見出し画像

最悪のシナリオを想定して生きる

慎重すぎる性格故かただ傷つくことがこわいのか、私はいつも最悪のシナリオを想定して1回想像の中で最大限に自分を凹ませてから生きている。

今まで私が考えた最悪のシナリオたちは起こったことがない。まあ「最悪」を考えているわけだから、そんな「最悪」が何回も起こるようならたぶんもう死んでいる。最悪のシナリオで1回ダメージを受けておくことで、現実に起こったことに対して耐性がつくのだ。それが悪いことであったら、想像よりはマシだと思えるし、いいことならばホッとする。

未来のことを考えられる人間だからこそこんなことをしてしまうんだな。考えられるからリスクを回避できるし、突発的なことにも冷静に対処できる。それが人類の素晴らしい長所であることには間違いない。でも、私はちょっと考えすぎてしまうからまだ起こってもないこと(もしかしたら一生起こらないこと)にエネルギーを使いすぎて勝手に想像の中で自分を傷つけ過ぎた。


今年の3月に「花束みたいな恋をした」を見に行った。恋愛もののドラマや映画が苦手で普段自分から見たりすることはないのだけど、この映画はどうしても社会人になる前に見ておきたかった。

映画の予告でこれは社会人になって少しずつすれ違っていくふたりを描いたものだとわかった。私はそのとき大学4年生であと1ヶ月ほどで社会人になる予定で、大学3年生のときから付き合っている恋人とこの春から遠距離恋愛になることが決まっていた。この映画を見ておけば恋人に振られたときのシュミレーションができるなと思ってそれでどうしても見たかった。

友人に「花束みたいな恋をした」っぽい曲を教えてもらって毎日聞いた。曲に浸ってまた私はいくつものパターンで振られるシナリオを考えた。もう妄想の中で笑えるくらい振られまくっている。そうして自己防衛しておかないと、いざ現実で振られてしまったときに私はバラバラに砕け散って人の形を保てないような気がする。

そんな、転ばぬ先の杖のような気持ちで映画を見に行った。感想を一言で言うのなら、「私が将来恋人に振られたら見る映画にしよう」と思った。私はまだ時間をかけて丁寧に大切に付き合った恋人と別れたことがなかったから(そんなふうに人と付き合ったことがないために)今の恋人と別れたときに真にこの映画が心に染みるのだと、そう思った。映画館ではラストシーンで隣に座っていた人たちみんなが泣いていて、泣けない自分が浮いていた。私が泣くのはまだ早かった。泣く日が来ないといいなとは思っている。


今日も私は考えて考えて考えすぎて息がつまりそうになっている。どこかの研究成果で、「心配事の80%は起こらない。残りの20%も自分の対応次第で回避できる」というのを見たことがある。たしかに、私の考えはいつも杞憂に終わる。自分の心を無駄に疲れさせているだけのような気もする。それでも、予想せずに「最悪」が起こることのほうがこわいのだ。

今しか見ずに突っ走れたらもっと楽なのに。出された分のごはんを残すことなく全部食べきってしまう愛犬のように生きたい。



2年くらい前に書いてた。今は「花束みたいな恋をした」をみて、きっとあのとき隣にいた彼女たちのように涙を流せるのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?