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ずっと良い気分で居る方法
最近Instagramのプロフィールの自己紹介で
ずっと良い気分で居る方法の探求者って書いたんですがww
なぜかというとあることに実感を伴って気づいたからです。
私は他にはほとんど何も自信がないのに
これだけは結構な自信がある!という事があって、
それが
“ものすごーーーく深く物事を考えること”
多分思考時間は他人に負けない自信があって、
自分なりの独自の物事の捉え方が出来るようになったりして。
そうしてくうちに最近もう諦めていた
ずっと良い気分で居ることも
諦めなくて良いのかも⁉︎と思い始めたんです。
“ずっと良い気分で居る”というと語弊があるので言い換えると
“なるべく長く良い気分の状態を作る”
ということ。
なんで諦めなくていいかもと思い始めたかというと、
ようやくようやく
これまでは頭で理解していた
ヨガの目的
チッタヴリッティニローダハ
心の作用を止滅させる
が実感を伴って分かってきたことと関係があります。
超考える
⇅
答え出さずにグレーで過ごす(無になる)
これを何年繰り返したか、、。
ニーチェに辿り着いたり
マルクスアウレリウスに行ったり
仏教・禅に行ったり、、色々。
なんか行き着くところまで行き着いた感覚になって、
八方塞がりで過ごす、、
みたいなこともたくさんありました。
だけど、
こうやって何年も過ごしているうちに、
このチッタヴリッティニローダハの実感に伴って、
ヨガでいう
見るもの(観察者)=プルシャ
見られるもの=プラクリティ
もやっと自分なりの実感として分かってきた。
(こういうヨガ哲学って、頭で理解は出来ても実感がなかったり、一時的で持続性がないし実用的でもないと思っていた。ヨガ哲学だけ学ぶのじゃ私は分からなくて、上に書いてあるいろーんなものに触れて考えて、めちゃくちゃ自己対話して気づいた)
「心(感情)に振り回されずにいつも観察者であること。」
これが基盤中の基盤で、
もっと言うと、
心(感情)って
自分の強い観念(思い込み、信条)によって
勝手に暴走したりする。
だから、
強い観念が作り出した心(感情)に振り回されて苦しくなる自分は、
”これは本来の自分の姿ではない”
と気づくことが大切。
自分は、もっと違った、
より良い観念を持てる存在であると知る。
そして、
その平和な観念を持てた時、
心(感情)は穏やかで良い状態にいることが出来る。
これこそがヨガの目的、
チッタヴリッティニローダハ。
だからこれが分かると、
“なるべく長く良い気分の状態を作る”
ことってできるなあってちゃんと実感を伴って思えてきたんです。
(何回も言いますが、これまで頭では分かっていたけどやっと”実用性のある概念”として実感を伴って分かってきました。)
心に飲み込まれそうな時は、
「それ私のせいじゃない。観念と心のせいだなあ。」
って思って観察者になる。
ここ大事なので2回書きます。
「それ私のせいじゃない。観念と心のせいだなあ。」
って思って観察者になる。
この癖づけが大切で、
自分の世界は自分が作っていると真に理解していく。
これが通常運転で出来る私になれば、
どんな環境に居てもどんな私でも
頭で理解する幸せじゃなくて、
実感と体感を伴った幸せを感じ続けられる私で居られるんだろうなあ。
ということで、
まだまだ完全なるハッピーへの発展途上である私は
しばらくは
“ずっと良い気分で居る方法の探求者”
として居てみようと思います。