四月の最後の休みの前に、晴れた空を見上げながら思うこと。
三回目の非常事態宣言に突入し、それでも毎日会社に出勤しながら思う。「一年前はなにしてたんだっけ?」と。
一年前。僕は週に一度だけ出勤していた。交代制だったから職場に行ってもほぼひとり状態。来客はなく、電話もほぼ鳴らず、ひたすらルーティンの事務仕事をこなしていた。
仕事に行かない日は午前中にジョギングをして、そのあと二時間ほど小説を書いていた。それは「ミモザ、最後の恋」という中編で、組織の命を受けてターゲットを腹上死させる殺し屋のミモザが、初めて好きになった人をはからずも殺してしまい、その罪を償うために組織を抜け、ユートピアを作り、最後に本当の恋を見つけるというストーリー。相変わらず破天荒な内容だが、自分では結構気に入っていた。
昼食をはさんで、午後はたいてい近所の公園を散歩した。
道すがらよく目にしたのは黄色いミモザと薄紅色のアネモネ。ほかにも大ぶりなタチアオイや泰山木の白い花に心を奪われた。この年になって花々に慰められるとは思わなかった。意外な発見だった。
そして心ひそかに思っていた。あの子はいま、なにをしているのだろうと。
未曽有の事態に誰もが戸惑っていた一年前。僕は突然訪れたクリスマスプレゼントのような休日の日々に軽い苛立ちを覚えながらも、ただただ自分を律してしのいでいた。
で、いまの自分はどうなのだろう。
とりあえずゴールデン・ウィークはステイホームするしかない。彼女は北海道に帰って英気を養う。僕は『クララとおひさま』でも読んで待機する。連休明けは忙しくなるだろう。そのためのイメージトレーニングをしておかなくてはならない。
いくつか映画も見たいと思っている。たとえば「アバウト・タイム」だったり「永い言い訳」だったり。最近見た岩井俊二の「ラブレター」は秀逸だった。公開当時に見たときよりぐっと胸に迫ってきた。
音楽はどうだろう。実はあんまり聴きたいものが浮かばない。
誰かのコンサートにでも行ければその気になるんだろうけど、いまはその予定はない。相変わらずキース・ジャレットの「ブダペスト・コンサート」やピアソラを聴いている。発表会でほかの子が歌ったシューマンの「女の愛と生涯」が少し気になったくらい。あとは「マタイ受難曲」?
正直、いまはあまりクラシックは響かないのだ。
もう亡くなってしまった人のことを唐突に思い出す。
たとえば、僕を組合の道に引きずり込んだカメラマンのSさん。それまでは阿吽の呼吸でやっていた組合活動を原理原則で思い切りやったがために会社から睨まれ、最終的に退職させられてしまう。でもそれでひるむ彼ではない。解雇撤回闘争を続け、会社も組合もS支持派とS不支持派に二分されてしまう。
僕はもちろん、S支持派の筆頭だった。
Sさんが闘争半ばにして無念にもくも膜下出血で亡くなったとき、会社は葬儀出席者を厳しくチェックした。でも僕はお通夜も葬儀もきっちり通った。
最後の出棺のとき、親族の方が特別に僕を中に入れてくれた。
百合の花に囲まれたSさんの死に顔は、これ以上ないほど穏やかなものだった。
あれからもう何年になるだろう。あのときのSさんの死に顔に向かって、僕は胸を張って言えるだろうか。「悔いのない人生を歩んでいるよ」と。
自分があと何年生きられるのか、それを知ることは人生の最大の贅沢だ。
先がわからないからこそ、いまを精いっぱい生きるしかない。古今東西の人々はみな、そう信じて生きてきたのだ。
ゴールデン・ウィークを前にして、よく晴れた空をそっと見上げる。
誰の上にも等しく降り注いでほしいと願う。この柔らかで暖かい春の日の光よ。