僕だったら、ソルベーグにこんな歌は歌わせない。
平日の朝、事務所に通う電車の窓から見える、荒川の河川敷の光景が好きだ。
午前八時少し前。天気の良い日は川面に光が反射して、鬱々とした気持ちを一瞬にして吹き払ってくれる。列を作って登校する小学生たち、きれいに整備された誰もいない野球のグラウンド、堤防をひた走る市民ランナー。遠く向こうのテニスコートではすでに多くのプレーヤーが楽し気にボールを追っている。
ぐっと気温が下がった気持ちのいい朝、高架橋を渡りながら僕の脳裏に浮かんだのは、グリーグの「ソルベーグの歌」だった。
イプセンの戯曲「ペール・ギュント」の付随音楽の中から四曲ずつ八曲からなる「ペール・ギュント第一・第二組曲」の中の最後の曲。放浪の旅に出たペール・ギュントを待ちわびる村娘ソルベーグ。時が経ち、老いた姿を現した彼の前で、万感の思いを込めて彼女が歌う「子守歌」だ。
冬は去り 春は過ぎて 夏も終わり 一年が過ぎた
それでもわたしは信じている あなたが帰ってくると
だってあなたと 約束したのだから
神のご加護がありますように
あなたの旅路で 神の前にひざまずけば 力を授かるでしょう
わたしはここで あなたの帰りを待ち続けます
もし天上にいるのなら そこで再会しましょう わたしの愛しい人
おそらくペール・ギュントがいないあいだ、自らを慰めるために歌ったのだ。ようやく再会し、くずおれるように眠る愛しい人に向かって、彼女はこんなふうに歌って聞かせる。
そのとき、ペール・ギュントはなにを思ったのだろう。
自分にとってなにがいちばん大切だったのか。そのことにようやく気づいた彼は、最愛の人の胸の中で静かに息を引き取るのである。
この「ソルベーグの歌」、いまでこそ様々なソプラノ歌手が歌うバージョンが存在するが、昔はオーケストラ編曲版が主流だった。
圧巻だったのはカラヤンだ。
遅めのテンポをとり、音の強弱をつけず、どこまでも続く水平線のようなテヌートに終始する。カラヤン美学が凝縮されているような演奏に当時の僕はすっかり参ってしまい、以来カラヤン一辺倒になってしまった記憶がある。
歌唱版だったらアンネ・ネトレプコか。彼女のどこか憂いを帯びたメランコリックな歌声にこの曲はとてもマッチしていると思う。
グリーグと言えば、ピアノ協奏曲イ短調がことのほか有名だ。音楽評論家の吉田秀和氏は「シューマンのピアノ協奏曲の質の悪い真似」みたいなことをどこかで言っていたけれど、僕にはその大衆性が潔くて心地いい。
ほかにも是非聴いてもらいたいのが、生涯にわたって作曲し続けた全十集の「抒情小曲集」。アンコールには欠かせないピアノのマスター・ピースだ。
グリーグはピアノの名手で、「北欧のショパン」と呼ばれるほど多くのピアノ曲を残しているが、僕はどちらかと言うとメンデルスゾーンに近いんじゃないかと思っている。「抒情小曲集」の成り立ちも作風も「無言歌集」によく似ているし。
愛聴しているのはこのエミール・ギレリスのもの。選曲もいいし、ギレリスとは思えないリリックなタッチが絶妙だ。
今年もあと二週間足らず。天気だけはいい関東の冬空を見上げながら、いろんなことがうまくいってほしいと願う毎日。ソルベーグの願いほどじゃないにしろ、誰かの笑顔がたまらなく見たい、年の瀬だ。
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