男が好きで、男が嫌いで。#9-ホモのホモフォビアー
男って疲れる。
男社会にずっと身を置いていると、定期的に「男疲れ」(私が勝手にそう言っているだけだが)なるものに襲われる。
野郎だけでいるの最高! な時期と、男ってほんとバカばっかだな…… と辟易する周期を延々と繰り返しながら30年以上生きてきた気がする。
このサウナ→水風呂のような激しいアップダウンがあるワンセットのお陰で、このホモソーシャル沼で”整って”しまい、ズブズブと何十年も浸かってしまっているのだと思う。
※ホモソーシャルが楽しい理由は「男が好きで、男が嫌いで #2ー男になりたい男たちー 」をご一読いただければと思う。
しかし、男とばかりつるんでいると、どうにもこうにも気分が疲弊することがしばしある。
特にここ数年の私は、本当に男だらけの世界、ゲイヴィレッジ(狭いこの界隈を勝手にそう呼んでいるだけ)に住んでいるので、学生の頃よりこの「男疲れ」を顕著に感じている。
自分の気持ちを話すのが苦手な男性たちは、お喋りというコミュニケーションがそこまで得意ではない。他愛もないことを話すスキルがあまりないのだ。そこでゲームやスポーツなどのなにかを媒介してコミュニケーションをとることが多いように思う。
この私の主張に、そんなことねえよ! と一部ご指摘が入りそうではあるが、大抵の男性たちの”お喋り”の内容といえば、「議論」もしくはいかに面白さを競うかといった「大喜利」のどちらかだと思っている。
あ、今これについて議論しなきゃいけないのか……
あ、今気の利いた面白いこと言わなきゃいけないのか……
と、それに気づいた途端「男ってほんとバカばっかだな……」と、スカした顔してすぐさまその場から立ち去りたくなる。(だって自分はその戦場だと負けてしまうから。)
イケてない。モテない。面白くない。楽しめてない。強くない。
何に疲れるのだろう。なんかあの独特な同調圧力? Twitterのタイムラインを見ているだけでイライラしてしまうのは何故なんだろうか。
負けた感? ああ、もしかしたら私は「男」に対して常に敗北感を感じているのかもしれない。
自分が誰かと比較してしまっているだけなのだけど、他の男たちと競って植え付けられた物差しというものが、ずっと自分の心の中にあり続ける。そしてその物差しは、本来の自分が持っている物差しよりはるかに大きく、重たい。
知ってる。自分の幸せは自分が決めるんでしょ?
知ってる。足りないもの数えるくらいなら、足りてるもの数えた方がいいんでしょ?
んなこた知ってるけど、誰かに肯定してもらわないとどうにも解けない呪いがあるんだってば!!
てか、肯定してもらったって、どうにもならない時だって数えきれないくらいある。いくら「君はそれを持っているよ」と言われても、自分が手に入れたと思わなければ、そんなの持っていないも同然である。(逆に持っていなくても、持ってると過信して振る舞うことだってできてしまう)
自己肯定感の話に逸れてしまったので、「男疲れ」に話を戻そう。
先ほど、敗北感を感じ続けていると述べたが、そもそも僕たちは比べたがるのが好きなのかもしれない。ちんこの大きさに始まって、セックスの数、経験、収入に至るまで、男たちは比べる材料を多く持ちすぎている。しかもきちんと数字でわかるようなものばかりを。
そこに+αされた、それぞれの価値観でしか解の出ない比べ合い(美醜や感性)にもSNSなら数字でわかるようになってしまった。地獄だ。
「見下す」処世術
こんな戦場で、どう戦えばいいのか。
手っ取り早い男の処世は、他者を「見下す」ことだと思う。
中学・高校生だった時分、私はとにかく(同性の)同級生を見下していた。常にではない。何かしらで劣等感を感じたときに「バカだな」と見下していた。
男として勝てない! と感じたとき、他の男たちのことを「バカだな」と思ってその場をしのいできた。いや過去形じゃない、きっと今もそれは続いている。誰かを見下さないと劣等感に埋もれてしまうから。
自分のことは神棚に奉っておいて、相手のことはいくらだって悪く言える。
口に出して言わないにしても、たしなめたつもりになって大人の顔してその場をやり過ごしてたりする。
自分も他の男を見下すから、見下されたときのフッ…… と相手の視点が落ちる感じを知っている。「あ、今見下された」と瞬時にわかる。
どちらが悪い、とかそういう話をしたいのではなく、この処世術を暗黙で自分を含める多くの男たちに感じてしまう。それを体感した瞬間、ダッシュでその場から走り去りたくなるのだ。もちろん自分自身からも。
ホモのホモフォビア
まだ自分のことがゲイかどうか自認していなかった頃、深淵を覗くような真似はよくしていた。
巨大匿名掲示板である2ちゃんねるの同性愛サロンに、こんなスレが立っていた。
「ゲイだけどゲイが嫌いなゲイ」
2ちゃんねるを心底嫌っていた当時の自分が、わざわざ見に行ったということは、それなりの熱量で悩んでいたのかもしれない。
とにかく、なんとなくその覗いたそのスレには、自分が言語化できていなったモヤモヤや、自分自身が当事者であるような書き込みが連続して文字になっており、スレの最後がこう締めくくられていた。「ホモのホモフォビア」と。
鮮明に覚えている。それだけ強烈なパンチラインだった。
ホモフォビアの意味するところが、同性愛者を嫌悪するといった意味でしばらく認識していたのだが、ついこないだ英語でのホモフォビアの意味が「同族嫌悪」であるということ知って、あーね、と何かが腑に落ちた。
嫌気がさしているのは、ホモに対してというよりも、ホモとしての自分自身にだったってことね。と。
結局何が言いたかったのか、書いている私もわからない。
自己嫌悪オチで終わらせたくないので、今回のnote、おそらく加筆か修正が後に行われるとが思うが、現時点で書けることは書いた。
今これを書きだしているだけで頭がパンクしそうなほど疲れるのだから。整理するのにはもう少しだけ時間が欲しい。