おじいちゃんの話

アルツハイマーのうちの祖父(83)に肺がんができて、それが前身に転移しているという連絡が家族のグループLINEに入った。あと何ヶ月もつかわからないので、正月までには一度帰ってくるように、ということだった。
10月に一度鹿児島に帰る用事があるのでそれに合わせるのがいいかもしれない。
1月はおそらく、とても忙しくなると思う。色々、家族をしなくてはいけなくなるので。
そうしてふ、とおじいちゃんのことを思い出したので、少しだけここに書かせてもらいます。

うちは母子家庭で、2つ下の弟が中学にあがるまでは、祖父母の家で暮らしていた。
なので私は中学2年まで別宅がある暮らしをしていた。毎週水曜が母が務めていたスナックがお休みだったので、それに合わせて実家に帰り、自分の部屋で寝る、ということをしていたのを最近思い出した。
母は朝から晩まで私達を育てるために働いてくれ、祖母がおせっかいやきでしつけもしてくれていたので私達姉弟はすくすくと素直ないい子に育った。と思う。お母さんの「母子家庭だからって絶対になめられたくない」という意思が強かったため、裕福ではなかったものの、貧困だと感じたことは一度もなかった。
おばあちゃんは30のときに一から看護師の勉強をし直すくらいにはバイタリティのある人だったし、母は言わずもがな頑張りやさんで、かくいうわたしもたくさん習い事をがんばり、具体的にいえば陸上で全国大会にいけるくらいには頑張った。これは母と、祖母の「血」だろう。

祖父は、静かな人だった。
祖父はタクシーの運転手だった。昔はバスも運転していた。たくさんの小銭を持っていて、高価な金色の時計をしていた。
朝食は毎日ごはんとお味噌汁、お昼も自宅で食べて、夜はお刺身を肴に焼酎を飲みながら野球中継と時代劇を見ているような、武士みたいな人だった記憶がある。
戦争があったとき近くに爆弾が落ちてきた影響で左耳がよく聞こえなかったので、テレビの音はいつも大きかった。
それから、メジロを飼うのが趣味で、メジロの鳥かごを作るのが得意だった。よく餌やりを手伝っていた覚えがある。
弟とよく釣りに行っていた。うるさい女ばかりの家で、一番弟が可愛かったのだろう。
わたしが初めてのバレーの大会で寝坊をしてしまったとき、ダッシュで送ってくれたこともあった。

祖父とはあまり会話をした記憶がない。
今思うとあまり子育てに積極ではない世代で、特に何も考えていない人だったのかな、と思う。
おしゃべりな祖母にはちょうどよかったのだと、今になってはそう思うけれど、どうなのだろう。
5年くらい前に脳梗塞で倒れて、そこからずっと施設で暮らしている。
誰も面倒を見きれないというのが現状だ。
もうわたしの顔はわからない。2年くらい前までは、まだわたしたちは小さな子どもで、「あいつらはどこに居る?」と祖母に聞いていたらしい。でも、もう近所のお姉ちゃんくらいの認識になっている。
痩せこけてしまってもう入れ歯も入らなくて、何を言ってるか聞き取りづらい。でも昔よりおしゃべりだし、ユーモアのある受け答えをするし、わざと口うるさい祖母の無視をしたりする。わたしたちが生まれる前は、もしかしたらこういう人だったのだろう。

何度も「もうだめかもしれないね」という話が上がっていた。
でも、本当にもう、そこに来ているんだなあ。
「最期に会えなかった」ということが多分一番辛くなると思うので、できる限りは帰りたいとは思う。
私のことを覚えていなくても、私はこの記憶を大事にしていきたいな。

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