カラヤンとフルトヴェングラーを聴き比べる。
8月から、CREEK HALLで新しい試みをやろうと思う。名付けて「火曜名曲サロン」。毎月最終火曜日の午後、クラシックの名曲を美味しい珈琲とちょっとためになるお話とともに提供しようというもの。講師はほかでもない、この僕だ。
いくつか考えているテーマのひとつが、「今月の聴き比べ」。第1回は、恐れ多くも「カラヤンvsフルトヴェングラー」と銘打った。
おそらく全世界のクラシックファンにアンケートを取ることができたら、軍配はフルトヴェングラーに上がることだろう。いや、単に好き嫌いの問題なのだから、勝ち負けでないのは百も承知しているのだが、でもね。
子どものころからのカラヤンファンとしては、やっぱりひとこと言っておきたいのだ。「あのレガートは、誰も真似できないでしょ」と。
カラヤンという人は、クラシックの名曲を磨きに磨き上げ、特別なコーティングを施したうえで最新の技術を使って世の中に広めようとしたのだと思う。そのための道具がベルリン・フィルであり、カラヤンサーカスであり、ソニーのデジタル技術だった。そして世界戦略を可能にした最大の武器があの「レガート奏法」だったんじゃないか。
初めてグリーグの「ソルヴェーグの歌」を聴いたときの衝撃はいまだに忘れられない。遠くの水平線から海の水が静かに満ちてくるようなフレージング。あの曲のベストテイクだと確信している。あるいは、プッチーニの蝶々夫人第一幕の愛の二重唱のラスト、ふたりの思いが高まったまさにその瞬間に打ち鳴らされる余韻を含んだシンバルの音。これこそがカラヤンの神髄である。
かたやフルトヴェングラー。もちろんベートーヴェンの7番は文句のつけようがないし、ブラームスの3番は、最初にフルトヴェングラーのレコードを買ったものだから、あとで誰の演奏を聴いてもどこか物足りなく感じてしまうことになった。
それでも、である。アインザッツが揃わないのはやっぱりおかしいし、曲の途中で急に怒涛のアッチェレランドをかけるのは「狂気」しか感じられない。フルトヴェングラーを聴いていつも感じるのは、「ドイツ音楽の正統派」ではなく、「強烈な個性を持ったアヴァンギャルド」だ。
どちらがいいという問題ではない。この曲はカラヤン、この曲はフルトヴェングラーという聴き方があってももちろんいい。要は演奏者によって曲の様相ががらりと変わることに気づければいいのだ。それこそがクラシック音楽の醍醐味であり、「再生芸術」と呼ばれる所以なのだから。
ものの本を読むと、カラヤンとフルトヴェングラーにはさまざまな確執があった。フルトヴェングラーはカラヤンにだけはベルリン・フィルを譲りたくはなかっただろう。でも結局、ときが経つにつれてフルトヴェングラーの神格化は深まり、カラヤンはどんなにデジタル録音を駆使しても、フルトヴェングラーのモノラル録音を凌駕できなかった。皮肉な話である。
当日、どの曲を流すか、まだ決めていない。意外と「悲愴」の第2楽章あたりが面白いかもしれない、などと考えるもまた楽しいのだ。うふふ。