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「アイ・ラブズ・ユー、ポーギー」に関する覚書。


十九の春に東京に出てきた。晴れて大学生になったのだ。

その大学には一年生が一万人もいた。休み時間になると狭いキャンパスは人で溢れかえり、待ち合わせをしない限り、知り合いには会えなかった。

「地方出身者の巣窟」的なイメージがある大学だったが、予想に反して、五十人ほどのクラスに田舎者はそれほど多くなかった。なんとなく気後れする毎日。ある日、「俺の田舎、岩手だから。浪人してるけど、よろしく!」と向こうから挨拶してくれた男がいた。

それがМ。アルトサックスを吹く長髪のジャズマンだった。

どこか内気で、でも人懐こさも大胆さも併せ持つ彼と、すぐに僕は多くの時間を共にするようになった。

芦花公園の彼のアパートに何度か泊まりに行ったことがある。布団を並べて寝るとき、「悪い。こうしないと俺、寝れないんだ」と言って落語のテープを流し始めた。ジャズマンに落語好きが多いことは知っていたが、まさかそれを子守歌代わりにするやつがいるとは思わなかった。

Мには同郷の女子短大生の彼女がいた。ある日、「いまから来いよ」と言われて出かけて行ったら、鍵のかかった部屋のドアに「ごめん。今度おごるから!」と張り紙がしてあった。スマホもLINEもない時代だ。すごすごと帰るしかない。翌日問い詰めると、「いやあ、彼女がご機嫌斜めでさあ」とうそぶいた。

僕はМがうらやましくて仕方なかった。

大学を卒業しても僕らは連絡を取り合った。Мの新しい彼女は僕の彼女の友だちでもあったから、成り行きとしては自然だ。おたがい結婚してしばらくして、僕もМも同じマンションを購入した。それはたまたまだったけれど、これも縁だなとふたりで喜び合ったものだ。

そんなМが病気になった。脳腫瘍だった。

場所が悪く、手術は不可能だと言われた。人前では気丈に振る舞ったが、確実に身体の自由は奪われていった。ある日、僕はМの車椅子を押して散歩に出かけた。秋晴れの気持ちのいい日だった。でもなにを話したのかいまとなってはなにも覚えていない。

そのうち、Мは奥さんの実家の近くに引っ越していった。今後の治療も含めて、そのほうがあいつには最善なんだろう。忙しさにかまけて、僕は勝手にそう思うことにした。

それからずいぶん経って、僕はこの曲を聞いた。

キース・ジャレットのソロ・ピアノによる「アイ・ラブズ・ユー、ポーギー」。ガーシュイン唯一のオペラ「ポーギーとべス」で歌われたラブソングだ。

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キース自身、長年にわたる心の病から脱し、最愛の妻に捧げるために制作したソロアルバムの、この曲は最初のナンバーだった。

朝霧の向こうから夢のような最初の三つの音が聞こえ、抑えたピアノが切ないメロディを繰り返す。僕の胸は言いようのないノスタルジーで張り裂けそうになった。

会いに行こう。そう思った。CDを買い、帰宅途中の別の駅で降り、雨の中を歩いた。

Мはもうあまり話せなくなっていた。でも曲を聞くと嬉しそうに何度もうなずいた。「これ、プレゼントするよ」。そう言って部屋を出た。あいつになにかをあげるなんて、もしかしたら初めてかもしれないと思いながら。

それから数か月して、Мは亡くなった。

その知らせを、僕は出張中の大阪で聞いた。どうしようかと思った。どうしようもできない自分が無性に情けなかった。

お通夜に行くと、あの曲が静かに、エンドレスで流れていた。

Мの奥さんが近づいてきて、僕の耳元で囁いた。

「喜んでたわよ。毎日、何度も聴いてた。ありがとう」

僕はなにも言うことができなかった。

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ところで、なぜ「アイ・ラブ・ユー」ではなく「アイ・ラブズ・ユー」なのか。それについてはいろんな説がある。

オペラが初演された一九三五年当時、黒人たちが普通に使っていた言い回しをリアルに採用したのだとか、第三者的な気持ちを表現したかったからじゃないかとか。

要するに飾らない気持ちをストレートに表現するために、あえて文法的ではない言い回しを使ったのだ。これはあくまで僕の推論だけど。

登場人物のほとんどが黒人というオペラをユダヤ人であるガーシュインが作曲する。このことの持つ本当の意義を僕らが正確に理解するのは難しいのかもしれない。「ブラック・ライブズ・マター」を掲げる人種差別撤廃運動の広がりの中、メトロポリタン・オペラでこの作品が華々しく再演されたのも実にエポックメイキングなことだった。

しかし、いずれにしても僕にとってこの曲は、キース・ジャレットのピアノなくして決して語ることはできない。

人恋しい夜にそっと背中をさすってくれるような、忘れられない曲である。

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