僕は企画会議でコウタローさんによる吉田拓郎の本を提案した。
彼の書籍におけるデビュー作『誰も書かなかった吉田拓郎』の続編を書いてもらいたい。あのときの企画を、今度こそ実現させたいと意気込んだ。訃報はその矢先のことだった。
73歳だったという。朝方、脳卒中を起こした。発見したのは同居人の彼女だった。
せめてもう一度だけ会いたかった。あの笑顔で「そうだったんだね」と言ってほしかった。
コウタローさん、あなたが大好きだったヤクルト・スワローズは、今年もセリーグを制しそうですよ。