目的
普段は日曜の朝なんかはテレビは見ない。
たまたまテレビをつけたらワイドなショーが映り以下のことをやっていた。
乙武氏が母校の門を歩いてくぐるという。
やはり彼の行動力と周りを巻き込んだ実行力はすごい物がある。
しかし最近の彼を見ながらなぜかそこはかとない違和感を感じるようになった。
彼のように出来っこないと言われたことを成し遂げていく姿に感動はおぼえるのだが、何か違うと思ってしまう。
多分私が障害者になったからかもしれない。
私も病気で半身不随になって満足に歩くことさえできない。だからこそリハビリをしているのだが、正直リハビリをする最終目的は一人で生活して元の仕事に復帰することだ。
しかしながら彼の今を見ているとできなかった事ができた!確かにそれは素晴らしいことに違いないが、だから?と言った気持ちが拭えない。
多分それは今持っている障害が先天的か後天的かの違いに思える。
先天的で今までできなかった事ができるようになった、それは素晴らしいしすごい事だと思う。しかしそれが一人でできる?と問うとそれは絶対無理だ。
後天的な私の場合は文字通りリハビリテーションで機能回復して元に戻したいと思ってしていた。歩けるようになった、手が動くようになった。少しだけ。
それではダメなのだ。
元の仕事に戻る、すなわち他者の援助、看護をしたいから。
その為には今の他者の援助を受ける身をどうにかしなければならない。けど、今と今までを鑑みるとそれはあり得ない。これからも援助は必要になる。そんな身体で他人を助ける?どの口が言っていると言われても仕方がない。
それならば現状でなんとかなっている今を続けれるようにするとしか考えられない。
こんなことは障害を持つ前には思いもしなかったことだ。
重心とか筋ジスの病棟での勤務経験はあるけどその時は頑張りを手伝いをしてできるようになる姿を見て素直に応援と賛辞を投げかけていた。
患者さんもその頑張りへの声掛けにこれまた素直に答えてくれていた。
感動ポルノという言葉がある。
この言葉、消費する健常者に対してかけられる言葉に思われる。
反面、消費される側の障害者は頑張って健常者を感動させなければならない存在なのか?
言い方を変えると何かにチャレンジしでなければならないのか、障害者という存在は。
その障害者が頑張っている姿を応援しているのは嬰児が頑張って歩こうとしているのを応援しているのと同じに過ぎないと思う。
嬰児が幼児になりと次第に成長していくと歩くだけでは褒められない。その先、自身である程度何でもできるようになることをもとめられるからだ。
翻って同じ様な事をしている障害者はその姿をさらして消費されるしかない。ぶっちゃけていうとその先が無いからだ。歩ける様になったから、健常者ができることの一つができる様になったからといってもそれだけでしかない。
どんなに頑張っても健常者のような生活はできない。だから見ている健常者は障害者をある意味下に見て、要するに嬰児と同一視しているからその頑張る姿を応援し、感動している様に見える。
見方を変えると頑張らない、現状をマルっと受け入れている障害者はどんな風に感じるのだろうか?
何かにチャレンジしている、頑張っている障害者をみるにつけなにも頑張れない自分を恥じるしかない。
先にも他の記事で書いたがリハビリで元に戻す、その為に頑張ってきたのだがそれが無理だと理解できてしまった今はこの状況を受け入れてしまっている。多分これが健常者として社会に居た者の考え方の一つだと思う。
反面先天的な障害者は永遠の嬰児なんだと思う。
だから頑張れる人は頑張り続けるのだろうしその姿に感動する。出来ない事ができる様になるのは嬉しい事だからだ。だけど頑張らない、頑張れない人はダメな存在なんだろうか?
乙武氏が背後に介助者を引き連れて頑張って歩いている姿を見てそんな事を思ってしまった。