北方領土問題

解決しない北方領土問題

我が国の領土である北方領土
何故ロシアの手に渡ったのか
何故ロシアは返してくれないのか
今日までの北方領土の歴史を
澱みなく述べられる日本人は
一体どのくらい居るだろうか

急にロシアだウクライナだ中国だと
地政学を熱く語っても
興味を持たれなければ意味がないので
我々日本人に馴染みのある問題
特に道民の私にとっては
見て見ぬ振りは決してできない
北方領土問題を初回で取り扱いたい
ロシアも絡んでくるので丁度良いと思う

北方領土とは

北海道本島の東に位置する
国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島
主にこれら4つの島に対することを指す
一般的には北方領土と呼ばれる
日本国の法律内の用語では
北方地域と呼称されている

かつてはアイヌ民族などの
先住民が居住していた島嶼だが
1855年から日本の領土となった
それよりも前から多くの日本人が
この地域に渡航すると共に
徐々にこれらの島の統治を確立

対してロシアはどうかと言うと
択捉島のすぐ側に位置している
ウルップ島よりも南にまで
勢力が及んだことは一度も無い

1855年に日本とロシアの間で
平和的且つ友好的な形で調印された
日魯通好条約(下田条約)
では
自然と成立していた択捉島とウルップ島
その間の境界線を国境として確認

それ以降北方四島がロシアを含めて
外国の領土となったことは一度も無い
日本人は台湾や韓国、中国などを
日本のお隣の国だという認識で
意識の外にある人が多いと思うが
ロシアも日本の立派な隣国なのである
北海道最北端から直線距離で約40km北に
このロシアという国は存在している

元々日本とロシアの間には
領土問題は存在しない筈だった
のである
しかし、未来は決してそうならなかった
そしてこの1855年を皮切りに
ロシアと日本の間において
この北方領土という島嶼は
日本がロシアと結ぶ条約にすら
守られることなく奪われてしまう

ここからは分かりやすく
時系列に沿って説明していく
重複するが日魯通好条約を含め
北方領土をロシアに奪われるまで
どういった経緯があったのか
順を追って知って欲しい

北方領土が奪われるまで

この北方領土問題については
主に第二次世界大戦前と後で語られる

第二次世界大戦前

日魯通好条約(1855年)

日本はロシアよりも先に
北方領土を発見 / 調査しており
少なくとも19世紀初頭には
四島の実効支配を確立
していた
ロシアも自国の領土の南限を
ウルップ島までと認識
しており
その後の日魯通好条約において
択捉島とウルップ島という
自然発生的に生まれた境界線を
日本とロシアの国境線であると確認

樺太千島交換条約(1875年)

日魯通好条約から20年後
日本はこの条約によって
千島列島にあたるウルップ島から
カムチャッカ半島までの島嶼を
ロシアから譲り受ける代わりに
ロシアに対して樺太全島を放棄

ポーツマス条約(1905年)

日露戦争後のポーツマス条約
これにより日本はロシアから
樺太の北緯50度以南を割譲される

※ポーツマス条約(日露講和条約)
条約の内容としては、
ロシアは日本に対して一切の賠償金を支払わず
日本軍が占領していたサハリン島のうち
南半分を日本へ割譲、日本の領土とし
ロシアが有していた中国東北部の権益は
日本に譲渡されるというもの

第二次世界大戦以降

日ソ中立条約(1941年4月)

日本とソビエト連邦が結んだ
領土保全と不侵略を相互に約束した条約
同条約の有効期限は5年間(1946年4月まで)
期間満了の1年前に破棄を通告しなければ
5年間自動的に延長される規定
となっており
ソ連は1945年4月に延長しないと通告
後継国家であるロシアは後年において
一方的に反故にしたこの条約について
“日本に軍事作戦を続けさせる動機を失わせた”
ソ連参戦を正当化する姿勢を強めている

大西洋憲章(1941年8月)及び
カイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の原則

大西洋憲章とは1941年8月に
米英両首脳は第二次世界大戦における
連合国側の指導原則とも言うべき
大西洋憲章に署名を行い
戦勝によって領土の拡張は求めない
という方針を明らかにした
これにはソ連も参加を表明している
カイロ宣言とは1943年11月
大西洋憲章の方針を確認しつつ
“暴力及び貪欲により日本国が略取した地域”
から日本は追い出されなければいけない
という宣言のことを指す
ただし、ここで言う”日本国が略取した地域"
北方四島が該当しないと言うことは
歴史的背景から見ても明白である

ポツダム宣言(1945年8月受諾)

ポツダム宣言とは
“暴力及び貪欲により日本国が略取した地域”
そこから日本を追い出さなければならないとした
1943年のカイロ宣言の条項履行の旨と
日本の主権が本州、北海道、九州、及び四国
並びに連合国の決定する諸島に限定される
旨を規定
しかし、当時まだ有効であった日ソ中立条約を
ソ連は反故にし1945年8月9日に対日参戦した
日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を継続し
1945年8月28日から9月5日までの間に
北方四島を不法占拠し実効支配
した
因みにこの四島の占領を行う際に
日本軍は一切の抵抗をせず武器を放棄し
占領完了まで完全無血で行われたという

極東密約(ヤルタ協定)(1945年2月)

アメリカのルーズベルト大統領と
ソ連のスターリン書記長による秘密会談
後にイギリスのチャーチル首相も交えた
この秘密協定は極東密約とも言われる
ルーズベルトは太平洋戦争の終結に必要な
日本の降伏に"ソ連の協力は欠かせない"
ここでソ連が計画していた対日参戦について
日ソ中立条約の一方的破棄と参戦を促した
連合国が戦争に勝利した後の
世界の枠組みについて議論された
この会談の中でソ連が参戦する条件は
“クリル諸島(千島列島)を領有すること"
これについて首脳らが合意をしている
※北方四島は千島列島に含まれない

サンフランシスコ平和条約(1951年9月)

日本はこの条約により
ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と
千島列島に対する全ての権利、権原
及び請求権を放棄
した
しかし、そもそも北方四島は
千島列島に含まれていない

また、ソ連はこの条約に署名しておらず
同条約上の権利を主張する立場に無い

あとがき

我が国の領土である北方領土が
ロシアに奪われるまでの経緯である
一方的に条約を反故にし
武力で以って領土を侵略し
終始正当性の無い主張を繰り返す

日本の隣国であるロシアは
こういう国なのだということを
日本人は理解していないといけない

このロシアによる北方領土侵略において
ポイントは戦争がまだ終わっていない
ギリギリのタイミングで攻め込んできたこと

日本人の多くは終戦日と聞くと
1945年8月15日に大東亜戦争終結について
天皇の肉声が放送された玉音放送を連想するだろう
ところが、実際の国際法上の日本の終戦は
1945年9月2日に降伏文書に調印した日
である
日本の終戦日から半月ほどの間は交戦状態であり
その隙を突いてロシアは北方四島に攻め込んだ
ポツダム宣言の概要にも記載しているが
“1945年8月28日から9月5日までの間に
北方四島を不法占拠し実効支配した”
のである
つまり、9月2日から9月5日にかけては
既に国際法上も終戦となっている中で
攻め込み占領し実効支配をした
ということ
戦争が終わり降伏した日本としては
無血で明け渡さざるを得なかったのだ

とてつもなくざっくりとした流れだが
ぼんやりしていた北方領土問題について
少しでも明瞭になってくれたら嬉しい
次回は北方領土問題を日本はどう解決していくのか
どういう方針でロシアと対話していくのか
日本の視点に立って書いていきます

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