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【妊婦編①】切迫流産で入院しました(11 ~13週)

こんにちは、hinacoです。前回の記事に書いた通り夫が有職者になったのも束の間、妊婦の私の身に事件が起こります。この記事では、切迫流産と診断され入院に至るまでの経緯と、入院してからどのように過ごしたのか記していきたいと思います。


とある日の午前3時前、下半身が水に濡れたような不快感で眼が覚める。「妊娠してるから生理も来ないはずだし、まさかおねしょ??」と思って部屋の電気を付けると、シーツには半径15cmほどの大きな血の染みが広がっていた。お腹に痛みはない。ちなみにパンツは血でぐっしょり。

別室で眠る夫を急いで起こし、パニックになりながら通院している産婦人科に電話する。お産も対応している個人院なので、24時間電話が通じるのが幸いだった。助産師さんからすぐにタクシーで病院へ向かうよう指示を受ける。

タクシーに揺られ5分ほどで産婦人科に着く。車中では、夫がずっと手を握って背中をさすってくれていた。会話は無かったけど、あの血の量を見たらとても赤ちゃんが生きているとは思えなかった。

私たちの心配をいい意味で裏切ってくれ、エコーで確認してもらうと赤ちゃんは元気な心音を聴かせてくれた。内診台の上でポロポロと涙が頬を伝わるのが分かる。

医師からは切迫流産の診断を受け、自然に出血が止まるのを待つしかないと言われる。血腫があり、そこから出血を起こしているとのことだった。この時期の流産は防ぎようがないから、仕事をしても休んでもいいし、入院してもしなくてもいいと言われた。心身ともに限界を感じていた私は、「仕事を午前中で引き継いで、今日の夕方から入院したいです」と医師に伝えた。

バタバタと在宅勤務で引き継ぎをし、夕方に再度病院へ向かい入院。夕方には出血もおさまっていて、赤ちゃんも無事だったし仕事も休めるしで、不測の事態ではあるものの、仕事も家事も休める解放感が正直心底嬉しかった。それくらいには疲れ果てていたんだと思う。

入院して5日目頃の午前3時前、生理2日目くらいの出血があった。すぐにナースコールし、診察してもらうが赤ちゃんは元気な心音を聞かせてくれた。この日以降、微熱や少量の出血はあるものの、だんだんオリモノも茶色くなってきて回復傾向にあった。9日目にして退院になる。

ただ、もう私は仕事をする体力・気力が残っておらず、医師に「安定期に入るまで仕事を休む」という旨を母健連絡カードに書いてもらった。この時男性医師だったので「え?(これくらいで)休むの?」というようなことを言われたが、助産師さんには「悪阻で体重も減っていて心配だし休みましょう!」と労いの言葉をもらえた。この時の男性医師の言葉は一生忘れないし、助産師さんには一生頭が上がらない。


退院後、色々な疲れが出たのかつわりで吐くことが増えた。夫も倒産・無職→就活→内定→切迫流産で妻入院、と次々と困難が降りかかる状況に疲れが出てしまい動けず、ずっと横になっていた。※内定から入社日まで2ヶ月と少し猶予があった。
夫婦ともに家事をするのもしんどく、夫が気を利かせて2日ほど義母を召喚してくれた。めっちゃ申し訳ない気持ちになりつつ、背に腹は変えられないから家を掃除してもらって食事も準備してもらった。

つわりで家事もままならず、安定期までの半月の間、私だけ中国地方の実家で過ごすことを夫と決めた。私は在宅勤務なので、「関東に帰るのが難しければ、そのまま産休まで実家で仕事してもいいしね!」と夫も言ってくれた。元々里帰り出産を希望していたこともある。

ただ、一人で電車と飛行機を乗り継いで移動するのは、何かあった時を考えると怖かったので、母に迎えに来てもらうことにした。母が関東の我が家に来てくれたが、つわりで吐き気もあったので移動できそうな日まで待ってもらった。2、3日後にようやく調子のいい日があり6時間ほど電車と飛行機と車を使って実家まで移動する。


実家に帰ってからは、外出せずほぼ家で過ごしていた。規則正しい生活で、いい意味で入院しているみたいに過ごせた。久しぶりに両親とゆっくり過ごす時間は、とても良い時間だったと思う。このまま無事安定期に入ってくれればと願わずにはいられなかった。


そんな願いも叶わず、1週間後、私は救急車で運ばれることになる。


本日もお読みいただき、ありがとうございました。

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